とある魔術の禁書目録4 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから○字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録4  学園都市から外出許可を得、家族と一緒に海ヘバカンスに来た上条当麻。  そこで彼が見たものは、母親がインデックスで、インデックスが青髪ピアスで、神裂火織がステイルで、ステイルが海のオヤジで、御坂妹がその息子で、御坂美琴が当麻の妹で!?  それは、�とある魔術�が原因だった。  謎の魔術『|御使堕し《エンゼルフォール》』が上条当麻を中心に展開したらしい——!?  大人気学園アクション第四弾登場! [#改ページ] 鎌池和馬 あらゆる創作活動には作者の内なる願望が表れるモノだと、ある心理学の先生は言います。これを念頭において、改めて電撃作品を読み直してみるとまた違った楽しみが増えるのですが……あれ? そうすると鎌池の願望って……。 イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ 1973生まれ、資料撮影用にデジカメを買いました。早速、外出して撮りまくりといきたい所ですが、何かと忙しいのでその機会もなかなわ、訪れなかったり。 [#改ページ]   とある魔術の禁書目録4 [#改ページ]    c o n t e n t s      序 章 現実世界のパラレルワールド    第一章 魔術世界のヘクスサスペクト    第二章 戦闘世界のディティクティブ    第三章 有害世界のエンゼルフォール    第四章 単一世界のラストウィザード    終 章 日常世界のマイベトレイヤー [#改ページ]    序 章 現実世界のパラレルワールド  八月二八日、天気超晴れ。  おにいちゃーん、という女の子のミルキーボイスで高校生・|上条当麻《かみじようとうま》は目が覚めた。 「……、何だ。今のトリハダボイス?」  上条は半分寝ぼけたまま、うっすらと目を開けた。体に掛けていたはずのタオルケットが横合いでくしゃくしゃに丸まっているのが見える。  女の子の声は、ドアの向こうから聞こえたみたいだった。  横倒しの視界に映るのは六畳一間の和室。床はボロボロの畳張りで、|天井《てんじよう》には古めかしい四角い電灯カバーのついた蛍光灯、油っぽい汚れのついた押し入れの|襖《ふすま》に家のトイレにでも使われていそうな簡単なカギのついた木のドア。エアコン代わりの扇風機はプラスチックのボディが黄色く変色していて、ちょっと鼻を動かすと潮の香りがした。  ここは|学生寮《がくせいりよう》の一室ではない。学園都市の中ですらない。  一般世界・神奈川県の某海岸。海の家『わだつみ』の二階にある、客室なのだった。  別の部屋にはそれぞれ、上条の両親やインデックスもいるはずだ。 「……、そっかー。『外』来てたんだっけかー」  上条はぼんやりする頭で、ブツブツと独り言を|呟《つぶや》く。  上条の住んでいる超能力開発機関『学園都市』は東京西部に存在する。よって、内陸に位置する学園都市の住人にとって、海ほど縁の遠いものはないのだ(まあ水産学校などに行くと水族館じみた海水プールなんてものもあるのだが)。  そして、学園都市では機密保持と各種工作員による|生徒《サンプル》の|拉致《さいしゆ》の危険性などを|考慮《こうりよ》して、極力学生を街の外へ出す事を好まない。許可をもらうには三枚の申請書にサインをして、血液中に極小の機械を注入して、さらには保証人まで用意しなくてはならない、のだが。 (けど、来ちゃったんだよなー、海)  上条は自分の右の二の腕をさする。|無痛注射針《モスキートニードル》の|痕《あと》は、触った程度では分からない。  今回のケースは異例だった。普通は学生が申請書を書いて『外に出してくださーい』と先生にお願いするのだが、上条は先生から『外行ってろバカ』と命令されたのである。  上条は一週間ほど前に、学園都市で最強の|超能力者《レベル5》を倒していた。  夏休みで生徒間の交流も少ないのに、その|情報《ウワサ》はあっという間に街中に広まった。それで上条当麻の地位が|飛躍的《ひやくてき》に向上したかというと、そうではなくて。  そっかー、あの|無能力《レベル0》バカをやっつければ学園都市最強の称号がもらえるんだー、という意見の元、腕に覚えのある街の不良さん|達《たち》が大々的な|人間狩り《サバイバルゲーム》を始めてしまったのだ。  この|騒《さわ》ぎに頭を抱えたのが学園都市の偉い人で、『チミチミ、|上条当麻《かみじようとうま》クン。こちらの情報統制で騒ぎは治めるから、それまで無用な混乱を生まないようにどっか行ってたまえクソバカ』と、まあ事情はこんな所である。 (けど、まあ。|行き先《チケツト》には明らかに悪意が感じられんだよなー)  上条は大きく|欠伸《あくび》をした。今年は太平洋沿岸で巨大クラゲが大発生したおかげで、猛暑にも|拘《かか》わらず海の客足はゼロに等しかった。そうでなくても、外出には保証人の同行が義務付けられている、保証人、なんて言ってもようは親だ。|可愛《かわい》い女の子やキレイなお姉さんとならともかく、何が|哀《かな》しーてこの|歳《とし》で両親と海辺ではしゃがなーてはならないのか。  しかし、この程度で終わったのなら良しとしなければならない。  学園都市最強の|超能力者《レベル5》を倒した事で、上条は研究所単位の大きなプロジェクトを中止に追い込んでいる。熔偉い方の中には上条を目の|敵《かたき》にしている者もいるかもしれない。それでも上条に大きな圧力が加わらないのは、|一方通行撃破《アクセラレータげきは》のウワサによって街中の目が上条に向けられ、研究者達が大っぴらな行動を取ればすぐに知れ渡ってしまうから、という理由があるからだろう。  だが、寝ぼけ|眼《まなこ》の上条にはいまいち|緊張感《きんちようかん》というものがない。 (……うう、ねむ。もうみんなは起きてんのか)  ぼんやりと一人、向かいの部屋でぐーすか眠りこけているだろう白いシスターの事を思い浮かべる。彼女は|部類《カテゴリ》で言うなら『可愛い』『女の子』だろう。が、あの幼児体型の水着姿を見て『まことによい夏の思い出になりました』と感涙するのは人としてどうかと思う。  デパートの水着コーナーの試着室からおっかなびっくり出てきた彼女を見た時はドキリとしたけど。  ついでに言うなら水着にくっついていた値札のゼロの多さにもドキリとしたけど。  ちなみに、その白いシスターは当初、海の家『わだつみ』までやってくる予定はなかった。 彼女はお留守番だったのだ。|三毛猫《みけねこ》と|一緒《いつしよ》に|小萌《こもえ》先生の家で預かってもらうはずで、水着にしたって学園都市内のプールに遊びに行くために用意したものだった。  考えてみれば当然の話だが、その白いシスターは学園都市の人間ではない。いわば密入国しているような状況で、そんな少女がノコノコと国境線へ向かえば|警備員《アンチスキル》に捕まるかもしれない。外出許可の書類だって申請できないのだ。  しかし、白いシスターはそんな事情など知った事ではない。お留守番命令を受けて、ついには涙目になった白いシスターの視線に上条は耐えられなくなって、  結果、密出国に挑戦してみた。  簡単に言えばタクシーを呼んで、インデックスには後部座席の下に寝そべってもらった状態でゲートをくぐってみた。うわこんな安い方法で|大丈夫《がおいじよりつぶ》かと上条は思っていたが、案の定ゲートの所で引き止められた。どうも|熱源探知《IRシーカー》や|磁気透視《MRIスキャナ》があるらしい。  ヤベェ逮捕ですか? と|上条《かみじよう》の身が凍ったが、ゲート管理をしている|警備員《アンチスキル》は特に怒らなかった。モニタで照会したら、『|臨時発行《ゲスト》』IDが登録されているのだとか。  当然、上条もインデックスも身に覚えがない。 (一体、|誰《だれ》がやったんだ?)  ID登録には指紋、声紋、網膜パターンを端末に入力する必要がある。まあ、声や目は高解像度ビデオカメラでもあれば盗み取る事も可能だし、指紋だって警察の|鑑識《かんしき》がやってるみたいに、アルミや炭素の粉末を使えば簡単に採取できる。  でも、何でそんな面倒臭い事を?  上条は疑問だったが、顔には出さなかった。わざわざ|警備員《アンチスキル》に疑いを持たせる必要もない。暴れるインデックスを押さえつけて|発信機《ナノデバイス》を注射してもらうと(実際、|無痛注射針《モスキートニードル》なので痛みはないのだが)、首を|傾《かし》げながらも正々堂々とゲートをくぐった、という訳である。 (う、ぁ、ねみー……)  うつらうつら考えていた上条は、タオルケットを頭から|被《かぶ》って再びまどろみに身を任せた。夏休み夜型行動パターンが身についた上条にとって、朝はまだ眠気の中だ。ぐんにゃりと溶けた|飴《あめ》のような|睡魔《すいま》に甘んじる上条だったが、その時また『おにーちゃーん、おーきろー』という女の子のステキボイスがドアを突き抜けて廊下の方から飛んできた。  宿泊客の中にダメ兄貴とシッカリ妹のコンビでもいるのかな、と上条は思った。何ですかその|魅惑《みわく》の組み合わせは、こちとら身の周りにいる女の子なんて|禁書目録《インデツクス》とか|吸血殺し《デイープブラッド》とかブッソウな人|達《たち》ばかりですよ、と上条はうつらうつらしながら考えていたが、(けど、巨大クラゲ大発生で海の客足。はぜロのはずじゃ……)  ふと疑問に思った|瞬間《しゆんかん》、ズバーン!! という|大音響《だいおんきよう》と共に部屋のドアが開け放たれた。  何だ何だ何ですか!? と上条がくるまっていたタオルケットの中から顔を出そうとする前に、トコトコと女の子らしい、体重の軽い足音が近づいてきて、「ほーら、いつまで寝てんのよう、おにーちゃーんー 起きろ起きろ起きろ起きろー」  |可愛《かわい》らしい女の子のドリームボイスと共に、|衝撃《しようげき》のボデイプレス。  げぼあ? と腹の辺りに直撃した女の子の全体重に上条は悲鳴をあげる。マンガやギャルゲーの中ではお約束の動作だが、ようはプロレス技である。  上条はがはげほとタオルケットの中で|咳《せ》き込んだ、おかしい、上条|当麻《とうま》に妹などいない。こんな事をされるいわれもない。冷静に、今タオルケット越しに腰の辺りに触れている柔らかい質感が女の子のどこの部分なのかを考えると頭に血が上ってぶっ倒れてしまいそうな気がしたが、今の上条にはそこまで頭は回らない。とにかく眠い、一刻も早くこの間違いドッキリにどうにか片をつけたい。  上条は、一度腹筋に力を込めると、 「……、|誰《だれ》だテメェは? 誰だテメェはおんどりゃあ!!」  叫んで、バネ仕掛けの人形のように勢い良く起き上がった。|上条《かみじよう》の上に乗っかっていた体重が、きゃあ!? という悲鳴をあげて転がるのが分かる。  ちくしょう誰だ人の安眠タイムを台無しにしやがったのは、と怒り心頭な上条は自分の上から転げ落ちた女の子を見る、と  畳の上に転がっていたのは、|御坂美琴《みさかみこと》だった。 「いったあ。ちょっとー、それがせっかく起こしに来てやった妹に対する態度なわけ?」  その赤いキャミソールを着た女の子は、|可愛《かわい》らしく(本当に、真実本当に彼女には似合わない)|尻《しり》もちをついたまま(彼女のアイデンティティを丸ごとぶっ|壊《こわ》しかねない)ほっぺたを|膨《ふく》らませてちょっと|拗《す》ねたような顔を作る。 「ど、—————」  —————どういう事? と上条の眠気が一気に吹っ飛んだ。  御坂美琴。能力開発の名門、|常盤台《ときわだい》中学のエース。学園都市で七人しかいない|超能力者《レベル5》の一人。強度の|電撃《でんげき》使いで怒りっぽいが実は泣き虫っぽい。とある事件をきっかけに、上条には一個借りがある訳だが、その話をすると問答無用で顔を真っ赤にしてビリビリしてくる。  もちろん、彼女は上条の実の妹でも義理の妹でもない。  上条は訳が分からないまま、とりあえず美琴に話しかけてみる。 「え、なに? え? お前も|量産型妹《シスターズ》の件で学園都市から追い出されたクチでせう? ってか、ここは学園都市から追い出された人間が集められる島流しみたいなトコなのか?」 「はあ。ナニ言ってんの? 私がおにーちゃんの|側《そば》にいるのがそんなにおかしいの?」 「気持ち悪っ! だからさっきからお前ナニ|媚《こ》び声出してんの!? テメェそういうポジションから世界で最も遠い位置に君臨してたはずだろーが!」  なによう! と分かりやすい顔で怒る美琴に、上条の全身から鳥肌が立つ。  |唖然《あぜん》としたまま、上条はちょっと考えてみる。  可能性㈰、上条と同じく学園都市から外出を命令された美琴の早朝ドッキリ  可能性㈪、御坂美琴、借りを返すために恥をしのんで妹プレイ(義理設定ON)  可能性㈫、美琴の|量産型妹《シスターズ》がなんかバグった (いや可能性㈰だよどうせ㈰だよ可能性㈫とかありえねーよ一応妹キャラだけど可能性㈫だったら|嬉《うれ》しいけど上条|当麻《とうま》の人生でそんなステキフラグは立たねーよけど可能性㈫だったら……だったら?)  ……。  ……おお。  はっ!? と。数秒間|沈黙《ちんもく》していた|上条《かみじよう》は、そこでようやく現実へと帰ってきた。  上条は夏が見せた|煩悩《まぼろし》を振り払うべく絶叫してみる。 「うばあ! コーコーセーをなめるでない!このようなチューガクセーの挑発系早朝ドッキリごときで同様する上条|当麻《とうま》と思うてか!!」 「おにーちゃん、朝からテンション高すぎるよ?」 「くそ、人を勝手に『オンナノコからオニイチャンと呼ばれる事に喜びを覚える人』に|分類《カテゴリ》しやがって! 大体何なんですか『おにーちゃん』って。お前の設定上「お兄ちゃん』なのか『お義兄ちゃん』なのか! あっ、ちくしょうオチが読めた! お義兄ちゃんだと思ってたら最後の最後で実はお兄ちゃんだったから攻略不可能ですって、そんな伏線だろこれーっ!」 「はあ、一体朝からナニ星人とチャネリングしてるんだか。何でも良いでしょ、呼び方なんて。おにーちゃんはおにーちゃんなんだから」 「良かないわ! 何だってテメェが|俺《おれ》の妹になってんだよ!」 「んー?」  |美琴《みこと》は良く分からない顔で人差し指をほっぺたに当てて、 「私がおにーちゃんの妹である事に、なんか理由が必要なわけ?」よっこいしょ、と美琴は畳の上から立ち上がって、「ほらほら、そんなに元気なら起きる。朝ご飯食べるから|一階《した》に下りといでー」  とてつもなく自然な感じで、美琴はぱたぱたと足音を立てて部屋から出て行った。  どうなってるんだ? と上条はちょっと出口のドアを眺めてみる。 (……、えっと。結局何が起きてんだ?)  良く分からないまま、上条は外着に着替えて部屋の外へ出た。  短い直線の廊下の左右に客室のドアが三つずつ並んでいる。こう表現するとペンションっぽい気もするが、潮風の|影響《えいきよう》か元々建てられて年月が|経《た》っているのか、板張りの床は年代物のお寺みたいに黒ずんでいて、わずかに入り込んだ砂が湿気を吸って気持ち悪い感触を伝えてくる。  階段は廊下の突き当たりにある。  上条がそちらへ向かった所で、後ろからがちゃりとドアが開く音が聞こえた。 「おはよう当麻。ん? おい、後ろ|寝癖《ねぐせ》がひどいぞ」  父親の声だった。  上条|刀夜《とうや》。どこか当麻に似た顔立ちの|無精《ぶしよう》ヒゲで三〇代中盤の男は、実は結構大きな外資系企業の営業で、月に三度は海外へ出張している。、その生き方を反映しているのか、|精悍《せいかん》だがどこか理知的な|雰囲気《ふんいき》が漂っていた。  |記憶喪失《きおくそうしつ》である上条にとって、親というのは微妙なポジションだ。当然、上条自身には見覚えはないし、対して両親は何の|遠慮《えんりよ》もなく上条の|懐《ふところ》へずかずかと踏み込んでくる。  高校生にとっては|歳《とし》が二つ三つ離れた大学生ですら、すでに『生活リズムの全く異なる、未知なる世界の人々』だ。ましてこれだけ|歳《とし》が離れるとどう接して良いのかよく分からない。 「んー……おはよーっす———って、あれ?」  振り返った|瞬間《しゆんかん》、|上条《かみじよう》はギョッとした。 「? どうした|当麻《とうま》?」  上条の父、上条|刀夜《とうや》は|眉《まゆ》をひそめた。  その上条刀夜はおいておくとして。  上条は違和感の元凶、刀夜の|隣《となり》に立っている人物に目を向けた。 「ちょっと、インデックス? お前ナニ着てんの?」  そう、刀夜の隣には銀髪で緑目の外国人少女が立っている。  |普段《ふだん》の上条なら『白いシスター』と表現していただろうが、今のインデックスはお決まりの白い修道服を着ていなかった。この暑いのに足首まである|薄手《うすで》の長い|半袖《はんそで》ワンピースにカーデイガンを肩に引っ掛けて、おまけに頭には|鍔広《つばひろ》の大きな白い帽子。はっきり言う、極めて活動的な彼女には圧倒的に似合わない。どこの病弱キャラor|避暑地《ひしよち》のお|嬢様《じようさま》だと聞い掛けたいが、そう言えば上条の母・上条|詩菜《しいな》がこんな格好をしていたような気がする。  詩菜の|趣味《しゆみ》は|原動機付《パワード》きパラグライダーらしく、実家周辺の公園で開かれる|講習会《スクール》ではブランコ状のパラシュートに腰掛け、背中に大きな扇風機みたいなプロペラを装着したお嬢様姿の人妻が空を飛んでいるのが|目撃《もくげき》されるとかされないとか。 「どっからそんな服手に入れてきた訳?」  上条の問いに対して。何を言ってるんだ、という顔で刀夜は上条の顔を見て、 「当麻。母さんが自分の服を着ている事がそんなに不思議なのか?」  はい? と上条は刀夜の顔を見る。  刀夜は自分の隣に立っている少女を見て、間違いなく『母さんが』と言った。  どっからどう見ても一四歳以下のギンパツ不思議外国人を見て。 「え、なに? ひょっとして父さん、アンタそいつが母さんに見えるとでも?」 「当麻、それ以外の何に見える?」 「待て、ちょっと待て。何だよその身代わりの術は?ボケるにしてもそれはない。そこまでボケられちゃうとどこからどうツッコんで良いのか全然分からない」 「当麻。お前は母さんの一体どこが|納得《なつとく》いかないと言うんだ?」 「どこがって言ったら全部だ全部! その姿形で『母さん』はありえねーだろ!!」  ビシビシと上条に指差された一四歳以下の少女は自分の服を軽く|摘《つま》んで、 「あら。あらあら、当麻さん的には母さんのセンスが許せないのね」 「こら当麻。母さん|哀《かな》しそうな顔してるだろ」 「そこじゃねーよテメェどっからどう見ても俺より年下だろうが! たとえこれが小学校の文化祭の演劇だとしてもテメェに『高校生の子を持つ母』の|配役《キヤスト》は絶対|無謀《むぼう》!」 「あら。あらあら、|当麻《とうま》さん的には母さん|歳《とし》より若く見えるのかしら」 「こら当麻。母さん|嬉《うれ》しそうな顔してるだろ」  あーもーっ! と|上条《かみじよう》は頭を抱える。  認める。|記憶《きおく》のない上条が、一ヶ月前に頭部損傷の|大怪我《おおけが》という非常事態を受けて父母が病室にやってきた時、『初めて』自分の両親と|対峙《たいじ》した際、父・|刀夜《とうや》と母・|詩菜《しいな》が同い年だと分かった時に『そうかあ?』と思ったのは認める。詩菜の外見年齢が|二〇|代後半《おねーさん》に見えたのも素直に認める(もっとも、実際に詩菜が二〇代後半だとすると、上条は違法行為によって生まれた事になってしまうのだが)。  だが、いくら何でも見た目一四歳以下のインデックスを使った代わり身の術に|騙《だま》される上条当麻ではない。 「何だ当麻、いきなり頭を抱えて。思春期特有の不安感に|襲《おそ》われたのか? それなら父さんがインドに出張した時に買ってきた|厄除《やくよ》けっぽいお守りをあげよう」 「何だよいいよお守りなんて信じてねーしどうせ下町の工場とかで大量生産したモンなんだう———って何だ? このどっからどう見ても男性器にしか見えない|掌《てのひら》サイズの石像は!」 「いや父さんもサッパリなんだが、なんか宗教的なお守りらしい」 「ナニから守ってくれんだよ? こんなのストラップ代わりにケータイにぶら下げてたら変なあだ名がつけられるどころか下手したら逮捕されるわ!」 「何だ当麻、海外|土産《みやげ》は肌に合わないか。それなら国内のにするか。父さんこの前秋昭に出張した時に買ってきたものなんだけどな」 「今度は何だ……ってまた男性器かよ! 木彫りのー アンタは下ネタ好きの小学生か!」 「むう。出張明けに会社に持って行った時は爆笑の渦だったんだけどなあ」 「ナニ無白覚にセクハラの領域に足突っ込んでんだよバカ|親父《おやじ》!!」  上条も訳が分からなくなっていると、刀夜は不思議そうな顔で、 「時に当麻。お前の連れの女の子は起こしに行かなくても良いのか?」 「だからアンタの|隣《となり》に立ってんだろうが! それより母さんはどこ行ったんだよ!?」 「あら。当麻さん的には母さんの歳は『母』ではなく『女の子』扱いなのかしら?」 「テメェはそれ以上一言でもしゃべったら日が暮れるまでツッコミ倒すっ!!」  と、いきなり上条の横合いのドアががちゃりと開いた。  ほら、当麻が|騒《さわ》がしくするから連れの女の子起きちゃったぞ、と刀夜は言う。  インデックス? と上条がそちらへ目を向けると、  真っ白な修道服を着た、青髪ピアスが部屋から出てきた。  身長一八〇センチに届く大男である。しかもインデックスの修道服を無理矢理に着込んでいるのではなく、どこで手配したのか全く同じデザインで特大サイズの修道服を新たに用意したらしい。  大男は言う。  世界三大テノールもびっくりの野太い男ボイスは重々しく告げる。 「あふぁ、んー? とうま、何だか朝からテンション高いみたいだけどなんかあったの?」 「……、あ」  大男はいかにも|可愛《かわい》らしい動作で目をこする。 「遅くなったけどおはようとうま。それより海だねうみうみ。日本の海ってコンクリで固められてて油でも浮いてるのかと思ってたけど、割とキレイだったし。うーん、遊ぶぞー」 「ああ……」  大男は下からひょっこり|上条《かみじよう》の顔を|覗《のぞ》き込もうとする。 「うん?どうしたのとうま、固まっちゃって。あっーひょっとしてとうま、今から私の水着姿の事をあれこれ想像してるんじゃ————」 「ああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおァァああああああ!!」  ついに耐えられなくなったという感じで、上条はこちら側に開いていた木のドアを青髪ピアスごと思いっきり閉めた。ズバーン! という|轟音《ごうおん》と共に大男は部屋の中へ|叩《たた》き戻される。 「と、|当麻《とうま》ー そこに座りなさい、婦女子に対して先の|一撃《いちげき》は警察|沙汰《ざた》だぞー」 「あらあら。当麻さんは女性に対して|苛烈《かれつ》な|嗜好《しこう》の持ち主なのね」  何やら慌てている|刀夜《とうや》と病弱お|嬢《じよう》セット(長いワンピースにカーディガン+巨大帽子込み)装備のインデックスは放置しておいて、上条は考える。 (ちょっと待て、落ち着け。これはおそらく大規模な早朝ドッキリだ。何で青髪ピアスが街の『外』にいるのか分かんねーが。派手なリアクションをすればするほどヤツらの思うツボだぞ)  刀夜とインデックスがドアごと吹っ飛ばされた青髪ピアスを心配しているのを無視して、上条は一階へ向かった。彼らの相手をするのが|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。というより、お|腹《なか》が減って彼らの相手をするだけの体力がない。  狭い木の階段を下りる。  海の家『わだつみ』の一階は板張りの広い空間だった。道路側の入口と海側の出口はドアどころか壁すら存在しないので、潮風が直接吹き抜けている。店の一角には|時代遅れ《アンティーク》のアーケードゲームの|筐体《きようたい》がいくつか置いてあり、道路側の入口近くには壁を切り取るように、カウンターのようなものが設置されている。  妹を名乗る|謎《なぞ》の|電撃《でんげき》少女、|御坂美琴《みさかみこと》は部屋の中央にいくつか乱立している丸テーブル(いや、ちゃぶ台か?)の一つを陣取って、つまらなそうに雑誌を読んでいた。テーブルの下では短いキャミソールから伸びた二本の細い足がバタバタ動いている。ものすごく|暇《ひま》そうだった。すぐ近くにテレビが設置してあるが、電源は|点《つ》いていない。  |上条《かみじよう》はうんざりしたように、 「……、だから、そこのビリビリ。何でお前は当たり前のようにそこにいんだよ?」 「なによう、おにーちゃんまだ反抗期なの? いーじゃんおにーちゃんにぎゅーっとしたってベタベタしたってゴロゴロしたって」 「……、」気持ちの悪い|媚《こ》びキャラは継続中らしい。「うう、血管の中に発信機まで注入した俺が馬鹿みたいだ」  上条は思いっきり疲れたような重たいため息をつく。と、|美琴《みこと》も美琴でつまらなそうに雑誌を閉じて、床の上に寝そべるとゴロゴロと左右に転がり始めた。 「あー、そういえばおにーちゃん。ここのテレビって勝手にスイッチ入れてもいいのかな?」 「な、何だよいきなり」 「むー。リモコン見当たらないしさー、こーいう所のテレビって『|公共《みんな》のものです、勝手にいじんなチビガキ』って感じがするから触れないんだようおにーちゃん」 「……、」やっぱり妹キャラのままなのかと上条は頭を抱える。「あの|傍若無人《ぼうじやくぶじん》な美琴センセーが一体ナニに対して|遠慮《えんりよ》してんだか」 「みことって、|誰《だれ》?」あくまでボケ倒すつもりらしい|超能力者《レベル5》。「遠慮遠慮ってさー、あの海の家のおじさん顔|恐《こわ》いよ。おにーちゃーん、テレビ点けて良いかどうか聞いてきて?」 「……、訂正。キャラ作っても傍若無人なのな」  とはいえ、上条も朝は何となくテレビを点ける習慣があって、それをやらないと何か落ち着かない。店主さんはどこだ? と上条は辺りを見回した。カウンターには誰もいない。客商売としてそれはオーケーなのかと上条は首をひねったが、その時、海側の出口の方からしょう油が焦げるような|匂《にお》いが漂ってきた。 『?』と上条がそっちを見ると、出口からちょっと離れた砂浜の上で炭火+金網で何かを焼いているらしい長身の男の背中が見えた。 「あ、ほら。おじさんいたよ。テレビ聞いてきてテレビテレビ」  美琴がそんな事を言いながらテーブルの下で足をバタバタさせる。  上条はふと疑問に思った。確かに海の家の店主は背が高くて|無愛想《ぶあいそう》で、一見するとちょっと恐いかもしれない。だが、その髪はあんな肩まであるほどの長髪で、その上真っ赤に染められていたものだったか?  あの、と上条はそれでもペタペタと板張りの床を歩いて店主さんの方へ接近する。  赤髪長髪の店主さんは振り返る。  Tシャツにハーフパンツに首からタオルを引っ掛けたその人物は、  |魔術師《まじゆつし》ステイル——マグヌスだった。 「————なばっっっ!!!???」  |上条《かみじよう》の頭はここに混迷を極めた。身長ニメートル強、赤髪長髪の英国人は、炎を自在に操り人間を殺す事を何とも思わないような、|魔術師《まじゆつし》とかいう別世界の人間だ。 「おう、随分早いお目覚めだな。まだ海は冷ってぇぞ。それともあれか、昨日も暑かったから寝られなかったクチかい?」  だが、トウモロコシを焼く炭火に|団扇《うちわ》で風を送りながら魔術師は言う。 「おっと、コイツはまだ焼き上がってねえからお客さんの口にゃ入れらんねえな。オイ|麻黄《まおう》!客の注文取って適当に食いモン出しとけ!」  ビーチサンダルに首からタオルの魔術師は言う。 (ど、どうなってる? どうなってんだこれーっ!?)  上条はここにきて、ようやく何か変だと思い始めた。あの魔術師が、|戦闘《せんとう》どころか|虐殺《ぎやくさつ》のプロが、冗談やドッキリでこんなにも協力的になるものか?  目の前の|衝撃《しようげき》映像に思わず思考が停止しかけた上条だったが、パタパタという足音が後ろから聞こえてきてようやく我に返った。背後から女の子の声が聞こえてくる。 「おい父さんー 客の前で『適当に』とか言っちゃまずいだろう!」  今度は|誰《だれ》だー と思って振り返ると、紺色の海パンの上からエプロンをつけて日に焼けた、何とも純朴そうな御坂美琴[#「御坂美琴」に傍点]が立っていた。 「なっ、一人二役? いや違う、これは量産型の|御坂《みさか》妹かー」 「父、さん? この人はお客さんだからツッコミ禁止だよな?」  彼女の顔には引きつったようなジャパニーズスマイルが浮かんでいる。  殺される直前すら無表情無感情を貫き通したあの御坂妹が、絶対にありえない事に何とも|曖味《あいまい》な表情で笑っている。 (っていうか冗談じゃねえ何だこりゃほとんど裸エプロンじゃないですか横から見ると横から兇ると胸の辺りが大変な事にうわあたかが早朝ドッキリでここまでやるか普通!?)  と、今度は海の家の中から|御坂美琴《オリジナル》の声がすっ飛んでくる。 「おにーちゃーん! もう聞いた? テレビ聞いたー? ほら|点《つ》けちゃうからねーっ!」  上条が|覗《のぞ》き込むように遠くを見ると、テレビの前で四つん|這《ば》いになっている|美琴《みこと》が電源を押したようだった。大勢の客に|観《み》せる事を考えているのか、音量がやけに大きく離れた所にいる上条の元までテレビの声が聞こえてくる。 『えー、現場の|古森《こもり》ですー。本日未明、都内の|新府中《しんふちロう》刑務所から脱獄した死刑囚、|火野神作《ひのじんさく》の|行方《ゆくえ》は現在も|掴《つか》めていないようでー、周辺の中学校などでは部活動を|緊急《きんきゆう》で中止にするなど緊迫した空気が伝わってきますー』  レポーターさんの名前は古森さんのはずである。  でも、何だかテレビの中からは聞き慣れた舌足らずの|担任教師《つくよみこもえ》の声が聞こえてきたような気がした。  ……、つくよみこもえ? 「まさか、おいウソだろー 何で|小萌《こもえ》先生が!」  |上条《かみじよう》が慌ててダッシュしてテレビの前まで|辿《たど》り着くと、ブラウン管の中に身長一三五センチ、外見年齢一二歳の女教師がマイクを握ってニュースの原稿を読んでいた。 (何であの人が……これもドッキリの一部なのか? だとすると、これはビデオ映像か? いや、デッキのようなものはない。ならば電波ジャック? 何のために? ドッキリのためにー?おかしい、早朝ドッキリのスケールをはるかに逸脱してるぞ!!)  上条は|美琴《みこと》を押しのけるようにテレビの前に陣取り、画面下にあ。る小さなボタンをぽちぽち押してチャンネルを替えていく。 「あー、ちょっと。『フェードイン朝』|観《み》たかったのにー」  チャンネル権を主張する美琴は放っておく。チャンネルを次々と替えていくと、お色気系ニュースキャスターとして扱われるおじいちゃんや、某国大統領として戦争の正しさを演説する茶髪ガングロ女子高生らが映っている。一番奇妙なのは屋外でニュースの中継をしている番組で、とにかく|全《すべ》てがハチャメチャだった。|真面目《まじめ》な顔で原稿を読んでいるキャスター(コイツも大工かトラック運転手に見える)の後ろで、幼稚園児が大型バスのハンドルを握り、ミニスカートを|履《は》いたおばあちゃんが携帯電話をいじり回し、ニュースで良く観る総理大臣が路上でギターを|弾《ひ》いている。  ニュースの中継場所は通勤で混み合う駅前らしく、キャスターの後ろを行き交う人々は一〇〇人や二〇〇人では済まない。そして、その全ての人々が何かちぐはぐなのだ。 (おい、おいおいおい。どのチャンネル回してもこんな感じかよー)  たとえこれが大規模なヤラセだったとしても、これだけのエキストラを用意するのにどれだけの金が動くのか。それよりただの早朝ドッキリに総理大臣が登場する時点でもうおかしい。  早朝ドッキリではないような気がする。  でも、早朝ドッキリでないなら———何なんだろう? インデックスが母親を名乗り、青髪ピアスが白いシスターと主張し、ステイルが海の家のオヤジとなって。  まるで、みんなの『中身』と『外見』がそっくり入れ替わったような。  で、どういう理屈で?  そこで、上条は頭を抱えた。現実的に科学的に考えるのが|馬鹿《ばか》らしくなってきた。 [#改ページ]    第一章 魔術世界のヘクスサスペクト      1  たとえ目の前の現実がワケワカラナクテも、時間は勝手に進んでいく。  状況が理解できない|上条《かみじよう》を放ったらかしにして、|刀夜《とうや》、インデックス、|美琴《みこと》はさっさと海で遊ぶという予定を組み上げてしまった。一人混乱中の上条はさっさと海パンに着替えて来いと命令され、浜に行ってパラソル立てて来いと厳命され、何だか良く分からない内に砂浜に突き立てたパラソルの下、レジャーシートの上で一人ぼっちで体育座りをしていた。 (|大丈夫《だいじようぶ》かなあ? こんな所でのんびりしてて大丈夫なのか? 何だか良く分からないけど世間は大変な事になってるっぽいんだが、かと言ってどう対処して良いのかサッパリ分かんねーぞ)  巨大クラゲが大発生したおかげで砂浜には|他《ほか》に海水浴客らしい人物は一人もいない。浜辺に等間隔で刺さってる木の柱にくくりつけられたスピーカーから、ひび割れたヒット曲が寂しく流れてくる。こうして見ると世界はすこぶる平和に見えるのだが、さっき|観《み》たテレビの中はメチャクチャだった。  どのチャンネルを回しても、ちぐはぐな格好をした人間しか映っていない。  |全《すベ》てのチャンネルがああだった[#「ああだった」に傍点]という事は、|騒《さわ》ぎは海の家一つに|留《とど》まらず、日本中で同じような事が起こっている、という訳だ。いや、下手をすると世界中かもしれない。 (……、うーん。それとも|俺《おれ》一人が妙な幻覚でも見てるのか?〉  世界中で何か問題が起きている、というよりは、そっちの方が|規模《スケ ル》はお手軽だ。周りの人間にそろって『ちぐはぐなのが普通』という態度を取られると、自分が正しいと分かっていながらも気持ちが揺らいでしまう。流されやすいダメ日本人な上条だった。  と、体育座りの上条の背後からさくさくと砂を踏む足音が近づいてくる。 「おう|当麻《とコつゆま》。場所取りご苦労さん。と言ってもまあ、他に客がいないから労力ゼロか」 わっはっは、という男の笑い声。なんだ|親父《おやじ》か、と上条は体育座りのまま首だけ巡らせて自分の後ろを見て  凍りついた。 「ほう。何だ当麻。父さんの水着が気になるのか」  上条は完全に無視して刀夜の|隣《となり》を見る。  母・|詩菜《しいな》が立っているべき場所にいる、インデックスを見る。(ちょ、待て。何だそのスサマジイ水着は!?)  インデックスはその幼児体型に似合わない、黒いビキニの水着を着ていた。  だが、普通ビキニと呼ばれるモノは『ヒモ』と『布』によって構成されるものだ。しかしインデックスの場合その『ヒモ』の部分が透明なビニールでできていた。なので、遠目に見ると隠すべき部分に布を直接両面テープで|貼《は》り付けているように映ってしまう。  はっきり言う。|誰《だれ》がどう見ても|大人《バカ》水着だ。 (くっ、しかしこれがギャップとアンバランスの世界か! いや待て、落ち着け、喜んでいる場合じゃねえ。所持金ゼロのインデックスがどこで手に入れたんだあんなの?)  と、|驚愕《きようがく》する|上条《かみじよう》の顔を見たインデックスは自分の|頬《ほお》に片手を当てて、 「あらあら。|当麻《とうま》さん的にはこの格好は|納得《なつとく》いかないのかしら……」 「それ以前の問題だろ! お前その水着どうしたんだ、昨日は違うの着てたじゃねーか!」 「あらあら。二、三異なる水着を用意してきただけなのだけど」 「あっはっは」と、笑う|刀夜《とうや》。「うん、母さんもまだまだいけるじゃないか。水着というのはこれで結構値が張るからな、父さんもプレゼントした|甲斐《かい》があったというものだ」  それを聞いた|瞬間《しゆんかん》、上条の目がギラリと光った。 「キサマァ! 金にモノ言わせてナニ買い与えてやがる! っていうかどこでインデックスのサイズを知った? それともこっそり二人で買い物にでも行ったのか!?」 「あらあら。当麻さん、|頸動脈《けいどうみやく》に親指を押し当てて首を締めたら父さん落ちぢゃうわよ?」 「止めるなインデックス、この|親父《ロリコン》はお前を|狙《ねら》ってやがる!」ぐはあ! と口から火でも噴きかねない表情で上条は吼える。「くそ、やっぱりそうか。おかしいと思ったんだ、父さんと同い年にしちゃ母さん見た目が若すぎるって。やっぱあの人実年齢二八ぐらいだろ! って事は母さん何歳の時に俺を産んだんだ! この犯罪者があああ!!」 「ぶ、ぶくぶく。と、当麻落ち着け。ほら、父さんがアイルランドに出張した時のなんか家内安全っぽいお守りをあげるか、らあぐっ!」 「テメェ何だこの素っ裸の女の置物は! 言外にやる気まんまんだと言いたいのか!?」 「い、いやだから|陽気な女神《シーラ=ナ=ギグ》っていうらし———おごっ! うぐぐがっ!」  と、今まさに人生の階段を踏み外しかけている上条の元へ、|御坂美琴《みさかみこと》が歩いてきた。 「あれー、何ケンカしちゃってるのおにーちゃん。ひょっとして実は血が|繋《つな》がっていなかったとかステキイベント進行中?」 「テメェもテメェで無理矢理『義理設定』追加してんじゃねえ! ってか何だよその格好! 塩素臭い学校のプールでもないのに何でスクール水着なんだよ?」 「え? なにか変なの?」 「くっ。あくまで|媚び《いもうと》キャラを貫き通す気かお前……ッ!」  どうなってるんだ、と上条はやる気ないタコみたいに力の抜けた刀夜の首から手を離してため息をつく、、ガハゴホと首を押さえながら|咳《せ》。き込む|刀夜《とうや》は、自分の息子の顔を見ながら、 「うっ、|迂闊《うかつ》……。まさか|当麻《とうま》がここまで母さんを偏愛していたとは……」 「あらあら。|男の子は無意識の内に父を憎み母を愛する《エデイプスコンプレツクス》ってフロイト先生が言っていたけど、本当の事だったのねぇ」 「いかんな。長きに|亘《わた》る孤独な|寮《りよう》生活が家族愛への強い渇望を生み出しているのかもしれん」 「……、どいつもこいつも」|上条《かみじよう》は奥歯を|噛《か》み締めて、「|徹底的《てつていてき》に間違った|素人《しろうヒ》精神分析にかけた挙げ句、人を勝手にマザコン扱いしやがって! 全員そこに座れ! このオモチャのスコップで掘った穴に埋めて炎天下でさらし首にしてやる!」  ぎゃーっ、と楽しそうな悲鳴をあげながら海へと逃げていくヘンテコ三人組。逃がすまじ! とスコップ片手に|追撃《ついげき》準備にかかる上条だったが、ふと何かを忘れている事に気づいた。、  さくさく、と砂を踏む足音が背後から聞こえてくる。  そうだ、この海の家には|何故《なぜ》か青髪ピアスがいたんだった、と思った所で凍りついた。  昨日、インデックスは|清楚《せいそ》な白のワンピースの水着を着ていた。  今日、青髪ピアスは何故かインデックスと同じデザインの白い修道服を着ていた。  ならば、海辺の青髪ピアスの格好は? (いや待て。まさか……、この三段論法から導き出される答えは一体何だ———!?) 「とうま、とうま。遅れてごめんね、待っててくれたんだ」  おそるべき、まことにおそるべき男の猫なで声。  振り返るな、と上条は思う。おそらくそこに立っているだろう青髪ピアスの姿を目撃したらきっと大事な何かを失ってしまう。そう思っているのに、ギチギチと、ギチギチと上条は恐るべき現実に立ち向かうように振り返ってしまう。  そこには白いワンピースの水着の|悪魔《あくま》が———————— 「—————————————、はっ!?」 |上条《かみじよう》が気がついた時、|何故《なぜ》か太陽はさっきより少し高い位置にあった。その手には砂まみれのオモチャのスコップがあり、足元には首まで砂に埋められ気絶した青髪ピアスが打ち首獄門みたいに首だけさらして砂浜から生えていた。 (|俺《おれ》がやったのか? 一体、俺は何を……。しかもコイツ、首の角度から察するに垂直な縦穴に埋められてるぞ)  しばし考え込む上条だったが、砂を掘り起こして悪友を引き上げる事はしなかった。今の彼の格好を見たらきっと大事な何かを見失う。 (そ、そうだ|親父《おやじ》は———って、いやがった! 波打ち|際《ぎわ》でインデックスや|美琴《みこと》と|一緒《いつしよ》にビーチボールで遊んでやがる! しかもあの|獣《けもの》の目は真剣勝負でインデックス|狙い《ルート》一直線! く、くそー せっかくの海だってのになんて夏休みなんだーっ?一)  とにもかくにも、あの|年甲斐《としがい》のない|刀夜《ロリコン》を|殺断《さつだん》する! と|上条《かみじよう》はオモチャのスコップ片手にゆらりと波打ち際へと走りつつ、その途中で内心、こんなすこぶる平和な事で悩んでて|大丈夫《だいじようぶ》なのか、なんか大変な事を見過ごしてないかと思っていると 「うにゃーっ! カミやーん、やっと見つけたんだぜーい!」  と、いきなり奇怪な猫ボイスが飛んできた。何が奇怪かと問われれば、その猫ボイスもさる事ながら、それが女性ではなく男性の声だった、という所だろう。 (な、なになに何だ何ですか? ちょっと待てよオイ今の声ってもしかして!)  上条が走り寄る足を止めて振り返ると、ずざーっ! と上条の前に身、長一八〇センチはあろうかという大男がダッシュで接近してきた。 「つ、|土御門《つちみかど》?」  土御門|元春《もとはる》。上条の|学生寮《がくせいりよう》の|隣人《りんじん》で、クラスメイト(……、らしい。|記憶《きおく》のない上条には良く分からないが)。妙に腕が長いのが特徴で、だらりと下げた手が|膝《ひざ》に届くほど。高い背丈に短い金髪をツンツンに|尖《とが》らせ、地肌に直接アロハシャツ+ハーフパンツ、|薄《うす》い青のサングラスをかけ、首には金の鎖のオマケつきとなると『ガラの悪いボクサー崩れの用心棒』という感じだが、実は不良っぼくしているのは少しでも女の子にモテたいというだけで、メイド服標準装備の義理の妹、土御門|舞夏《まいか》に甘々のダメ兄貴だったりする。 「って、ちょっと待てよ。何でお前がここにいるんだよ! どうやって学園都市の『外』に出たんだ、ひょっとして舞夏も一緒なのか!」 「何気にウチの妹を勝手に呼び捨てにしないで欲しいんだが、そんな事を言及している|暇《ひま》もナシ。カミやん、一個確認するけど……お前はオレが『土御門元春』に見えてるぜよ?」  上条には土御門の意図が読めない。 「はぁ? ナニ言ってんだお前、そんな事よりどうやって街の『外』に————」 「となると、いや、まさかにゃー……」土御門は一人でブソブツ言った後、「ま、いいか。とにかくカミやん、ここから逃げよう。ここは危ない。何が危ないって、もうすぐ怒りに我を失ったねーちんが|来襲《らいしゆう》してくる辺りが激ヤバぜよっ!」 「は? ねーちんが……来襲? おい、まさかまだ何かあんのかよ」 「いいから隣人の言う事は聞くんだぜい!」  土御門は|錯乱《さくらん》しているのか、いまいち何を言いたいのか伝わってこない。上条が首を|傾《かし》げていると、|土御門《つちみかど》は自分の青いサングラスがズレるほどジタバタ暴れて、 「ええい! カミやん、なんか朝起きたら変な事が起きていたって事に気づいてるかにゃーっ!」 「ん? ああ、なんかみんなの様子がおかしいな。まるで『外見』と『中身』がそっくり入れ替わったみたいに見えたけど、あれ? 何でお前が知ってんの?」  |上条《かみじよう》は波打ち|際《ぎわ》を見た。そこにはヘンテコなメンツがビーチボールで遊んでいる。 「だからっ! ねーちんはカミやんが|魔術《まじゆつ》を使って『入れ替わり』を引き起こした犯人だと思ってるんだぜよっ!」 「は?」  犯人? と上条が訳が分からず首を|傾《かし》げた|瞬間《しゆんかん》に、 「見つけました、上条|当麻《とうま》……ッ!」  何か、思いっきり憎しみの込められた女の声が横合いから飛んできた。  うわちゃー、と天を仰ぎ見る土御門。上条は声のした方を振り返った。身長一七〇センチ台後半の、女性にしては長身の女が立っていた。長い黒髪はポニーテールにしてあるが、束ねた髪がすでに腰の辺りにまで屈いている。スタイルも良く、肌の白さはお姫様を連想させるほどのものだったが、不思議と|修《ぱかな》さやか弱さといったものは|微塵《みじん》も感じられない。  その理由はおそらく服装にあるだろう。上は白い|半袖《はんそで》のTシャツを、ヘソが見えるように余分な布を|脇腹《わきばら》の辺りで|縛《しば》っていて、下は着古したジーンズ……なのだが、|何故《なぜ》か片脚だけが|太股《ふともも》の付け根が見えるほど大胆にぶった|斬《ぎ》られている。足には西部劇に出てくるようなブーツ、腰のベルトも、ウェストを締めるものとは別にもう一本、酉部劇の|拳銃《けんじゆう》でも収まっていそうな太いベルトが斜めに走っている。  だが、その腰に差してあるのは拳銃ではなく円本刀だった。、しかも、ざっと見ただけで二メートルはありそうな特注品だ。長い黒髪のポニーテールと合わせて見ると、どこか時代劇に出てくるサムライみたいな女だった。  で、そんな幕末|剣客《けんかく》ロマン女は何やら上条当麻の顔を|睨《にら》みつけている。  |憤怒《ふんぬ》の表情のままに、ズカズカと上条の元へと詰め寄ってくる。  何とも危ない事に、彼女の右手がさっきから刀の|掴《つか》に触れたり触れなかったりしている。 「上条当麻! あなたがこの入れ替わりの魔術———『|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こした事は分かっています! 今から三つ数えますからその間に元に戻しなさい!」  三つ数える間もなく今すぐ|叩《たた》き斬ります、という感じの日本刀女は、あっという間に上条の目と鼻の先までやってくる。上条はたじろいだ。でっかい刃物を持った入が償怒の表情で|真《ま》っ|直《す》ぐ近づいてきたら|誰《だれ》だって|恐《こわ》い。 「え、なに? この人ナニ言ってんの? |土御門《つちみかど》、コイツがあれか、お前の言ってた『ねーちん』か? ———ってテメェ一人で逃げてんじゃねえ!」  ちょっと目を離した|隙《すき》にコソコソと砂浜を移動していた土御門は、|上条《かみじよう》の言葉にビクッと。|震《ふる》えて振り返った。サングラスの|薄《うす》い青のレンズが、冷や汗みたいにキラリと光る。  上条は波打ち|際《ぎわ》を眺める。水着を着たインデックスや|美琴《みこと》がはしやぎ回るそこは、物理的な距離は一〇〇メ!トル足らずのはずなのに何だか永遠に|辿《たど》り着けない楽園のように見えた。  今すぐあそこに逃げたいけどあっちもあっちでハチャメチャだし、と上条が思っていると、目の前の姉さんも少し頭が冷えたらしく、 「あ。、はい。そうか、そうですね。すみません。功を|焦《あせ》るばかり少々|思慮《しりよ》に欠いていました。念のために確認しておきます。あなたには、私が|誰《だれ》に見えますか?」 (誰って……?)  質問のおかしさに上条は首をひねった。その書い分だと、まるで『私』と『誰』が別人のように受け取れる。まあ、そもそも|記憶喪失《きおくそうしつ》の上条には、彼女が誰だか分からない。そんな奇妙な質問をぶつけられた所で、首を|傾《かし》げるしかないのだが。  と、そんな上条の表情から何かを読み取ったのか、日本刀女はじれったそうな声で、 「……、まったく、ヘタクソな演技をして。あなたは先ほど私の事を『|年上の女性《ねーちん》』と呼んだではないですか。|神裂《かんざき》です、神裂|火織《かおリ》。イギリス清教|必要悪の教会《ネセサリウス》の|魔術師《まじゅっし》。一度まみえただけとはいえ、よもやこんな短期間で顔を忘れたとは言わせませんよ」  |呆《あき》れたような神裂の声に、上条は二重の意味で|驚愕《きようがく》した、  まず一つは、このヘンテコな和洋こっちゃのサムライ女が知り合いだった事。  もう「つは、彼女が自分の身分を何気なくイギリス清教の魔術師だと名乗った事。  イギリス清教|必要悪の教会《ネセサリウス》というのは、インデックスやステイルーーマグヌスも所属している、対魔術師用の特殊部隊みたいなものだ。言われてみれば、現代社会に溶け込めない神裂のヘンテコな格好は、(彼らには失礼だが)インデックスやステイルと通じるものがあるかもしれない。  だが、そうなるとおかしな事が一つ。  そんな本物の魔術師と[#「そんな本物の魔術師と」に傍点]、いかにも仲の良い友達みたいな顔をしている土御門は何なのか[#「いかにも仲の良い友達みたいな顔をしている土御門は何なのか」に傍点]?  と、そんな土御門はため息をついて、 「おいおい神裂ねーちん。ちょっとばっかり好戦的すぎるにゃーですよ?」 「何を言っているのですか土御門。私はただ目の前の問題に全力を尽くしているだけです。大体私から言わせてもらえばあなたの方こそ魔術師としての自覚が足りないのではないですか」  その言葉は聞き捨てならなかった。 「おい、今なんて言った? 魔術師だって?」  上条が、信じられないものを見るような目を向けると、|隣人《りんじん》、土御門はニヤリと笑って、 「そーゆー事。オレも「|必要悪の教会《ネセサリウス》』の一員だって事だぜい」  あっさりと。あまりにもあっさりと、|土御門元春《つちみかどもとはる》は言った。  だからこそ、|上条《かみじよう》は土御門が何を言ったのか、理解するまで時間がかかった。  ギラギラと。  ギラギラと、サングラスの青いレンズが太陽の光を|不気味《ぶきみ》に照り返す。 「ちょ、待てよ。何だそりゃ? お前が、|魔術師《まじゆつし》?」 「おうよ」土御門は素直に|頷《うなず》いて、「|超能力開発機関《がくえんとし》に|魔術師《オカルト》はいないって思ってたか? むしろ逆だろ、|学園都市《サイエンス》ってのは|教会世界《マジカル》の敵だぜい。だったら敵地に|潜《もぐ》り込んでる工作員の一人二人いたっておかしくないだろうに。オレの|他《ほか》にも何人か混ざってそうだし」 「……、けど」  土御門の言っている事は、確かに一理あるとは思う。  だが、それ以前に何の変哲もない日常にいた土御門が『一理ある』鋭い事を言った事が、すでに上条にとって例えようのない違和感となっていた。 「大体さー、オレがこうして学園都市の『外』にいる時点でおかしいと思わないか? 土御門さん、つい=二時間前まで|神裂《かんざき》ねーちんと|一緒《いっしょ》にイギリスのウィンザー城にいたんだぜい。もちろん申請書も血液中の極小機械もナシ。裏技仕様の抜け道使ってにゃん」 「……、」  本人の口からそう言われても、上条には実感が|湧《わ》かない。上条にとって、土御門元春とは 『日常世界の|寮《りよう》の|隣人《りんじん》」であって、女の子にモテたいからって無理に不良っぽい格好をして、 そのくせ義理の妹の|舞夏《まいか》が|夏風邪《なつかぜ》を引いたぐらいで慌てふためいて|隣《となり》の部屋の上条の元へ相談 にやってくるような、そんな普通で平凡な人間にしか見えなかった。魔術なんて異世界とは、 無縁の存在にしか思えなかったのだ。  だからこそ、上条は無意識の内に否定材料を探していた。 「そ、そうだ。お前は学園都市で|時間割り《カリキユラム》を受けてんじゃねーか。確か、超能力者に魔術は使 えないんだろ。だったら————」 「そうだぜい。敵地に潜るためとはいえ、おかげで|陰陽《おんみよう》博士として最上位の土御門さんも今じゃ魔術は打ち止めさ。おまけにハンパに付けた|能力《チカラ》は|使えないし《レペル0》にゃー。もうさんざん」寮の隣人はニヤリと笑って、「だが、世の中にゃ人の|信頼《しんらい》を得るために五〇年も潜ってるスパイもいるぐらいだぜい。このぐらいでビビってるんじゃ世界を知らなすぎだぜい?」  お前……、と上条の質問は、途申で消えてしまう。  |衝撃《しようげき》を受ける上条の顔を見て、土御門はわずかに|自嘲《じちよう》めいた笑みを浮かべて、 「ま、つまりこっちの顔が土御門さんのリアルって事ぜよ。学園都市の動向をイギリス清教に|逐一伝《ちくいち》える|盗聴器《とうちようき》。簡単に言えばスパイって事ですたい」  スパイ。  その言葉はあまりに現実離れしていて、映画の話でもしているのかと|上条《かみじよう》は思う。  と、そんな上条をよそに、|神裂《かんざき》がつまらなそうな声で言った。 「改めて問いますが、|暴露《ばくろ》しても良かったのですか、|土御門《つちみかど》」 「別に。とっくに上層部にゃ知られてるからにゃー。知ってて泳がされてる状態だぜい、今は|掌《てのひら》で踊って様子見ってトコですたい」土御門は青いレンズの向こうで目を細め、「ま、つまりオレが握ってる情報は|緊急《きんきゆう》で口を封じるような価値はないってこった。……確かに、虚数学区・五行機関は正体を知った所で手に負えない。悪いが|仕事《サラリー》とはいえ、いや|仕事《ビジネス》だからこそ割り切るぞ。ここは一度退くべきだぜい、これ以上は深入りだ。あれだけではアレイスターに対する|有効打《カード》にはなりえない。まったく、学園都市も厄介な|闇《やみ》を抱えてるもんだぜい」 「……、」  上条は、土御門の言葉にゾッとした。  今の言葉から何かが分かった訳ではない。むしろ何も分からない、だが、何を言っているか分からないという事が『別』世界の住人である事を示しているような、そんな気がした。 「……、じゃあ。土御門も、やっぱり|魔術師《まじゆつし》なのか」 「少々特殊で多々不思議な魔術師だがにゃー」  スパイ。  そうと分かっても、上条の数少ない土御門|元春《もとはる》の像が|壊《こわ》れる事はなかった。上条の中では、あくまで土御門は|寮《りよう》の|隣人《りんじん》で義理の妹の|舞夏《まいか》に甘くて時々女子寮から脱出してきた妹を|匿《かくま》って いるダメ兄貴というイメージは崩れなかった。  本当に恐ろしいのは、本人が正体を明かしてなお上条の日常に|留《とど》まり続けるほどの、学園都市に対する|驚《おどろ》くべき浸透度の高さか。 「ま、こっちの事は置いとくとして」土御門はあっけなく言い捨てて、「今はそっちをどうにかしようぜい。入れ替わりだよ入れ替わり。カミやんもなんか気づいてんだろ」 「ちょっと待てよ。カミやん『も』? お前『は』詳しいのか?」 「いやあ、そこそこですたい。分かってんのは『入れ替わり』が『本題』じゃない事。この『入れ替わり』は単なる「副作用』にすぎないって事ぐらいかにゃー」 「副作用と、本題……?」  上条は|眉《まゆ》をひそめた。入れ替わり、という言葉には何となくピンとくる。朝起きた時のみんなの様子、テレビの中の異常な光景。しかし『副作用』というのは? そして『本題』とは? それでは何か、あれが|誰《だれ》かの手によって行われた『事件』のように聞こえてしまう。  と、上条の不審そうな顔を見た神裂はため息をつき、 「土御門、カバラの|樹《き》を知らない者に|理《ことわり》を解しているかと問うのは酷です」 「分かってるぜい。けど、だとすると神裂の仮説は間違ってるって事になるにゃーん?」土御門は笑って、「『中身』と『外見』の入れ替わり、『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|大魔術《だいまじゆつ》、そんな大それた事、魔術のシロウト|上条当麻《かみじようとうま》に引き起こせるか?」  上条は|土御門《つちみかど》の顔を見た。今の|台詞《せりふ》は聞き捨てならない。 「何だって? |俺《おれ》が|関《かか》わってるってのはどういう事なんだよ」  上条は土御門に質問したが、答えたのは不服そうな顔をした|神裂《かんざき》だった。 「……、ある少年がいました。その少年の周りでは|何故《なぜ》だかよく事件が起きました。そして今回も事件が発生します。少年を中心に、一つの問題が起きたのです。世界中のみんなが|影響《えいきよう》を受けました。けれど、たった一人だけ難を逃れた者がいました。難を逃れたのは、|騒《さわ》ぎの中心にいたはずの、その少年でした。さて、その少年が怪しいと思うのはおかしいですか?」 「おい、おいおいおいおい待てバカ! むかしいだろ、そもそも『一つの問題が起きました』 って何だよ! あのバカ騒ぎって|誰《だれ》かが起こした人為的な事件だっていうのか!?」 「さて。あれが自然災害に見えますか?」  上条は『……、む』と思わず|黙《だま》り込んでしまうと、土御門は苦笑して、 「こらこらカミやん、黙ると|冤罪《えんざい》押し付けられちゃうぜい」 「土御門。誰が冤罪ですか、現に『|御使堕し《エンゼルフオール》』の影響下にないのは世界で————」 「待て。えんぜるふおーる? さっきも聞いたな、それ」  上条が神裂の台詞から単語をピックアップすると、二入の魔術師は振り返った。 「あー、『|御使堕し《エンゼルフオール》』っていうのは……説明メンドイ。神裂よろしくですにゃー」 「土御門、にゃーにゃー言うのはやめなさい」神裂はつまらなそうに息を吐いて、「簡単に言ってしまえば、この『入れ替わり』は魔術を使って誰かが仕組んだ、人為的な『事件』です」 「……、事件?」  ええ、と神裂は静に|頷《うなず》いた。  上条が事情を|呑《の》み込めない顔をしていると、彼女は先を続ける。 「現在、世界規模でとある魔術[#「とある魔術」に傍点]が展開されています。英国図書館の|事件簿《じけんぽ》にも記載されない未知の現象で、詳しい術式・構成も不明。我々は起きた現象の特徴から、便宜的にその魔術を『|御使堕し《エンゼルフオール》』と名づけました」 「……、仕組みも分からないのに何が起きてるかは理解してるってか?」  遠く。  波打ち|際《ぎわ》でインデックス|達《たち》がはしゃぐ声が、ひどく遠くに感じられるほどの会話だった。 「正体不明の巨大|怪獣《かいじゆう》が街を|襲《おそ》ってるイメージを浮かべれば分かりやすいぜい」土御門はニヤりと笑って、「自衛隊は|怪獣《かいじゆう》をあれこれ調べているもののやっぱり正体不明って訳。分かってんのはとにかく怪獣の足を止めないと被害は広がる一方ってトコかにゃー? まーまー常識先入観に|囚《としり》われずゲームのルールとでも思って話を聞けば万事オッケーだぜい」 「??? 例題の方が意味不明ですが」  |土御門《つちみかど》の言葉に|神裂《かんざき》は小首を|傾《かし》げる。  神裂がそういう少女らしい仕草をするのは少し意外かも、と|上条《かみじよう》は失礼な事を考えていた。 「話を進めましょう。『|御使堕し《エンゼルフオール》』にはカバラの|概念《がいねん》にある『セフィロトの|樹《き》』というものが|関《かか》わっています。聞き覚えはありますか?」 「…………、さぁ?」  なんか、どっかで聞いた事がないでもない上条だったが、うろ覚えだったので否定した。確か、|錬金術師《れんきんじゆつし》と戦った時に|魔術師《まじゆつし》ステイルから聞いたような気もしたが……。 「セフィロトの樹というのは、簡単に言えば身分階級表です。神様・天使・人間などの|魂《たましい》の位を+段階評価したピラミッド、と考えてもらえば結構です」 「ぶっちゃけると『こっからここまでが人間の領域、こっから先はカミサマの領域だから勝手に上がってくんなよ』ってな『神様絶対主義』を図で表したもんぜよ」 「人の数や天使の数というものはあらかじめ決められているため、通常、人問が天使の位に昇る事はできません。逆に、天使が人間の位に落ちてくる事もありえません」 「どこの位も満席状態って事だぜい」  ところが、と神裂は土御門の後を引き継いだ。 「『|御使堕し《エンゼルフオール》』というものは、文字通り、天の位にいる天使を強制的に人の位へと落とすもの。元より満杯の|盃《さかずき》のごとき人の位の中へ、さらに一滴の|雫《しずく》を注ぐように天使が落ちてきたのですから————と、どうかしたのですか?」  いや、あの……と、上条は非常に申し訳なさそうな顔で、 「えーっとお……てんし?」 「はい。厳密には天の使いではなく主の使いですが。それが何か?」  真顔で答える神裂。  ん〜〜? ……、と上条はそこで思考が止まってしまう。  ビーチボールで遊んでいる|美琴達《みことたち》の声が、|沈黙《ちんもく》した上条の耳に届く。だだっ広い海岸線には彼女達しか人がいないので、歓声が少し寂しげに上条の元までやってきた。  いや、上条だって分かっている。魔術世界にいる彼女達に科学的な常識が通じない事ぐらい。実際、一度は吸血鬼がらみの事件で死にそうになった事もあるぐらいだ。  だけど、天使だ。  例えば世界中で問題が起きていて、その原因がエンジェル様にあるのです! と言われて、それは大変だ! というリアクションを返す人間がいたら、そいつはもう何か人生に疲れてるんじゃないかと上条は本気で思う。 「……ってか、いきなり天使って言われてもなあ。大体、スペースシャトルで空の上の大気圏を突破したって天国なんて見える訳じゃねーんだし」 「むう。天国地獄の『上』や『下』は、高度の問題じゃないぜよ」 「じゃあ何なんだよ?」 「例えば人間の目で赤外線を見る事はできないし、人間の耳で高周波を聞き取る事はできない。ここらへんは分かるだろカミやん?」 「あ? まあ」 「『高い』『低い』ってのはそういう事なんだぜい。人間に『感じ取る事のできる領域』の上か下か。高すぎても感知できないし低すぎても感知できない。例えばカミやんのすぐ|隣《となり》に神様がいたとしても、カミやんは決してそれに気づく事はできないって訳ぜよ」  |土御門《つちみかど》は愉快げに笑った。 「ちなみに『低い』ってのは地獄とか|悪魔《あくま》って事。赤外線に対する紫外線、高周波に対する低周波って所ですたい。いわゆる逆位相ってヤツ。両者は波長が違うだけで同じ『波』である事に変わりはない。それでいて、通常は悪魔の隣に天使が立っていてもお互い気づかないんだ。天国地獄の中間地点である波長『地上』に干渉しない限りは、にゃー」  土御門、と|神裂《かんざき》が|呆《あき》れたような声を出した。  どうも、赤外線だの高周波だのという言い回しが気に入らないらしい。 「一方で、赤外線を浴びせれば物体は熱を持つし、高周波をガラスに浴びせればビリビリ|震《ふる》えるのが分かる。俗に言う天罰とか奇跡とかってのはこれに当てはまるんだにゃー。一見、接点がないように見える『天国』も、時と場合によっちゃあ『地上』に|影響《えいきよう》を及ぼす事があるし、その逆だってありえるって事ですたい」  |上条《かみじよう》にはやっぱり良く分からなかった。土御門はさらに続ける。 「それからな、カミやん。仏教や十字教なんかの偶像崇拝やってる宗教じゃな、神や天使の力ってのは案外、身近なモンなんだぜい」 「……」えー、という上条の顔。 「ウソじゃないぜい? 例えば教会のてっぺんには必ずと言って良いほど十字架があるだろ。十字架には特別な力がある。けど、あれが聖人の処刑に使ったゴ座、コダ十字かと言われたら答えは絶対にノーなんだぜい」土御門は片手をパタパタ振って、「教会にある十字架は明らかにニセモノだ。そしてニセモノでも力は宿るんだぜい。形と|役割《ロール》が似ていれば、ホンモノの力の何%かが宿ってくれる。これが偶像崇拝の基本ですたい」  簡単に言えば『てつのけん』+『ひかりのまほう』で光の魔法剣だにゃー、と土御門。 「その『偶像崇拝』の法則は、天使にも当てはまるにゃー。裏技を使えば『|天使の力《テレズマ》』は様々なモノに込める事ができる。例えば剣の|掴《つか》に『天使の彫刻』を刻み込めば刃に『天使』の力が宿るし、守護の魔法陣に「天使の名』を刻む事で、『天使』の防御を借りる事もできるってな感 じだぜい。……もっとも、惜り物の力はほんの数%が隈度で、天然純度一〇〇%の『天使』が丸ごと落ちてくるなんて話は旧約の中ぐらいでしか聞いた事ないけどにゃー」 「まずは『天使はいるもの』と仮定してもらわなければ先へ進めません」 「……って、言われてもなあ」  いつまでもくすぶり続ける|上条《かみじよう》だったが、突っぱねるのも気が引けた。何せ相手はプロだ。 そのプロがシャレや冗談ではなく|真面目《まじめ》に語っているのだ。以前、|錬金術師《れんきんじゆつし》と戦う時にステイルの前説明を話半分に聞いてえらい目に|遭《あ》った上条としてはなおさらだった。 「あの、一つ聞くけど、本当にドッキリじゃねーんだよな?」 「質問の意味が分かりかねます」  とにかく、と|神裂《かんざき》は|咳払《せきばら》いを一つする。 「『|御使堕し《エンゼルフオール》』によって上位セフィラから下位セフィラへと強制的に天使が移動させられたため、その揺らぎによって一〇のセフィラが形作る四界———すなわち|原形世界《オーラムアツイルト》、|創造世界《オトラムブリアー》、 |形成世界《オーラムイエッイラー》、|物質世界《オーラムアツシヤー》に|影響《えいきよう》を与えているのです」 「……、|土御門《つちみかど》さん。ナニイッテンデスカコノヒト?」 「簡単に言うと、何だにゃー? カミやんの言った通り、みんなの『中身』と『外見』が入れ替わってるってコト。ようは|椅子《いす》取りゲームだよ。『椅子』と『座る人』はゲームを始めるとバラバラになっちまうよな? と言っても、椅子・取りゲームの椅子は参加者全員分そろってる訳じゃない。|弾《はじ》かれたヤツは天上———天使が座っていた椅子に座る事になる」  入れ替わる。  そこの浜辺やテレビの中のような風景に。  上条がその部分だけを|汲《く》み取っていると、土御門は|呑気《のんき》に笑って、 「というか、理屈は何でもいいんだぜい。『とにかく不思議な事が起こってて』『それを止めなきゃいけない』って事だけ分かれば」 「……、止めなきゃ? 止まるのか?」 「おうよ。どうやら、『|御使堕し《エンゼルフオール》』はまだ未完成っぽいからな。止めるなら今だぜい、たとえカミやんの右手でも、|流石《さすが》に|魔法《まほう》で焼かれた人間の灰を元に戻す事はできないだろ。それと同じ、完成しちまったらおそらくもう戻らない」 「……、」  カミやんの右手。  本当にどうでも良い事だが、何で土御門が|幻想殺し《イマジンブレイカー》の事を知ってるんだろうか?  と、土御門は上条の不思議そうな顔を見て|呆《あき》れたように、 「おいおい、こんなの蛇足だぜい。|禁書目録《インデックス》争奪戦、|三沢塾《みきわじゅく》陥落戦、|絶対能力《レベル6》実験阻止。これぐらいは筒抜けだにゃー。つか、禁書と三沢塾の時は情報収集したのオレですぜよ?」  土御門はさりげなくとんでもない発言をしながら、さも当然のように話を元に戻した。 「それで、正確な術式は不明だが、『|御使堕し《エンゼルフオール》』は世界規模の魔術だ。魔術師単体で行うには荷が重すぎるから、おそらく結界なり魔法陣なり使った『|儀式場《ぎしきじよう》』でも築いてるはずだぜい」 土御門は|面白《おもしろ》そうに、「よって、『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止める方法は二つ。一つは術者を倒す事。もう一つは『|儀式場《ぎしきじよう》』を崩す事。一応制限時間もあるんだが、いつリミットがくるか分からないドキドキ状態ですたい」  結局なんもかんも良く理解できなかった|上条《かみじよう》だったが、ようはどこかの|誰《だれ》かのせいでみんなの『中身』が『入れ替わった』状態……なんだろうか?  普通ならこの時点で『非現実だ』と投げ出すだろうが、あいにく上条は二三〇万もの超能力者が住む街の住人で、その上|魔術師《まじゆつし》なんていう連中とも|繋《つな》がりがある。|理不尽《ありえない》とか|不条理《ふざけんな》とかそんな一言で投げ出す事ができない問題がある事も知っていた。  なので、上条は上条なりに|智恵熱《ちえねつ》を出してみる。  みんなの様子がおかしかったのは、どうもその『入れ替わり』のせいらしい。上条は今朝の事を思い出す。寝起きから最悪だった。何せあの|御坂美琴《みさかみこと》が妹だの何だの言って「——っと、ちょっと待て。おかしい。妹って何だ妹って。|俺《おれ》にゃ元々妹なんていねえぞ?」  そのハチャメチャな『入れ替わりパニック』が(限りなく怪しいが)本当だとしても、元々妹なんていないんだから、そこに美琴が『入れ替わる』のはおかしい。  だが、|神裂《かんざき》は何の気なしに、 「さあ。ですが実際に『入れ替わった』以上、元の席がなければ話になりません。あなたが知らないだけでこの世界には妹君がいるのではないですか?」 「えーっ! こんな所で知られざる家系図の|謎《なぞ》発覚かよ!」  がーん、とショックを受ける上条だったが、|呑気《のんき》にそんな事を口に出している時点であんまり信じていない証拠と言える。 「しかしまあ、敵さんはナニ考えてこんな|大袈裟《おおげさ》な|真似《まね》したのかにゃー」 「予想できる理由は大別して二種となります。人の位に落ちた天使を捕らえ首輪をつけて使い魔に仕立てるためか、あるいは天の位にできた階位を横取りするためか」 「どちらにしても成功すればカバラ業界は|騒然《そうぜん》だぜい。|黄金夜明《S∴M∴》なんざ大慌てだ」 「天使の力———使い方次第ではたった一人でバチカンを|壊滅《かいめつ》させるほどの力。|伊達《だて》や酔狂で手を伸ばすとも思えません。何か大それた|企《くわだ》てでもあるのでしょうか」  あの……、と置いてきぼりになった上条はおずおずと質問してみた。 「話を戻してほしいんだけど。ってか、俺はこの後どうなるの? 結局、お前らこんなトコまで来て俺に何しようってんだ?」  ああ、それにゃー、と|土御門《つちみかど》は全然重要でもない口調で答えた。 「さっきも言ったが異変を調べた結果、どうにも『|歪《ゆが》み』はカミやんを中心点にして世界中に広まっているらしいんだよにゃー。それでいて、中心に立つカミやんだけは|何故《なぜ》か無傷ときたもんだ」 「……、はい?」  上条の目が点になる。 「そりゃ当然カミやんが怪しまれるぜよ。世界申にコンピュータウィルスをばら|撒《ま》くクラッカーだって、自分のパソコンにだけはウィルスを流さないものだぜい」 「はい?一ちょっと待てよ。んな事言ったらお前|達《たち》だって変化なしだろーが!」 「これでもオレや|神裂《かんざき》は運が良いんだよ。言ったろ、『|御使堕し《エンゼルフオール》』はカミやんを中心に展開されてるって。オレと神裂ねーちんは|魔術《まじゆつ》発動時ロンドンにいたからにゃー」 「……、て事は何か。ヨーロッパの方は無事なのか?」 「まさか。『|御使堕し《エンゼルフオール》』はそこまで優しくないぜよ。ウチらはウィンザー城に出頭してたから。|城塞《じようさい》レベルの結界っていうと、あの白い『歩く教会』と同程度かそれ以上。|他《ほか》にもウェストミンスター寺院やらサザーク大聖堂の最深部に|潜《もぐ》ってた連中はまだマシだったみたいだがにゃー」|土御門《つちみかど》は笑って、「ま、『距離』と『結界』。二つあって初めて難を逃れられるって事。魔術師の多くも『|御使堕し《エンゼルフオール》』に|呑《の》まれてる。異常に気づいてるのはほんの一握りだにゃー」 「ふうん。何だか良く分かんねえけど、つまり不幸中の幸いって事か」 「いんやあ。ねーちんはともかく、オレは最深部にいなかったから。城の外壁が三〇〇秒ほど『|御使堕し《エンゼルフオール》』を食い止めてる間に、どうにかテメェで結界張ったんだよん」 「……、? あれ、けどお前って、魔法は使えないんじゃ」  上条はいまいち魔法というものに対する現実味は湧かない。  だが、かつて|錬金術師《れんきんじゆつし》に操られていた『三沢塾』の|学生達《のうりよくしや》は、魔術を使った途端に拒絶反応のように体を爆発させた。超能力者に魔術は使えないのだ。  と、そんな上条の意図を読み取ったのか、土御門はわずかにロの端を|歪《ゆが》めて、 「ああ、だから見えない所はボロボロだぜい? もっかい魔術使ったら確実に死ぬわな」  土御門のアロハシャツの前が、風になぶられた。  ぶわりと広がったシャツの中———左の|脇腹《わきばら》全体を|覆《おお》い尽くすように、青黒い内出血のアザが広がっていた。それはまるで、|得体《えたい》の知れないモノに体を|侵蝕《しんしよく》されているようにも見えた。「だが、ここまでやっても|完壁《かんペき》に「|御使堕し《エンゼルフオール》』から逃れられた訳ではないんだにゃ!」土御門はそれでも笑って、「ウチらやカミやんは例外として、周りから見るとやっぱりオレは『入れ替わった』ように見えるらしいぜい、ちなみにオレ『中身・アイドル=|一一《ひとついはじめ》」』。なんか人気女優に手を出した事が週刊誌にすっぱ抜かれたみたくて、熱狂的アイドルファンの夢見る|乙女《おとめ》と目が合うと金属バット片手に追い掛け回されるという愉快な人生を追体験中ぜよ」  見て見てこの変装グッズ、と土御門はサングラスのフレームを指でなぞった。 「えっと、つまり……」  |上条《かみじよう》は改めて、土御門の顔を見た。 「『入れ替わった』人|達《たち》から見ると、お前の顔は超美形アイドルに見えるって訳か?」  そういう事にゃー、と|土御門《つちみかど》は果てしなく|呑気《のんき》に言った。 「ってか何だよそれ! こっちが色々大変な事になってんのに一方その|頃《ころ》モテモテですか!」 「くっ。これがなかなか厳しい人生だにゃー。こっちは一刻も早く『|御使堕し《エンゼルフオール》一にケリつけなくちゃならないってのに、人の山で足止めされちゃ|敵《かな》わないにゃー」 「……、一応のプロ意識はあるんだな」|上条《かみじよう》はそれから|神裂《かんざき》の方を見て、「えっと、じゃあつまりこっちのお姉さんも『入れ替わった』人|達《たち》から見ると、別人に見えるのか?」 「……、」  ぴく、と。|黙《だま》っていた神裂の肩が、わずかに揺れた。  あれ? なんか触れちゃいけない|逆鱗《げきりん》にこっそり触ってる? と上条が不安に思うと、 「…………、—————グヌスです」 「は?」  上条の|限《め》が点になると同時、神裂は何か思い切り平たい声で、 「『中身・|魔術師《まじゆつし》「ステイル=マグヌス」』です。はい、世間から見ると私は身長二メートル強の赤髪長髪の大男に見えるそうですね。おかげで手洗いや更衣室に入っただけで警察を呼ばれるし電車に揺られているだけで痴漢に間違われましたしええ本当に|驚《おどろ》きました始めは世界の|全《すべ》てが私にケンカを売っているように見えてしまって本当にどうしたものかと」  人間は表情の有無や口調の強弱によって|喜怒哀楽《きどあいらく》を読み取る生き物、のはずである。なのに、何だろうこれはと上条は思った。平たい声の無表情がこんな|恐《こわ》いとは思わなかった。  断言する。  このお姉さんは、何だか知らないけどとんでもなく怒っている。  神裂は人形みたいに涼しい顔のまま、がしいっ! と上条の両肩を|掴《つか》むと、 「ところで、本当にあなたは何もしていないんですか? 本当は何かしたのではないですか?正直に告白しなさい、怒りませんから。天使が魔術師の手に渡るなど前代未聞です、それがどれほどの危険を内包しているか理解しているのですか? 私はもう|嫌《いや》なのです。私はもうさっさと解決したいのです。道行く人々から『妙に女っぽいシナを作る巨漢の英国人』などと呼ばれるのは耐え|難《がた》い苦痛なのだと言っています」 「うこごっ! 揺らっ、揺ら揺ら揺ら揺ら揺らすんじゃねえ!」  |眉《まゆ》一つ動かさない神裂の人閲離れした恐るべき力でがっくんがっくんと首を前後に揺さぶられる上条は、これだけで首の骨が折れるんじゃないかという危機感に|襲《おそ》われた。 「とまあ、こんな感じで『|歪《ゆが》みの中心』たるカミやんは、難を逃れた世界中の魔術師から犯人呼ばわりされてお命|頂戴《ちようだい》という訳なんだぜい。理解オーケー?」 「テメェものんびりしてねえでこのゆらゆら地獄を止めろ!!」叫びながら、上条はだんだん気持ち悪くなってきた。「うう……っ! て、ていうか『|御使堕し《エンゼルフオール》』ってのは魔術なんだろ! だったら超能力者の|俺《おれ》に魔術が使えるかーっ!!」  ピタリ、と|上条《かみじよう》を揺さぶっていた|神裂《かんざき》の手が止まる。  しばらく凍りついたまま上条の目を見ていた神裂はやがて、グラスの中の氷が溶けるように小さくじんわりと|眉《まゆ》を寄せて困ったような顔になった。 「それでは|八方塞《はつぱうふさ》がりです。犯人が天使を使って何をしようとしているかも分からない以上、「刻も早く『|御使堕し《エンゼルフオール》』を食い止めなければらないのに。私はこれから一生『日本語は上手だ けど|何故《なぜ》か女言葉の巨漢外国人』として生きていかなければならないのでしょうか……?」  うっ、と上条は自分が悪くないのに何故だか罪悪感に似た感傷を抱いてしまう。  何だろう? この、|普段《ふだん》は|完壁《かんべき》な|隣《となり》の家のお姉さんのふとした弱い涙を見てしまったような感覚は? インデックスのような保護欲全開の女の子とはまた違った感じがする。  と、にゃーにゃー言っていた|土御門《つちみかど》も似たような感覚を抱いていたのか、 「まーまー。こればっかりは一からやり直すより|他《ほか》に道はないぜよ」 「……、そういえば」と、神裂は土御門の顔を見て、「土御門。あなたは超能力者なのに|魔術《まじゆつ》を使っていますね。ならば」  神裂の静かな声が逆に背筋を凍らせる。卜。条は慌てた声で、 「ちょっとちょっと待った待った! そもそも|俺《おれ》は魔術のマの字も知んねーよ!」 「はい。ですがあなたの|側《そば》には禁書目録がいるではないですか」  あ、そっかー、と|呑気《のんき》に感心している土御門を、上条は刺し殺すような視線で|睨《にら》みっけた。 |土御門《つちみかど》は少々引きつった|愛想笑《あいそわら》いを浮かべながらフォローに入る。 「しかし|神裂《かんざき》ねーちん、超能力者が|魔術《まじゆつ》を使うと体のどこかに過負荷がかかるんだぜい。軽度なら内出血、重度なら目に見える体組織の爆砕———三沢塾戦のレポートにも書いたぜよ。ほらカミやんてばどっからどう見ても健康休じゃないですかにゃー?」 「ふむ。それでは確かめてみましょう」  言うや|否《いな》や、神裂は無造作に手を伸ばして|上条《かみじよう》の|脇腹《わきばら》に軽く触れた。 「いひぃはっ! な、何を!?」 「何故に飛び上がっているのです。内出血の有無を触診で調べているだけですが。しかし、この過敏な反応。やはり、目に見えないだけで体の内側に損傷があるのではないですか?」 「高校生ならデフォで飛び上がります! そういう仕様ですから触らんといてください!」 「怪しいですね。調べられるのが|恐《こわ》いのですか? その身が潔白であるならばどんな尋問がこようが関係ないのではありませんか?」  上条は波打ち|際《ぎわ》を見た。年上のおねいさんに体中をいじり倒される光景など、インデックス|達《たち》には絶対見られたくない。そんな所を|目撃《もくげき》されたらもう二度と立ち直れない。 「……、(暗に拒否ったらその時点で犯人確定ですって論旨をすり替えている辺り、|流石《さすが》はイギリス清教『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の異端審問官だにゃー)」  オカルト業界の事情を知っている土御門は感心していたが、当然そんなローカルルールを上条が知っているはずもない。 「ぐ……っ、くっ。いいっすよ? その代わり、外傷と内出血どっちもなかったら今度こそ疑い晴れるんだろうな———って、おおうあっ! へ、変な風に触るなっ!」 「??? とにかくじっとしていなさい」  |腋《わき》の下や胸板へ、細く長い神裂の指がゆっくりと|這《は》い回る。氷のような印象とは裏腹にその体温は優しく温かく、上条の体から出る何か|非常事態《エマージエンシー》な汗で指先が|濡《ぬ》れるせいか、まるで小さな舌が体の上を|嘗《な》め回しているような、とてつもなく未知の感覚が|襲《おそ》いかかってきた。 (ちょ、待……っ! まず、うおお! このままでは、このままでは何か|倒錯的《とうさくてき》な|趣味《しゆみ》に目覚めてしまいそうな夏の予感!) 「……、」  と、あちこちぺたぺた触診していた神裂の手が、不意にピタリと止まる。  神裂の視線は下に。  上条|当麻《とうま》の海パンを|黙《だま》って注視している。  えっと、健全なる男子高校生・上条当麻は不覚にも神裂|火織《かおり》の|無遠慮《ぶえんりよ》な触診に体のアチコチが反応してしまっている訳で。その反応の中心点は当然ながら海パンの中にある訳で。 「ちょ、待ってください神裂さん! 不可抗カ! これは不可抗力です事故です事故! すいませんもう本当に謝りますから日本刀だけは勘弁してください!」  ギョッとした|上条《かみじよう》は慌てて叫んだが、何やら|神裂《かんざき》は別の事を考えている様子。  しばし数秒、石像のように動きを止めていた彼女は、やがて一言。 「……。そうですね、やるならば|徹底的《てつていてき》に。この中も調べなければなりません」 「ふざっ、そんなもん|誰《だれ》が許すか! ああけどダメだ、『|嫌《いや》だ』って言ったらその時点で犯人扱いだ! でも嫌だろ普通! 健全な青少年として異議を唱えてはいけないのかーっ!」 「ふむ」神裂は海パンから顔を上げて、「なるほど。私も少々先走りが過ぎました。異性である私にそこまで調べられるのは|流石《さすが》に苦痛が伴うでしよう」 「そ、そうそう! そうだよおい、冷静に話し合えば分かるじゃねーか!」 「なので、同性である|土御門《つちみかど》にお願いしましょう」 「ちょ————っ! 土御門に? さっきみたいなタッチで?? 海パンの中を??? い、嫌だ! それはそれでさらに嫌だ!!」 「そうですか。では、やはり私が行いましょう」 「いや、あの、AがダメだからBは良し、って話じゃねーんだよ。ってかAとBしかねーのか選択肢は! って、あの、神裂さん? その手術用の|薄《うす》いゴム手袋は———って待て! ちょ、あ、—————————————————————————————ッ!!!???」  選択肢C。オモチャのスコップを振り上げてブッコロスゾと怒鳴りつける。  半泣きムカムカモードになった上条は怪しげな|隣入《りんじん》と日本刀姉さんから距離を取りつつ、かろうじて死守した海パンを押さえながら手負いの|獣《けもの》みたいな目で土御門と神裂を見る。  そこには少し居心地の悪くなった|魔術師《まじゆつし》が二人、 「ほ、ほらこれはやっぱリオレの言った通りだったじゃないのかにゃー? カミやんは犯人だったから『入れ替わり』が起きなかったんでなく、単に|幻想殺し《イマジンブレイカー》で「|御使堕し《エンゼルフオール》』の効果を打ち消してただけだぜい」 「ふむ。しかし困りましたね。これではやはり|八方塞《はっぱうふさ》がり。「|御使堕し《エンゼルフオール》』が完成してしまえば神話規模の厄災に見舞われる可能性すらあるのに、手がかりが何もないとは……」 「そんな事ないぜい。少なくとも『|御使堕し《エンゼルフオール》』はカミやんを中心に起きてるんだし。犯人はカミやんの近くにいるって可能性が高いにゃー」 「かと言って、犯人が必ずしも上条|当麻《とうま》に接触してくるとも限りません」 「困ったモンだぜい。オレもあと一回魔術を使っちまったら冠動脈が破裂して死んじまうし。あ、そーだ。オレの代わりにカミやんに働いてもらうのはどうだろう?」 「何を言っているのですか馬鹿馬鹿しい。あなたは大工が足りなくなったら客に家を建てさせるのですか」 「えー。でも、ウチらがカミやんを『犯人』から|護《まも》って、カミやんには『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|儀式場《ぎしきじよう》の|魔法陣破壊《まほうじんはかい》に付き合ってもらう。ギブアンドテイクのステキ取り引きだと思うんだがにゃー。そこら辺はどうなのよカミやん?」  返事はない。  |上条《かみじよう》は入差し指で砂浜にウッタエテヤルと書き続けるばかり。      2  夏の夜は、午後八時になってようやく訪れた。  海の家の一階、丸テーブルを囲むように上条一家はそこにいた。と言っても、メンツはヘンテコ入れ替わりメンバーではあるが。  このヘンテコなメンツに『上条の友人』として、ごく自然に|神裂火織《かんざきかおワ》がテーブルに就いていた。もっとも、周りから見ると『むさ苦しい赤髪外国人のヤロウの友達』に見えるらしいが。  いつ完成するかも分からない『|御使堕し《エンゼルフオール》』を放っておいて良いのか、と上条は思ったが、|騒《さわ》ぎが上条を中心に起きている以上、神裂は上条の身辺警護もしたいらしい。  ちなみにこの場に|土御門《つちみかど》はいない。消波ブロックの陰にでも隠れてフナムシと|戯《たわむ》れているかもしれない。世間的には『問題アリの男アイドル』に見えるからだ。人の山に囲まれて身動きが取れなくなるのはプロのスパイたる土御門の望む所ではないらしい。  そんなこんなで、テーブルを囲むのは(表面上は)カタギの人ばかり。  とっとと晩ご飯を食べたいのだが、|何故《なぜ》か店員さんの姿が見当たらない。  テレビをつけても、|火野神作《ひのじんさく》とかいう死刑囚が脱獄したまま発見されないとかいう|陰響《いんうっ》なニュースが|小萌《こもえ》先生ボイスで流されるだけなので、話題作りにもならない。  そんなこんなで特に話題もないままに、|刀夜《とうや》は神裂に話しかけた。 「|当麻《とうま》の父です、初めまして。しかし当麻の知り合いに外国人がいるとは時代はやっぱり国際化が進んでいるんだなあ。あ、お近づきの印にエジプトみやげのお守りをあげよう。はいスカラベ。なんか砂漠でも道に迷わないとか言ってたぞ」  |胡椒《こしよう》ぐらいのビンを取り出した刀夜に、上条は思わずギョッとして叫んだ。  中に何か|乾燥《カサカサ》した虫が入っている。 「ってビンの中身フンコロガシじゃねーか! 食卓にナニ持ち出してんだバカ|親父《おやじ》!!」 「いえ」だが、神裂は冷静に、「エジプトではスカラベは|輪廻の象徴《スパイラルイメージ》として描かれます。ホルスの目、アンクと並んでエジプト|土産《みやげ》としては好まれるかと」 「??? そ、そうだぞ当麻。父さんには詳しい事はちっともさっぱり分からんが、それでも己の先入観のみで異なる文化圏を否定するなど人としてやってはいけない事だ」 「なっ……|俺《おれ》だけ!? 食卓に干からびたフンコロガシの|死骸《しがい》を持ち込むのはダメって思ってるの俺だけなのか!?」  ずがーん、とショックを受ける|上条《かみじよう》の服をちょいちょいと引っ張る|隣《となり》の|美琴《みこと》、 「……いや、おにーちゃんは間違ってないよ。あんなのケータイのストラップにしてる人いたら|恐《こわ》いわよ。マナーモードでカサカサ動くのよあれ」 「まともな|応答《コメント》ありがとうと言いたい所だけど、お前が|媚《こ》び声出すと果てしなくムカツク」  なにおう!? とむくれる美琴を上条は見事に無視。  そこで、ふと上条は考えた。  上条家に『妹』などいないはずだ。ならばみんなの目には、美琴は一体『|誰《だれ》』に見えるんだろうか?  上条は、席を移動して|母親役《インデツクス》に|内緒話《ないしよぱなし》でもするように、 「(ちょっと、あのさ。気になってるんだけど、あの妹キャラは誰よ?)」 「あらあら。|当麻《とうま》さん的には妹キャラが直球なのかしら」  とりあえずバグった母親の思考回路を戻すべく上条は軽くゲンコツを落とす。気分的には|壊《こわ》れたテレビを|叩《たた》くような感じで。 「あら、少し思いやりにかける威力ですよ。というか、あれは当麻さんの|従妹《いとこ》の|乙姫《おとひめ》ちゃんでしように」 「(……、いと?)」 「あらあら、当麻ちゃん? 忘れているのかしら。それじゃ|竜神《たつがみ》のおじさんやおばさんも?確かに当麻ちゃんは幼稚園を卒園した後はすぐに学園都市に送ってそれ以来だけど、それはちよっとあらあらね。昔は乙姫ちゃんと同じ|布団《ふとん》で昼寝とかしていたのに」 「け、けど昨日は来てなかっただろ」 「だから、今朝遅れてやってきたんでしょう?」  そうこうしている内に、どすどすと大きな足音を立てて浜の方の入口から店主がやってきた。 「おう|悪《わ》りいな店を空けちまって。浜の有線放送が壊れちまって、そっち直すのに時間食っちまった」  声に、店主から一番近くにいた|神裂《かんざき》は振り返りながら、 「お気になさらず。それは津波の情報や災害救助にも利用される設備でしょう。人命に|関《かか》わるものならば優先してしかるべき———って、ステイル? なん、|馬鹿《ばか》な!?」 「すている? 何かの流行語かそりゃ?」赤髪長髪の大男は首を|傾《かし》げ、「今から晩飯だよな。メニューは少ねえがその分マッハで用意するんで勘弁してくれな」 「いえ、あの……(くっ、|迂闊《うかつ》。ステイルは|日本《こちら》で狩りをしていたんでした)」  どうやらステイルは思いっきり『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|影響《えいきよう》を受けているらしい。おそらく世界中のほとんどの|魔術師《まじゅっし》も同じような状態だ、|土御門《つちみかど》や神裂のように異常に気づいている人間の方が|稀《まれ》なのだ。  神裂が何かロの中でブツブツ言っていたが、周りはそんな事に気がつかない。ラーメンとやきそばとカレーしかないメニューの中からそれぞれメインデイッシュを決めていく。  注文を取った巨大な店主がどすどすと店の奥へと消えていくと、インデックスが|頬《ほお》に手を当てながら|神裂《かんざき》の方を見て、 「あらあら。それにしても随分と日本語が達者なのね。おばさん感心しちゃったわ」 「え?」神裂は|一瞬《いつしゆん》ビクッと肩を動かして、「あ、いや、はい。お気遣いなく」  神裂とインデックスは同じイギリス清教の人間でありながら、とある事情で絶交状態にあった。なので、急に話しかけられると対処に困る。  が、そんな事情は(|記憶喪失《きおくそうしつ》の|上条《かみじよう》を含めて)周りは知らないので、 「あらあら、物腰も|丁寧《ていねい》で。大柄でがっしりした人だから[#「大柄でがっしりした人だから」に傍点]、おばさん最初はもっと違うイメージを抱いていたのだけど」  びく、と。日本入の平均身長より背が高めな神裂の肩がわずかに動く。  だが、周りは気づかない。今度は|美琴《みこと》が、 「けど、その言葉遣いってちょっとニュアンスずれてるわよ。だってそれじゃ女言葉っぽいもの。そんないいガタイしてるなら[#「そんないいガタイしてるなら」に傍点]、少しずつでも男言葉に直していかないと。仕草もちょっとだけ[#「ちょっとだけ」に傍点]女っぽいよ?」  ぴくぴく、と。平均女性より|鍛《きた》えられた神裂の|頬《ほお》の筋肉がわずかに引きつる。  神裂は口の中で何かを|呟《つぶや》いている。ちょっとだけって、と確実に眩いている。  あ、やばい、と上条が何かに気づいた。だが、それより先に|刀夜《とうや》が、 「こらこら、やめないか二人とも。言葉なんてものは正しくニュアンスが伝わればそれでいいんだ。おそらく彼は日本人の女性に言葉を教わったからこうなっただけだろう。見た目がどうだろうがそんなものは関係ない[#「見た目がどうだろうがそんなものは関係ない」に傍点]」  ピクビギ! と。神裂の体のあちこちが小刻みに|震《ふる》えている。  上条は慌てて|魂《たましい》の|身振り手振り《ボデイランゲージ》でフォローに入り、 (神裂さーん! 神裂さーん! 違うって、周りのみんなにはお前の事が『ステイル=マグヌス』に見えてるだけだから! だから決してお前の|身体《からだ》が大柄でがっしりしていてイイガタイでどっからどう見ても男性に見えると言っている訳では————ッ!!)  瞬間、神裂はゆらりと立ち上がった。、  神裂は、自分が一番とんでもない事を言ったという自覚がない上条の|襟首《えりくび》を|掴《つか》んで、 「……、(ほう。なるほど、それがあなたの意見ですか。そう)」  ずるずると。|内緒話《ないしよばなし》をしながら上条を引きずって丸テーブルから離れていく。 「(な、ちょっ……どこへ?門 シメられますか? あれ、そっちは|風呂場《ふろば》なんだけど……まさかっ! 米国の刑務所にはかつて冷水シャワーを延々と浴びせて体温を奪う|拷問《ごうもん》があったと伝え聞くがこれいかにーっ!?)」  返事はない。  ずるずるずるずると、|上条《かみじよう》は死体袋のように運ばれていく。      3  どこへ、と問われれば、答えは店の奥だった。  上条をずるずると引っ張っていく|神裂《かんざき》には、特に目的地とかはないらしい。とりあえず人目のつかない所まで行った後、上条に一通りの抗議と苦情を述べた神裂は、そこでふと近くにある|曇《くも》りガラスの引き戸を発見したようだった。 「言われてみれば海の家には|風呂場《ふろば》もあるのですね。こんな事を明言するのもどうかと思いますが、トラブル続きでロクに|湯浴《ゆあ》みもしていない状態なのです」  そう、海の家にはお風呂がある。浜辺に建っている簡易シャワーと同じく、塩水を肌から洗い落とすためのものだ。  上条は、ちょっと自分が歩いてきた通路を振り返って、 「けど、風呂ってあのな……結構のんびりしてねーか。「|御使堕し《エンゼルフオール》』はどーすんだよ? ありゃ完成しちまったらもう戻せないんだろ」 「ええ、まあ……」神裂は、そこで何かを言いよどんだ。「……、私情を挟んでいられない事態なのは心得ているのですが、いけませんね。あの子に笑顔を向けられる事に、私はどうしても慣れる事ができないようです。私には、そんな資格はありません」  何かを|噛《か》み締めるように、神裂は言った。  何かから目を|逸《そ》らすように、そう言った。 「……、」  上条は|黙《だま》り込む。かつて『三沢塾』という|錬金術師《れんきんじゆつし》の|要塞《ようさい》に攻め込んだ時も、ステイルはやはりインデックスの事をロに出しながら、そういう顔を浮かべていた。  それは、きっと掘り返してはいけない深い傷だ。  だからこそ、上条はそれ以上は何も告げない事にした。 「ふうん。で、何で|俺《おれ》は風呂まで引きずられてんだ? なんか今後の作戦会議とか?」 「……、」神裂は軽く首を横に振って、「いえ。あなたに|頼《たの》みたいのは簡潔に言えば見張りです。そこの風呂は温泉や銭湯と同じく共用なのでしょう?」  む、と上条は黙り込む。  こんな小さな海の家に『男湯・女湯』という区別などない。風呂場は一つきりで、男が使っている時は男湯になり女が使っている時は女湯となるだけだ。  神裂はみんなの目には『ステイル=マグヌス』に見えるのだ。となると、たとえ曇りガラス越しに神裂が入っているのがシルエットで分かっても、『あ、男が入ってる』と思って|他《ほか》の男性が構わず|突撃《とつげき》してしまう可能性がある。そう、例えば海の家のオヤジとかが。 「……。今、それは楽しそうだと考えませんでしたか?」 「滅相もない! 日本刀相手に|命懸《いのちが》けでボケるつもりは毛頭ございませぬ!」  |神裂《かんざき》はちょっと不審そうな目で|上条《かみじよう》を見た後『それでは|頼《たの》みましたよ』と言って|曇《くも》りガラスの向こうの脱衣所へと入って行った。  曇りガラスを通してでも、シルエットは映る。むしろ中途|半端《はんぱ》なシルエットの方が逆に生々しい。いけないいけない、と上条は首を振って後ろを向き、曇りガラスの引き戸に背中を預けてため息をつくと、 「おっすカミやん。こんなトコで何やってんだぜーい?」  と、いきなり通路の方から|土御門《つちみかど》が正々堂々と歩いてやってきた。変装が目的らしいので、屋内だろうが夜だろうが青いサングラスは外していない。 「おい、お前周りから見たら|修羅場《しゆらば》中の野郎アイドルに見えるんだろ」 「なに、バレなきゃ良いんだにゃー。これ土御門さんの基本|概念《がいねん》でね」  土御門はいつものように言った。  上条には、何もかもがいつも通りのように、見えてしまった。 「……、ごめんな。カミやん」  何が? と上条が答えると、土御門はわずかに寂しげな顔を見せた。 「実はカミやんが今まで色々ピンチだった事は知ってたんだ、|錬金術師《れんきんじゆつし》の|砦《とりで》に向かった事とか、二万人の人形の|虐殺《ざやくさつ》実験とか、色々だぜい。それを知ってて見殺しにしてきた。だからゴメンって言ってんだにゃー」 「……、」 「やっぱ、「力がないから何もできない』のと『力があるのに何もしない』ってのは全然違うぜよ。これでも土御門さんも色々悪かったなと思ってるんですたい」 「いんじゃねーの、別に」  どこか疲れたような土御門に、しかし上条は全くいつも通りにそう言った。  わずかに|驚《おどろ》いたような顔をした土御門だったが、上条はそれ以上何も言わなかった。慌てて取り|繕《つくろ》うように何かを説明する必要もない、と思ったからだ。  土御門はどこまで行っても土御門で、それが変化する事はない。結局、上条にとって土御門|元春《もとはる》が|寮《りよう》の|隣人《りんじん》でクラスメイトである事には変わりないのだから。  そっか、と。土御門は笑った。 「そんなら、いっかにゃー。んじゃ、ブルーなイベントはここまで。こっからが本題ですたい」 「本題?」 「ざざん! 夏のドキドキ神裂ねーちん生着替え|覗《のぞ》きイベント!!」 「なっ? 正気かお前!!」 「……見て見てカミやん。最近のケータイってカメラ機能がついてるんだぜい」 「聞けよ! ってかマズイよ、あの幕末|剣客《けんかく》ロマン女は絶対に冗談通じねーって! そんなのバレたら、なんか一子相伝のすごいので真っ二つにされるに決まってるって!」 「……、逆説。リスクがなければ|覗《のぞ》くのかにゃー?」 「……、」 「……|紳裂《かんざき》ねーちんはよう、脱いだらきっとすごいんだぜい」  すごっ!? と|上条《かみじよう》の呼吸が止まるが、慌てて首を横に振る。 「け、けど……ダメだ! 大体お前は神裂の仲間なんだろ! そんな裏切りはまずいだろ!」  上条の必死の叫びに、しかし|土御門《つちみかど》は青いサングラスをキラリン、と輝かせて、 「はっ、何を|仰《おつしや》いますやら。イギリス清教「|必要悪の教会《ネセサリウス》』の|潜入《せんにゆう》工作員・土御門|元春《もとはる》。 『背中を刺す刃』こと『|嘘《うそ》つき村の村民」とはこのオレの事だぜーいっ!」 「うわーっ! そんなヤツと|一緒《いつしよ》に危ない橋なんか渡りたくねーっ!」  上条が断固として拒否の姿勢を保ち続けると、土御門は|面白《おもしろ》くなさそうに、 「ちっ、つまらんヤツめ。まあ一度は殺されかけた相手だしビビるのも無理ないけど、神裂ねーちんはそんなに|恐《こわ》いヤツじゃないぜい。むしろ|可愛《かわい》い系だぜい」 「か、かわ……?」 「おうさ。知っての通り、オレは中学に入ってから|学園都市《こつち》に来たんだけど。その前はロンドンにいた訳だにゃー。その時は英語と日本語使えるのはオレ含めてわずかしかいなくてさー。イギリス清教入りたてだった日本語使いの神裂ねーち。んが、英国人にまくし立てられた時のカチコチの|身振り手振り《ボデイランゲージ》ときたらもうっ!」土御門は軽く壁を|叩《たた》いて、「あの|頃《ころ》は『|必要悪の教会《ネセサリウス》』にいた日本人はオレだけだったから。英文の文書を持った神裂ねーちんが困り顔で助けを求めてくる所とか相当にポイント高かったですたい」 「……、信じらんねえ。コイツが|頼《たよ》りにされる場面だなんて」 「そんな事はどうでも良いから、のぞき♪ のぞき♪ 可愛いねえさんゲットだぜーい」 「だからケータイのカメラは使うな!」 「カミやーん、自分に正直になろうぜい?」 「何でそんなやる気まんまんなんだお前! 大体お前の守備範囲はもっと小さく幼くじゃなかったのかこのシスコン軍曹!」 「キサマ! その名でオレを呼ぶな! 大体何の根拠があってそんな事を言う!?」 「いやリアル義妹にラブなんて普通じゃねーよお前」 「ぶごはっ! ら、ラヴ[#「ヴ」に傍点](発音注意)じゃないよ誰がそんな事言ったんだにゃーっ!」 「法律で許されれば何でもやって良いって話じゃねーだろ。な?」 「や!? や、やややややヤルって、な、何を? ナニを!?」 「え、なに? なにその動揺っぷりは? ちょっと待てよ。あれ土御門さん、あなたギャグじゃなくってまさか本当に……?」 「やめろ探るなそれ以上一言でもしゃべりやがったらぶっ殺して差し上げるぜいっ!!」  ぐいぐいと|上条《かみじよう》の|襟首《えりくび》を|掴《つか》んで|黙《だま》らせようとする|土御門《つちみかど》だったが、通路の床板が新たに「きしっ……』と小さく|軋《きし》んだ|瞬間《しゆんかん》、土御門はまるで忍者のように物陰から物陰へと移動してどこかへ消えてしまった。 (あ、今の情景を見られると『芸能人が少年の首を締めている』スクープ映像に見えるのか)  割とのんびりとそんな事を考えながら、上条は足音がした方を振り返る。 「やっほいおにーちゃん。こんなトコで何やってるの?」  インデックスと|美琴《みこと》だった。  この場合、母と|従妹《いとこ》が並んで歩いてきた、と変換するべきだろうか? 「あれ? ってか、もうメシ食い終わったのかお前ら?」 「あらあら。違いますよ|当麻《とうま》さん。何か料理を出すのに時間がかかるらしくて、その間にお|風呂《ふろ》をいただこうかと思っただけなんだけど」  と、美琴が|曇《くもり》りガラスの引き戸に目を向けて、 「……、おにーちゃん。|誰《だれ》か入ってるの?」 「え、まぁ。うん。|俺《おれ》がここにいるのは見張りなんだけど」 「見張り? わっけ分かんないなー。そんなの別にいらないじゃん。中にいるの、どうせおにーちゃんの友達でしょ。だったら|一緒《いつしよ》に入っちゃってよう」  え? と、上条は美琴の言葉に絶句した。  その言葉の意味が上条の脳にじわじわと|染《し》み渡るまで、優に五秒は必要だった。  そうだ、彼女|達《たち》の目から見ると、神裂火織はステイル=マグヌスに見えるのだ[#「神裂火織はステイル=マグヌスに見えるのだ」に傍点] 「ちょ、ちょーっと待った! 誰も風呂に入るとは言ってない! まして友達と一緒に入らなければならないなんてルールもないっ! 別にアイツが出るの待っても———ッ!!」 「えー、その次の次まで待ってたら|流石《さすが》に料理はできてるよ。絶対に冷めてるよ。別にいいじゃない[#「別にいいじゃない」に傍点]、男同士なんだから[#「男同士なんだから」に傍点]。さっさと一緒に入っちゃってよう[#「さっさと一緒に入っちゃってよう」に傍点]」 「なぶあっ!? って待て! ちょ、ホントに待————ああア|鳴呼《ああ》!!」 「はいはーい、ごめんよごめんよー」  |遠慮《えんりよ》なく開けられる引き戸、情け|容赦《ようしや》なく脱衣所に放り込まれる上条当麻。  そこに。、  その目の前に。  何か、文章で表現してはいけない格好の|神裂《かんざき》さんが立っていた。  おそらく神裂が長風呂派の人間だったのならば、上条が脱衣所に放り込まれた所で悲劇は起きなかっただろう。脱衣所の向こうにさらに一枚、風呂場へ|繋《つな》がるドアが|阻《はば》んでいるはずだから。  だが、|神裂《かんざき》はちょうど|風呂《ふろ》から出てきた所らしい。特に何も身につけず、とりあえずお湯に|濡《ぬ》れた髪を束ねようと両手を後ろに回し、髪を束ねる|紐《ひも》を口で小さく|唖《くわ》えた姿勢のまま、彼女の時間は止まってしまったようだった。  ぴしゃん、と|上条《かみじよう》の真後ろで閉まる引き戸の音。 「……、」 「……、」  密室に下りるのは|沈黙《ちんもく》の重圧。泣き出すだの怒り出すだのしてくれれば上条も様々なリアクションを提供できるのだが、もはや神裂の顔には一切の表情がない、隠しもしない。その手はただゆらりと、壁に立てかけられた長い|黒鞘《くろさや》へと伸びていく。  だが、その目は言っている。黒曜石のように黒く輝く神裂の|瞳《ひとみ》は言っている。  最後に何か言う事は? 「し、—————」  謝っても言い訳しても絶対に殺される、と混乱の極みに達した上条は思わず、 「—————新感覚日本刀つっこみアクション!?」  直後、迷わず|黒鞘《くろさや》にて|一閃《いつせん》。      4  午後一〇時。  海の家二階のベランダに、|神裂《かんざき》は立っていた。砂漠の夜と同じく砂浜の保温性能は低いのか、真夏にしてはそこそこ涼しい夜だった。  と、そのベランダの柱をよじ登って、|土御門《つちみかど》がやってきた。周りのみんなから『話題の芸能人』と見られる土御門は、まともなルートを|辿《たど》ってベランダに向かう事ができないのだ。  土御門は、無言で淡い夜風に打たれている神裂を見て、 「何だにゃー、顔が赤いぜい。ひょっとしてまだ気にしてるのかにゃー?」 「……、仕方がないでしよう」 「ぷっ。|火照《ほて》った体を持て余しやがって、見られる喜びに———ってジョークですよ? 神裂ねーちん、帯刀する者の心得としてその気の短さはいかがなものですかなーですよ?」  分かっていますよ、と神裂はつまらなそうに言う。  それから、 一度だけため息をついて、 「しかし、まあ。確かにあの少年は『|御使堕し《エンゼルフオール》』とは関連が|薄《うす》そうです。なんていうか、その、|魔術師《まじゆつし》と呼ぶには人格がくだらなすぎます」 「実行するだけの理由もないしにゃー。しかしそれを言うならカミやんの周りのメンツも右に同じか。仮に天使を生け捕りにできた所で、彼らに使い道が分かるとは思えんぜよ」  二人の会話は別に彼らを見下している、という訳ではない。単純に、区別の問題。いかに強大な力を持つ (と言われる)天使を手中に収めた所で、持ち主に魔術の心得がなければ宝の持ち腐れ。日本製の家電商品は優秀だけど海外ではコンセントが違うので使えません、と言っているようなものだ。別にそれでどちらの優劣が決まるという訳ではない。  だが、そうなると|他《ほか》に怪しい容疑者はいない。  次にどう動いて良いのか、それが分からない。  宙ぶらりんになって考えが煮詰まってしまった二人の思考は、いつしか他のものへと|摩《す》り替わっていってしまう。 「それにしても、本当に上条|当麻《とうま》をあの子の|側《そば》に置いておいても|大丈夫《だいじよ つぶ》なのでしょうか。今日一日、いえ、たった半日であの不測の事態です。女湯に|突撃《とつげき》など今日び小学三年生でも笑えないでしょう。もしや、あの子との間にも同様かそれ以上の不測の事態が起きているやも……」 「うーん、でもカミやんは頑張ってると思うぜよ、人の寝込み|襲《おそ》うようなキャラでもないし」 土御門は腕を組んで、「あれは決してプロじゃない。いいかい、プロじゃないんだぜい。ウチらみたいに戦う理由があって、敵を|斬《き》る罪をごまかせる訳じゃない。自分の罪を何者のせいにもせず、自分で受け止めてなお前へ進む。それは評価できないのかにゃー?」 「……、それは」 「大体ですたい、カミやんは禁書の命の恩入なんだぜい。本来なら感謝こそすれ一方的に怒るだなんてお|門違《かどちが》いもいい所なんだぜい」 「分かっていますよ、それぐらい。分かってはいるんです」  そう、かつて|瀕死《ひんし》のインデックスの命を救ったのは|上条当麻《かみじようとうま》だ。  |神裂火織《かんざきかおり》でもステイル=マグヌスでもなく、上条当麻だ。  本来ならば、その礼はするべきだ。|否《いな》、礼などと易しいものではなく、この身をもって同等の価値ある恩を返すのが筋だ。恩返しなどツルやカメでもできるのだから。 「……、しかしまあ。あまりにタイミングが悪すぎます」  正直に言うと、禁書目録の件が終わって以来、仕事や立場の都合とはいえ礼を告げる事もできなかった事に神裂は負い目を感じていたぐらいだった。 「それなのに、その矢先に。まったく、あれでは恩を返したい|旨《むね》を切り出そうにも……」 「あれー? 神裂さんは裸を見られたぐらいで恩を忘れてしまうのかにゃー?」  ぐっ、と神裂は|黙《だま》り込む。 「あれあれー? 神裂さんの抱いていた恩はその程度のものだったのかにゃー?」  ぐぐっ、と神裂は奥歯を|噛《か》み締めながら|土御門《つちみかど》を見た。  その|頃《ころ》、上条当麻は海の家『わだつみ』の一階で一人、考え事をしていた。  電気は|点《つ》いているが、もう|誰《だれ》もいない。二階から聞こえる女の子らしい笑い声を聞く限り、もしかすると上の階でインデックス|達《たち》はトランプでもやっているのかもしれない。  点けっ放しのテレビでは夜のニュースが流れていた。夜のニュースは昼のニュースの焼き増し的な感があるので、細かい余計な文章で水増しがされていた。 『えー、|新府中《しんふちゅう》刑務所を脱獄した|火野神作《ひのじんさく》は|未《いま》だ発見されていませんー。火野はその特異な殺人法「|儀式《ぎしき》殺人」によって多くの|愛好家《マニア》や|模造犯《コピーキヤツト》を生み出しておりー、今回の脱獄にも彼らが|関《かか》わっている可能性もあるとして警察では……』  上条はブラウン管の向こうで原稿を読んでいる|小萌《こもえ》先生をぼんやり眺めていた。 『……また、火野神作は精神病院の通院記録もありー、先の公判でも彼の二重人格の器質があるとされ、またその状況下で責任能力があるかないかで波乱を呼びましたがー……』  火野神作。  |記憶《きおく》のない上条は、その殺人犯がリアルタイムで活動していた時期の事は知らない。しかし、凶悪な事件が起きるたびにその名前がポツポツと登場したり、今でもワイドショーや週刊誌に時折、顔写真が映ったりする事から、相当に|衝撃的《しようげきてき》な殺人を犯した事は推測できる。  あんまり|観《み》ていて気持ちの良いものではなかったので、上条はチャンネルを替える。健康食品に隠された|驚《おどろ》きのダイエットパワーを紹介するバラエティ番組を観ながら、しかし上条の頭には先ほどのニュースの内容がこびりついていた。 (二重人格ねえ。そういや夏休みの補習でもやってたっけ、二重人格能力者とか)  |上条《かみじよう》はのんびりとテレビを|観《み》ながら考えた。一口に二重人格と言っても、『入格A』と『人格B』がキレイに切り替わるとは限らない。例えば右手と左手を別々の人格が動かすとか、人格Aが考え込んでいる間に入格Bが手を動かしていたりとか、そういった『共存』パターンも報告されているはずだ。  ——と、ここまでのお話が、一週間ほど前に受けた夏休みの補習の内容だった。何でも、一時期学園都市では二重人格者には二つの能力が宿るかどうかを研究していた事があったらしく、そういったデータは豊富にあるのですー、というのが|小萌《こもえ》先生談だった。 「……、うだー」  と、上条は嫌いな勉強の事を思い出してテーブルに突っ伏した。  今日もまた一日いろんな事があったなー、とこれまでの事をちょっと整理してみる。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』という|魔術《まじゆつ》が発動した。  それは莫大な力を持つ『天使』を手に入れるための術式らしかった。  副作用として、世界中のみんなの『中身』と『外見』が『入れ替わって』しまった。  その効果範囲は世界中を|覆《おお》い尽くすほどのものだった。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』は未完成の仮発動状態で、今なら異常を直せるかもしれない。  けれど、『|御使堕し《エンゼルフオール》』が完成してしまったらもう直せないと考えて良い。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めるには、術者を倒すか|儀式場《ぎしきじよう》を|壊《こわ》せば良いらしい。  |歪《ゆが》みの中心は上条|当麻《とうま》にあり、どうも上条は『術者』と間違われているらしい。  そのせいで上条は事情を知る一握りの魔術師|達《たち》に命を|狙《ねら》われるかもしれない。  よって、上条は『|御使堕し《エンゼルフオール》』が完成する前に『真犯人』を見つけ出し、術者を倒すなり儀式場の魔法陣を壊すなりしなければならない。 「……、うーん」  上条はテーブルに突っ伏しながら、一人考えた。  命を狙われている者にしては、あまりにも無防備すぎる仕草で。 (っつっても、いまいち|緊張感《きんちようかん》ってのがないんだよなあ)  そう、今回は『三沢塾』のような人殺しの|潜《ひそ》む建物へ飛び込む訳でもない。一刻も早く事態を収拾しなければ二万人もの人々が殺される訳でもない。確かに世界中で起きている問題はとんでもない事なんだろうが、どうにも|間抜け《コミカル》な感じなのは何なんだろうか? (それに、今回は魔術のプロが二人もついてるし)  |土御門《つちみかど》の方は|未《いま》だに『|隣人《りんじん》』という認識が強いが、あの二人はその道のプロ(らしい)。専門家が味方についている、という事実は、|何故《なぜ》だか無条件に上条に安心感を抱かせる。  実は、それが「|素人《しろうと》』上条当麻が『|玄人《くろうと》』|神裂火織《かんざきかおり》達に問題の責任を押し付けているだけ、という事に気づいていない、小さな小さな高校生だったのだが。  ———その無防備な少年を、『視線の主』はじっと見ていた。  その「視線の主』は海の家『わだつみ』の床下に隠れていた。海の家というのは砂と湿気の侵入を防ぐため、床下の高さは七〇センチぐらいある。神社や何かの床下を思い浮かべてもらえば良い。  床板と床板の間にできたわずかな|隙間《すきま》穴から、『視線の主』は少年を見た。 「……エンゼルさま、エンゼルさま」  不健康なほど|痩《や》せぎすの中年男の口から|漏《も》れたのは、だが声変わり前の小学生のような高い声だった。|暗闇《くらやみ》の中で|響《ひび》く中性的な声色には、どろりとした狂気がまとわりつく。 「……エンゼルさま、エンゼルさま。お聞かせください」  がりがり、と。わずかに聞こえるのは、木の板を釘で引っ|掻《か》くような音。  実際、その『視線の主』は切羽詰まっていた。彼にしても好きでこんな場所に身を隠している訳ではない。本当は昔の仲間の元を訪ねるつもりだったのだが、思いの|外《ほか》警察が素早く動いたために身動きが取れなくなってしまったのだ。 「エンゼルさま。お聞かせください。エンゼルさま」  しかし、『視線の主』の顔には追われる者の不安や恐怖といったものは存在しない。  右手には奇妙な形をしたナイフ。左手にはノートぐらいの大きさの傷だらけの木の板。  ガリガリと。ナイフの先端で木の板に傷を走らせる様を、|嬉《エじぎぱ》々として眺めている。 「エンゼルさま。どうすれば警察の目を逃れて無事に仲間の元へ|辿《たど》り着けますか?」  ガリガリと。声に反応するように、自分の意思とは無関係に動く[#「自分の意思とは無関係に動く」に傍点]右手の先を『視線の主』は追いかける。傷だらけに見えるものは、|全《すべ》て刻まれた文字だった。エンゼルさまからのメッセージである。 「エンゼルさま。それでは今回も[#「それでは今回も」に傍点]イケニエを捧げれば助けてくれるんですね?」  ガリガリと。刻まれる文宇に、『視線の主』はいつでも従って生きてきた。エンゼルさまはいつでも正しい。エンゼルさまの言う事を聞いていれば何も間違えない。、たまにやりたくない事を命令してくる事もあるけど。そのせいで二八人も殺してしまったし。 「エンゼルさま、エンゼルさま。それでは、イケニエはあの少年でどうでしょう?」  ガリガリと。刻まれる文字は『YES』の三文字。『視線の主』の顔が|曇《くも》った。また人を殺すのか、嫌だな。やりたくないな、けど、仕方がないか。エンゼルさまがそう言うんだから。私のせいではないんだし。 「エンゼルさま。それでは、私は今回もエンゼルさまを信じます」  そう言って、「視線の主」は奇妙な形をしたナイフを太く短い舌で|舐《な》めた。 『視線の主』脱獄死刑囚・|火野神作《ひのじんさく》は床下を走る太い電気ケーブルへとナイフを突き立てた。  ブツン、と。いきなり|全《すベ》ての電気が消えた。  停電? と|上条《かみじよう》は|暗闇《くらやみ》の中で|眉《まゆ》をひそめた。海の家は入口が大きく開放されているため、月明かりのせいで真っ暗闇というほどでもなかったが。  停電が起きた時に、思わず|沈黙《ちんもく》した電化製品に目を向けてしまう事はないだろうか。上条は突然光を失ってしまった|天井《てんじよう》の蛍光灯に何気なく視線を向けようとして、  がさり、と。  上条の足の下、床板の底から、木の板を軽く引っ|掻《か》くような音が聞こえた。  何だ? と上条が思わず腰を浮かせてすぐ足元の床板へと視線を向けた|瞬間《しゆんかん》、  ガスン!! と。三日月のようなナイフの刃が、足元の床板を貫通して突き出てきた。 「……ッ!!」  上条の|喉《のど》が|干上《ひあ》がる。足と足の間のわずかなスペースから、刃物が飛び出している。ほんの二秒前、沈黙した蛍光灯に気を取られていたら。床下の音を無視して腰を浮かさなかったら。そう考えただけで全身の|皮膚《ひふ》から気持ちの悪い汗が噴き出してくる。  ナイフの刃。  三〇センチぐらいの長さの、紺長い三日月の刃、だが、刃は三日月の外側ではなく内側につけられていた。ナイフというよりは、|鎌《かま》や|爪《つめ》のような印象を持たせる刃だ。  ぎち、ぎち、と。刃は前後に軽く揺さぶられ、やがて床板の下へとゆっくり沈んでいく。  一刻も早くこの場を離れるべきなのに、上条は動けない。|得体《えたい》の知れない薬を血管に打ち込まれたように頭の奥がじりじりと焼けている。破裂しそうな心臓の鼓動に、|震《ふる》えながら、上条は三日月刃が空けた床板の穴を|呆然《ぽうぜん》と眺めた。  と、何かが見えた。  わずかに空けられた床板の穴の奥に。まるでカギ穴から部屋の奥を覗き込むように。闇の底から、じっとりと。血走ったような、泥の腐ったような、  狂ったような、眼球が。 「ひっ……、」  上条が情けない声をあげて後ろへ下がった瞬間、後追いするようにナイフの刃が上条の足元すれすれの床板から飛び出した。上条の足がもつれる。床板の上を転がる。ナイフの刃が再び床下に|潜《もぐ》り、さらなる|一撃《いちげき》の|狙《ねら》いを定める。 (落ち着け、落ち着け!!)  |上条《かみじよう》は|呪文《じゆもん》のように繰り返したが、それは余計に休を|縛《しば》り付けた。|痺《しび》れる頭で上条は考えた。とにかく床の上に倒れているのは危険すぎる。床板からの|攻撃《こうげき》を逃れるならテーブルの上にでも飛び乗れば良い。そう思い、床板の上から立ち上がろうとした所で、  ベギン!! と。  床板が大きく|爆《は》ぜ割れて、床下から飛び出してきた腕が上条の足首を|掴《つか》み取った。 「ぃ、ひい!?」  |得体《えたい》の知れない|衝動《しようどう》に、上条の心臓が口から飛び出しそうになる。  必死に足を動かしても、足首を擢む戒めは外れない。|万力《まんりき》のような怪力で足を掴まれているのではない。まるで痺れたように上条の足が動いてくれない。 (落ち着け、|焦《あせ》るな、|恐《こわ》がるな。敵が|誰《だれ》だか知らねーが、別に得体の知れない存在じゃねえ。床板にナイフを突き立てるのも、床板を|拳《こぶし》で|叩《たた》き割るのも、決して人間に不可能な事じゃない。だから落ち———)  そこまで考えた時、上条は唐突に見てしまった。  自分の足首を捌む手を。  ある|爪《つめ》は割れ、ある爪は|剥《は》がされ、ある爪には黒く固まった血がこびりつき。指は内出血で青黒く変色し、手の甲は大きな傷のカサブタを何度も何度も剥がしてグジュグジュになった黒い肉色の傷口が|露出《ろしゆつ》して。  それはまるで、腐って透明な粘液のこぼれる果物のように見えた。  それはまるで、得体の知れない|人喰《ひとく》い細菌に侵された死人の手のように見えた。 「あ、ぅあ! い、ひっ、あ……ッ!!」  呼吸がもつれる。心臓がおかしな動きを見せる。  |襲撃者《しゆうげきしや》の行動一つ一つは、別に人間に不可能な事ではない。|一方通行《アクセラレータ》や|錬金術師《アウレオルス》に比べればなんという事のないものだろう。一歩離れて見てみれば、呼吸困難や脈拍異常が起きるほどの|錯乱や混乱《コンヒユージヨン》が起きるのはおかしいと感じる事もあるかもしれない。  しかし、例えばの話。  透明なビニール袋の中に生きたゴキブリを入れておく。間にビニールがあるから直接ゴキブりに触れないと分かっていても、袋ごとゴキブリを前歯で|噛《か》み|潰《つぶ》す事はできるだろうか?  それと同じ。  理屈では分かっていても、打ち消す事のできない|悪寒《おかん》や|震《ふる》え。  この襲撃者は、生理的な|嫌悪感《けんおかん》や不快感を使って獲物を縛り付けているのだ。 「は、ぁひ、あ、ぇぐ、う……っ!」  上条は必死に足を動かして自分の足を捌む襲撃者の腕から逃れようとしたが、麻酔薬でも打たれたように力が入らない。|染《し》み込んだ黒い|嫌悪感《けんおかん》を振り払う事ができない。  床の上に倒れたまま足を拘束された上条の胸の辺りの床板から、ガリガリと刃物の先端で木の板を削るような音が聞こえた。  そして。  もう一つの視線の主は、一五〇メートル離れた暗い暗い砂浜の上に寝そべるようにして、海の家『わだつみ』の中の様子を眺めていた。  それは赤いシスターだった。  |歳《とし》にして一三歳の少女。|緩《ゆる》やかにウェーブする長い金髪に月明かりを反射するような白い肌。|可愛《かわい》らしい容姿の少女だったが、身につけているモノ|全《すべ》てが異様だった。本来なら修道服の下に着るインナースーツの上に|外套《がいとう》を|羽織《はお》っただけ。インナースーツと言ってもほとんどワンピース型の下着みたいなもので、もはや|華奢《きやしや》な体のラインを誇示しているようにすら見える。しかもあちこちに黒いベルトや金旦ハがついていて、拘束衣としても使えるように作られているらしい。さらには太い首輪から伸びた|手綱《リード》、腰のベルトには金属ペンチや|金槌《かなづち》、L字の|釘抜き《バール》やノコギリなどが刺さっていた。  それらは決して工具ではない。人肉を|潰《つぶ》し人骨を削り人体を切断するために用いられる、|魔女《まじよ》裁判専用の|拷問具《ごうもんぐ》だ。良く晃れば、工具と違い細かい改造が|施《ほどこ》されているのが分かる。  無数の拷問具に|彩《いろど》られた少女は、しかし全く表情を動かさない。  |術《 つつむ》いているため前髪に顔の大部分が隠れているが、|唯一見《ゆいいつ》える小さな口がため息をついた。  気配を探る。  海の家『わだつみ』の二階に気配が複数。何らかの異常が起きたと察したようだが、 一階に下りるまでに六秒程度の時間はかかるだろう。  それだけ時間があれば、床下の|襲撃者《しゆうげきしや》は余裕で床板ごと被害者の心臓を貫く事ができる。  少女は前髪で隠れた顔の下で、もう一度ため息をついた。  のそり、と立ち上がる。  何の予備動作もなく、小さな影は六秒より|遥《はる》かに速く一五〇メートルの距離を詰める。  秒速五〇メートル。  |石弓《クロスボウ》の矢と同じか、それ以上の速度をもって。  その、|瞬間《しゆんかん》。  恐るべき速度を持った赤いシスターが、突然横合いから|上条《かみじよう》の視界へと飛び込んできた。  あまりの速度に、上条はそれが入間の少女である事にすら気づけなかった。  ほとんど床を|舐《な》めるように身を沈めて走る赤い少女は、腰に差したL字の|釘抜き《バール》を引き抜くと、上条の足を|掴《つか》む、床板から飛び出した襲撃者の手首へとバットのように思いっきり振り抜いた。  ボギン!! と。  |凄《すさ》まじく鈍い音と共に、|襲撃者《しゆうげきしや》の手首がおかしな方向へと|捻《ね》じ曲がる。  折れた、というよりも。|千切《ちぎ》れそうになった、と表現した方が良いかもしれない。 「ぎ、びぃ! ぎがぁ!!」  床下からの|炮曜《ほうこう》と共に、|上条《かみじよう》の足首を|掴《つか》んでいた手が床下へと逃げ込んだ。がさがさ、と。床下を移動して距離を取ろうとしているのが、床板を|擦《こず》るような音で感じ取れる。 「……、」  その赤いシスターはL字の|釘抜き《バール》を放り投げると、今度は|金槌《かなづち》を取り出した。そのまま足元の床を思い切り打ち付けると、床板が砕けて直径七〇センチぐらいの大穴が空く。  |緩《ゆる》いウェーブの金髪の少女は金槌を捨てると、ペンチを持って大穴へと飛び込んだ。  一秒の|沈黙《ちんもく》の後。  ガンゴン!! という凄まじい音が床下から|炸裂《さくれっ》した。何かが暴れているようだった。狭い|艦《おり》の中を|獣《けもの》が突き破ろうともがいているような、そんな感じだった。  |呆然《ぽうぜん》と、上条は床下から|響《ひび》く|戦闘《せんとう》の音に聞き入っていたが、  ズバン!! と。いきなり五メートル前方の床板が、爆発するように大きく|弾《はげ》け飛んだ。まるで海面を跳ねるイルカのような動きで、黒い影が床下から飛び出してきた。  黒い影。  赤いシスターではなく。  床の上をごろごろ転がり、起き上がったその影は、|痩《や》せぎすの中年男だった。  一目で内臓がボロボロだと分かるような不健康な肌。汗と泥、血と油によって汚れたべージュの作業服。右の手には鉄の|爪《つめ》のような三日月ナイフ。左の手首は折れて青く|欝血《うつけつ》している。その|唇《くちびる》から赤い血の筋が垂れていた。前歯と犬歯、二本の歯を強引に引き抜かれていた。 「ぎビっ、ガぁ!!」  手負いの|獣《けもの》は、三日月ナイフを振り上げて座り込んだままの|上条《かみじよう》へ|覆《おお》い|被《かぶ》さろうとする。 (く……ッ! )  上条は反射的に辺りを見回したが、ナイフを受け止められるような『武器』はどこにもない。切羽詰まってボケシトの中を探ると、指先に硬い感触が当たった。取り出してみると、それは携帯電話だ。こんな物では刃物を受け止める事もできない、と舌打ちしたが、不意にピンときた。折り畳み式の本体を親指で跳ね上げるように開くと、上条はカメラのレンズで|襲《おそ》い掛かる人影の顔に|狙《ねら》いを定める。  バシィ!! という|闇《やみ》を裂く強烈なカメラのフラッシュ。 「びゥイ!!」  両目を焼かれた中年男の三日月ナイフの動きが止まる、上条はとうさに離れようとしたが足腰に力が入らない。何とか床を転がるようにして、|襲撃者《しゆうげきしや》から距離を取る。  中年男は三日月ナイフを構え、しかし|追撃《ついげき》をしない。  ゆらり、と。体を|弛緩《しかん》させたまま、何かをブツブツと|呟《つぶや》いていた。 「エンぜルさま、えんぜるサマ……」  その作業服の胸の辺りで、月明かりに反射して何かがキラリと光った。  それは、名札だった。 「エンゼルさま、エンゼルさま。エンゼルさま!」  糸で|縫《ぬ》い止められたプラスチックの名札には、無機質な文字がこう書いてあった。  囚人番号『七−〇六八七号』|火野神作《ひのじんさく》 「エンゼルさま、どうなってんですか。エンゼルさま、あなたに従ってりゃあ。間違いはないはずなのに! どうなってんだよエンゼルさま、アンタを信じて二八人も捧げたのに[#「アンタを信じて二八人も捧げたのに」に傍点]!」  |壊《こわ》れたように狂ったように終わったように絶叫する、囚人服の男。  上条はここにきて、ようやく今日一日流れていたテレビのニュースを思い出した。 『えー、現場の|古森《こもり》ですー。本日未明、都内の|新府中《しんふちゅう》刑務所から脱獄した死刑囚、火野神作の|行方《ゆくえ》は現在も|掴《つか》めていないようでー、周辺の中学校などでは部活動を|緊急《きんきゆう》で中止にするなど緊迫した空気が伝わってきますー』 (けど……、)  上条は追い詰められ|錯乱《さくらん》し、絶叫する男を見る。彼が犯罪者だというのは分かる。そして着ている服から脱獄した『火野神作』らしい事も何となく分かる。  しかし、それならどうして火野神作は誰とも入れ替わっていないのか[#「それならどうして火野神作は誰とも入れ替わっていないのか」に傍点]?  ———『|御使堕し《エンゼルフオール》』によって、|誰《だれ》もが入れ替わっていなければおかしいのに。  そして、さっきから火野神作が叫んでいるエンゼルさまどは何なのか[#「さっきから火野神作が叫んでいるエンゼルさまどは何なのか」に傍点]?  ———『|御使堕し《エンゼルフオール》』は、最終的に何を求めるための|魔術《まじゆつ》だったか。 (こいつ、まさか)  |上条《かみじよう》が思わず問い|質《ただ》そうかと思った|瞬間《しゆんかん》、|火野神作《ひのじんさく》はナイフを振り上げ、 「答えろよエンゼルさま! どうすればいい、この後どうすればいい! エンゼルさま、責任取って今度こそキチンと答えやがれえええええええええええええええええええ!!」  振り下ろした。  ただし、それは上条に向かってではない。火野は自分の胸に三日月ナイフを突き立てた。ガリガリと。切っ先を突き立てたナイフをそのまま乱暴に動かした。メチャクチャに振るうナイフは作業服を引き裂き、汗にまみれたシャツを切り裂き、あっという間に血に染まる。  一見して乱雑に見えた無数の傷は、机に彫ったラクガキのような文字の形を取っていた。  |GO ESCAPE《とりあえずにげろ》  文法も何もない、英単語を並べただけの『言葉』。しかし、その『言葉』を見た火野神作は自分の血にまみれた顔で壮絶な笑みを浮かべる。  瞬間、上条と火野の間に割って入るように床板が大きく|爆《は》ぜ割れ、赤いシスターが飛び出してきた。その手にあるペンチには、何か白く小さな物が挟んであった。人間の前歯のようにも 見える。赤いシスターがペンチを握る手に力を込めると、それはあっさりと砕け散った。  不自然に前歯が欠けている[#「不自然に前歯が欠けている」に傍点]火野神作は、赤いシスターの動作に思わず一歩二歩と下がった。 そして湿った革布を取り出し、刃から|塗《まみ》れた血を|拭《ぬぐ》い取ると、手の中にある三日月ナイフを赤いシスターに向かって投げつけた。  ひょい、という音が似合うほど簡単に、赤いシスタ!は首を振ってナイフを|避《さ》けた。  標的を失った飛び道具は、|真《ま》っ|直《す》ぐ上条の顔面に向かってくる。 「え?」  思わず|呟《つぶや》いてから、上条はひどく間の抜けた声だと気づいた。そうこうしている間にも、三日月ナイフは|金槌《かなづち》で釘を打ち付けるような勢いで上条の隈前へと迫り来る。 「うわっ!!」  とっさに転がるように|回避《かいひ》したが、三日月ナイフは上条の|頬《ほお》を浅く切り裂いた。  それだけだ。  そのはずなのに、次の瞬間、上条のバランス感覚が揺らいだ。転がった姿勢のまま、起き上がれなくなる。全身から|嫌《いや》な汗が噴き出し、船酔いみたいな吐き気が|襲《おそ》いかかってくる。 (ど、く? くそ、刃物に何か塗って……っ!)  革布を使ってナイフの刃を拭っていたのは、毒を塗るためのものだったのだ。  アフリカ辺りの少数部族は、木の|槍《やり》の先に|潰《つぶ》した毒毛虫の汁を倹って猛獣を狩るらしいが、そういった|類《たぐい》のものだろうか。学園都市の|時間割り《カリキユラム》のおかげで薬物に対してはある程度の耐性があるはずだが、そんなものはまるで効いていなかった。  |上条《かみじよう》の視界がピンボケし、黒く塗り潰されていく。  信じられないような笑い声と共に、|火野神作《ひのじんさく》が海の家の外へと飛び出して行くのが分かる。  赤いシスターは追うかどうか迷ったようだが、上条の方へと駆け寄ってきた。  上条の意識は、そこで落ちた。      5  一分だったか、 一時間だったか。  熱を持ったような|喉《のど》の渇きで上条は目を覚ました。寝かされているのは固い床。寝そべったまま視線を巡らすと所々の床板が|弾《はじ》け飛んでいた。  ここは海の家『わだつみ』の一階だ。どこかへ運び出された訳ではないらしい一。そうすると、案外気絶していた時間は短かったのかもしれない。  上条の近くには|土御門《つちみかど》と|神裂《かんざき》が|屈《かが》み込んでいた。  あれだけの|騒《さわ》ぎがあったというのに、|美琴《みこと》やインデックスはここに来ていなかった。常識的に考えて、眠っていたとしても気づかないはずはない。となると、ステイルの使う『人払い』の|魔術《まじゆつ》のようなものを、神裂|達《たち》が使ったのだろうか、と上条はぼんやりと考えた。  と、思ったら魔術師達に混じってTシャツ短パンにエプロン姿の|御坂《みさか》妹がいた。彼女は|破壊された店内をビクビクしながら見回している。  確か、今の彼女はここの店員のはずだが。 「『人払い』は二階に仕掛けておいたのですが……。店員は一階で寝泊まりしているらしく——目撃《はかいもくげき》されてしまいました。幸い、店主は二階で作業中との事です」  神裂が言うと、御坂妹の肩がビクリと。|震《ふる》えた。  差し詰め犯罪集団の犯行現場を目撃してしまい、どんな『処分』を受けるかと言った感じの表情だ。  何しろ、神裂はやけに長い日本刀の|掴《つか》に触れながら、 「一応、念のために警告しておきますが、今日あった事は口外しないでください。、この刀が本物に見えないなら、無視しても構いませんが」  その声は恐ろしく鋭利だが、その|隣《となり》で土御門が笑いをこらえている事に上条は気づいた。……本心ではないのだろうか?  一方、少し離れた場所に、|闇《やみ》に身を隠すように赤いシスターが立っていた。  誰なんだろう? と上条は思った。よくよく考えてみると、ものすごー都合の良いタイミングで割り込んできたが、あの少女は一体何者なのか。 「ああ、あれは敵ではありませんよ」|神裂《かんざき》が|上条《かみじよう》の視線に気づいたように言った。「ロシア成教の『|殲滅白書《Annihilatus》』のメンバーだそうです」  なんか|得体《えたい》の知れない外国語が混じっていて、上条には良く分からなかった。|土御門《つちみかど》はその辺りも分かっているようで、 「ま、イギリス清教が『|魔女《まじよ》狩り』に特化したっていうなら、ロシア成教は『|幽霊《ゆうれい》狩り』に特化したって感じかにゃー。|彷復う火霊《ジヤツクオーランタン》、|見えざる幽鬼《ウストツク》、|身籠る女霊《シンナテラオ》———その他|諸《もろもろ》々『あらざる者』専門のゴーストバスターズって所ぜよ」  上条は、改めて|闇《やみ》に溶ける金髪の少女を見た。  自分の事が話題に上がっているにも|拘《かか》わらず、赤いシスターは微動だにしなかった。そういう対人能力の欠落はオカルト業界ではさして珍しくないのか、神裂は先を続けるように、 「名はミーシャ=クロイツェフというそうです。あなたの傷口から毒を吸い出したのも彼女らしいので、感謝の礼ぐらい述べてはどうですか?」  傷口から毒を吸い出す。その言葉を冷静に受けて、上条は思わず赤くなった。傷口っていうとほっぺただ。適切な医療行為に対して申し訳ないのだが、やっぱり何か変な汗が出る。 「そ、そうだな」張り付くように渇いた|喉《のど》で、上条は声を出す。「ありがとう。とっさに飛び出してくれなかったら、|今頃《いまごろ》殺されてたと|思《おも》————」  上条がかろうじて浮かべた笑みは、唐突に凍りついた。  少し離れた所に立っていたはずのミーシャが、|一瞬《いつしゆん》で上条の目の前まで踏み込んできた。その右手は、腰に差してある工具の一つ、ノコギリを引き抜いている。上条が|瞬《まぽた》き一つする前に、まるで|覆《おお》い|被《かぶ》さるように、そのギザギザの刃が首筋に押し付けられた。  |誰《だれ》も反応できなかった。|素人《しろうと》の上条は元より、すぐ近くにいたはずの土御門や神裂さえも動けなかった。上条の首の|皮膚《ひふ》に、ヒヤリとした刃の感触が|絡《から》みつく。  上条は、ノコギリを握るミーシャ=クロイツェフの顔を見上げた。長い前髪の|隙間《すきま》から|覗《のぞ》く彼女の|瞳《ひとみ》は一瞬も揺らがない。ノコギリの刃よりも格段に冷たい感情の色が込められているだけだ。  彼女は機械のような|平坦《へいたん》な声で、言う。 「問一。『|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こしたのは|貴方《あなた》か」  上条は言葉を失った。土御門や神裂も、混乱した顔でミーシャの顔を見る。 「ちょ、ちょっと待ってください。ミーシャ=クロイツェフ、あなたは上条|当麻《とうま》が『|御使堕し《エンゼルフオール》』の犯人ではないと踏んでいたから、|襲撃者《しゆうげきしや》から上条を守り体内の毒を吸い出したのではないのですか?」  神裂の言葉に、ミーシャはジロリと眼球だけを動かして神裂の顔を見た。 「解答一。私は『|御使堕し《エンゼルフオール》』阻止のためにここまできた。そして先ほどはこの少年が犯人か|否《いな》か、解を求められなかったため保留とした。だからこそ、今こうして問いを|質《ただ》している」  |上条《かみじよう》は、首筋にノコギリの刃を当てられたまま、ミーシャの顔を見た。彼女もまた、|神裂《かんざき》から視線を外すと再び上条の眼球を観察するように視線を向けた。 「問一をもう一度。『|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こしたのは|貴方《あなた》か」 「……、違う」 「問二。それを証明する手段はあるか」  ミーシャは始めから予期していたように質問を重ねた。上条がその場しのぎのウソをついて難を逃れようとしている……そういう風に思っているんだろう。 「証拠なんて、ねーよ。そもそも|俺《おれ》は|魔術《まじゆつ》なんて何も知らねーんだし」  ミーシャは身の内の疑問を表すように、わずかに首を|傾《かし》げた。  神裂はため息をついて、 「一応、|我《わ》がイギリス清教|必要悪の教会《ネセサリウス》の公式見解ぐらいなら解答できますが」  そう言って、神裂はミーシャに説明を始めた。上条は魔術知識がなく、「|御使堕し《エンゼルフオール》』を起こせるとは思えない事。超能力者が魔術を使うと肉体に負荷がかかるはずだが、それが見当たらない事。上条が『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|影響《えいきよう》を受けないのは、おそらくあらゆるオカルトを触れただけで打ち消す事のできる右手『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』の作用によるものだという事など。  ミーシャは一つ一つの項目をチェックしていくように、ふんふんと何度も小さく|頷《うなず》いた。それから最後に、ジロリと上条の方へ———正確には、彼の右手に視線を向ける。どうやら、説明の中にあった『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』というフレーズが引っかかっているらしい。 「数価。四〇・九・三〇・七。合わせて八六」  ズバン! とミーシャの背後で床下から噴水のように水の柱が飛び出した。どうやら地下の水道管が破れたらしい。 「照応。|水よ、蛇となりて剣のように突き刺せ《メム=テト=ラメド=ザイン》」  続けてミーシャが口を動かすと、水の柱がまるで蛇のように|鎌首《かまくび》をもたげた。ヒュドラやヤマタノオロチのように枝分かれした何本もの水の蛇。上条の脳裏に|嫌《いや》な予感が浮かぶ前に、|槍《やリ》と化した水流が勢い良ー|襲《おそ》い掛かった。  ドスドス!! と、上条の周囲の床へ次々と突き刺さる水槍。  その内の一本が、迷う事なく上条の顔面の真ん中へと向かってきた。 「うおっ!?」  上条がとっさに右手でガードすると、水槍は水風船のように|弾《はじ》けて四方へ飛び散った。まるで見えない盾に保護されるかのように、上条には一滴の水も当たらない。  ミーシャは注意深く床に飛び散った水を観察しつつ、 「正答。イギリス清教の見解と今の実験結果には符合するものがある。この解を容疑|撤回《てつかい》の証明手段として認める。少年、誤った解のために刃を向けた事をここに謝罪する」 「刃を向けたっていうか突き刺したじゃん今! ってか謝るなら人の目を見ろ!」 「問三。しかし|貴方《あなた》が犯人でないならば、『|御使堕し《エンゼルフオール》』は|誰《だれ》が実行したものなのか。|騒動《そうどう》の中心点は確かにここのはずなのだが、犯人に心当たりはあるか」 「聞けよお前! ってか、実はちっともさっぱり反省してねーだろ!?」  |上条《かみじよう》は倒れたまま、床板に空いた大穴を見た。  と、今まで訳も分からずビクビクしていた|御坂《みさか》妹は、おずおずと上条に話しかけてきた。精神的な余裕を取り戻しつつあるのかもしれない。 「なぁ、これって、特撮ヒーロー番組の収録かなんかか? それに、さっき走って行ったのって刑務所脱走した|火野《ひの》って|奴《やつ》だろ。もしかしてアンタ|達《たち》って、テレビの特番でよく見る『警察の|囮《おとり》捜査班』とか?」 「我々の事は深く探ろうとしない方が身のためです」  |神裂《かんざき》は御坂妹の質問をピシャリと拒絶する。  だが、上条は彼女の言葉が気にかかった。 「ちょっと……待て。お前、アイツが『火野|神作《じんさく》』に見えたのか?」 「それ以外の誰に見えるよ? んで、この店誰が|弁償《べんしよう》すんの? 火野? 警察? テレビ局?」  上条は絶句した。  たとえば、『シスター姿の青髪ピアス」がいるとする。  コイツはみんなからは『インデックス』に、上条からは『青髪ピアス』に見える。  それはつまり『中身』と『外見』だ。  しかし、火野神作は上条から見ても御坂妹から見ても『火野神作』らしい。  中身も外見も同じに見える、という事は。 「アイツ……入れ替わってない?」  上条がその事を|魔術師《まじゆつし》達に説明すると、彼らの顔がみるみる|強張《こわば》っていく。 「問四。……先ほどの、逃走した方か」  ミーシャは火野神作が逃げ去った方を|睨《にら》みつけた、そのまま走り出そうとするミーシャの肩を、神裂は|掴《つか》んで止めに入った。 「待ちなさい。同じ獲物を追うならば、行動を共にしませんか?」 「問五。それに対する私のメリットはあるか」 「逆に問いかけます。あなたは人間狩りのノウハウを心得ているのですか? その武具も|処刑《ロンドン》塔の七つ道具でしょう? 逆に地元の人間はそんなブランド品は使いません。金の|斧《おの》や銀の斧よりも普通の斧の方が実用的ですから」神裂はスラスラと、「ロシア成教の専門は『|幽霊《ゆうれい》退治』のはずです。慣れない『人闇狩り』を行うなら、専門のイギリス清教の者をガイドにつけても悪くはないと思いますが」 「……、|賢答《けんとう》。その問い掛けに感謝する」  ミーシャは、その小さな手をにゅっと|神裂《かんざき》の方へ差し出した。、神裂は|一瞬《いつしゆん》面食らったような顔をしたが、それが握手を求めている事に気づくと小さく笑って手を取った。  |上条《かみじよう》はそんな様子を見ながら、聞いてみた。 「それで、どうすんだ? |早速《さつそく》、今から追い駆けっこでも始めるのか」 「その心がけは立派というか|土御門《つちみかど》にも見習わせたい所ですが、あなたの場合は体力を取り戻すのが先決でしよう、あなたが回復するまでは、我々で警護した方が安全かもしれません。火野の目的は不明ですが、夜半になってから再び舞い戻ってあなたの寝込みを|襲《おそ》う、というのも 可能性としてゼロではないはずですから」  と、その言葉を聞いたミーシャが、 「問六。全員でガードに当たる必要性は|薄《うす》い。私は単独で容疑者を追う事もできるが?」 「敵戦力も分からない状態で、人員を分断させるのは得策とは思えません。最悪、あちらは『天使』を手中に収めている可能性もあるのですよ?」  その答えに、ミーシャは不満そうに|黙《だま》り込んだ。早速、協定を結んだ事に後悔しているのかもしれない。だが、神裂はそんな事など気に留めず、 「従って、まずはクロイツェフと今後の協議を。次にこの惨。状をどうにか修復しなければなりません。それが終わったら、後はあなたの身辺警護に戻ります。……土御門、何を|嫌《いや》そうな顔しているのですカ?」  ちょっと待って欲しい、と上条は思った。  そうなると、神裂|達《たち》は 睡もできなくなる。上条一人がグースカ|惰眠《だみん》を|貧《むさぼ》るために彼女達の体力と気力を削り取るなんて|真似《まね》はさせたくない。|怪我人《けがにん》だの何だのだって、結局は上条の不注意によるものなんだから理由にならない。  そう思ったが、口から声が出なかった。渇いた|喉《のど》が焼けるような痛みを発した。  そんな上条に、神裂は彼女のイメージにそぐわないほど痛々しそうな目を向けて、 「クロイツェフとの協議の結果は追って説明します。あなたはもう本当に部屋に戻って休んでください。これ以上|素人《しろうと》に深手を負われては、我々にも立つ瀬がありません」 「ま、素人を死なせて生き残るプロほど|惨《みじ》めなものはないんだぜい」 珍しく、土御門までが寂しげな口調でそんな事を言った。  彼らには彼らの負い目があるんだろう。上条は一度だけ浅く息を吐いて、 (ん? 部屋に、戻る?)  と、上条は自分の心の声に何か引っかかるものを感じて、 「あ、あああああああああああああああああああ! まずい、インデックス!?」  不意に|閃《ひらめ》いて、これまでのダメージは何だったのかという勢いで起き上がった。  |唖然《あぜん》とするメンツを捨て置き、上条は慌てて階段を駆け上がって二階へと飛び込む。  階段の手すりには刀傷のようなもので何か|得体《えたい》の知れない文字が刻んであったが、上条が右手で手すりを|掴《つか》んだ|瞬間《しゆんかん》にそこからガラスの砕けるような音が聞こえた。『人払い』か何かの仕掛けだったのか、と|上条《かみじよう》は思ったが気にしている|暇《ひま》もない。  目指す先は自分の部屋ではない、|美琴《みこと》の部屋でもない。  もしカギがかかっていたらドアごとぶち抜くぐらいの覚悟で思いっきり引き開けたのは、上条|刀夜《こうや》の部屋のドア。  ズバァン! と勢い良く開け放つと、|灯《あか》りを落とした部屋には敷かれた二組の|布団《ふとん》が。  そして今まさにインデックスの寝ている布団へ|突撃《とつげき》せんとする上条刀夜の姿が?  もちろん、刀夜から見れば『妻・|詩菜《しいな》』に見えるのだから|疾《やま》しい事など何もない。  だが、一四歳に見えるかどうかも怪しいインデックスの布団に三〇代も中盤に差しかかった自分の父が突撃しようとしている|光景《ピジヨン》はもはや|奇妙《シユール》を通り越して|悪夢《ロリコン》にしか見えない。 「ストップストップストーップ! ちょっと待たんかキサマぁ!!」  なので、上条は体内に残った毒でくらくらする頭も無視して勢い良くその場でジャンプすると、二人の仲を引き裂くように布団の中間地点へ思いっきり飛び込んだ。  びっくりしたのは刀夜である。  ついでに言うと、|母親役《インデツクス》はこれだけ|騒《さわ》いでもむにゃむにゃ寝ているタフな人だった。 「……(なっ! と、|当麻《とうま》! き、気まずい場面でいきなり登場するんじゃない!)」 「|黙《だま》れ黙れ黙りやがれ! 今日は川の字で寝ます! 必殺☆家族のキズナ大作戦!」  かくして、真夜中の攻防戦が始まる。  病人に対する神裂の気遣いも虚しく、結局一睡もできない上条当麻だった。[#改ページ]    第二章 戦闘世界のディテイクテイブ      1  翌日。  |爽快感溢《そうかいかんあふ》れる夏の早朝。目の下にドス黒いくまを作っていがみ合う|父子《おやこ》の顔を見ながら|母親役《インデツクス》はうっすらと目を覚ました。 「おはよう二人とも。あらあら、男同士。て夜通し積もるお話でも? いいわね、そういうの。何か林間学校とか修学旅行みたいな感じで」  確かに部屋を渦巻く|悶々《もんもん》|鬱々《うつうつ》とした負のエナジー度合いといったら『修学旅行・男子団体部屋における深夜の|実体験報告《レンアイトーク》(八割以上は|見栄《つよがリ》と|虚言《ハツタリ》)』に匹敵するだろうが、こっそり|記憶喪失《きおくそうしつ》な|上条《かみじよう》には実感の|湧《わ》かないお話だった。  とにもかくにも、咋日の疲れも重なってインデックスの言葉に返事をする余裕もないぐらいヘトヘトになっている上条は、 (は、はは。ちくしょう、何とか守りきった。朝んなっちまえばもう|大丈夫《だいじようぶ》だろ)  そう思った途端、|睡魔《すいま》が|襲《おそ》ってきてバタンと|布団《ふとん》の上へ倒れ込んだ。  心地良い勝利の感覚と共に眠りに落ちようとしている上条だったが、 「ほらほら母さん。当麻ももう眠って見ていないし、たまには朝のアイサツとか」 「あら、困った人ね。そんな気が起きるなんて、朝まで一体何を語り合っていたのかしら」  白雪姫でもあるまいに、|刀夜《とうや》は目覚めのキスをご所望の様子。  夫婦の|唇《くちびる》が重なり合う寸前、上条の両目がカッ!! と見開いて、 「恐怖! |舌噛み《ギロチン》アッパーッ!」  唇が触れ合う寸前、上条の|拳《こぶし》で|顎《あご》を垂直に打ち上げられた刀夜はそのままバタンと|仰向《あおむ》けに布団の中へ。あんまり強く打った覚えはないから、おそらく刀夜も寝不足でふらふらになっていたんだろう。今度こそ大丈夫だ、と思った上条もそのまま布団の上へと倒れ込んだ。 だが。  何も刀夜だけが上条の難敵ではない。 「おにーちゃんおにーさんおにーさまあんちゃんあにじゃあにきあにぎみあにうえあいうえお! 夜明けの目覚ましフライングボディアタック!!」  突然|襲来《しゆうらい》した(心底楽しそうな)|美琴《みこと》の全体重を乗せた重力落下が上条の|水月《みぞおちち》に|直撃《よくげき》して、|上条《かみじよう》は腹を支点にくの字になって目を覚ました(唾眠時間合計一五分)。 「もがぁ! が、がはげべこぶっ! な、なばっ! 何が!?」 「あはははは!!」 「人の上に乗っかって笑ってんじゃねえ! |納得《なつとく》のいく説明をしてもらおうか!?」 「奇抜なプロレス技による目覚まし機能は妹として標準装備なのであります隊長!」 「うるせえ! それで|媚《こ》びキャラ気取ってるつもりか、もう許さん! なわとびで|縛《しま》って体育倉庫に置き去りにしてやる!!」  と、そこに|騒《さわ》ぎを聞きつけたインデックス|役《あおがみピアス》がドカドカ部屋へやってきて、 「あーっ! とうまがいかにも楽しげな朝の|演出《めざまし》を! 私も私もとうまにやるやる!」 「ちょ、な———待てこの巨漢! テメェのボディプレスなんざ|洒落《しやれ》じゃ済まねーぞ!」 「何で! 何でとうまは私の事だけ紳間外れにするの!? 私だってやりたいそれやりたいって言うか絶対やるって今決めた!」 「え、なに? ちょっと待って! スイマセンほら二千円までなら出すからもう許してくださベゴァ!」上条は内臓が破裂するほどの|衝撃《しようげき》を腹に受け、「う、う。うう。うふふ。殺す。テメェらのその愉快な|頭蓋《ずがい》、まとめて夏っぽくスイカ割りにしてやるーっ!!」  そんなこんなで『|御使堕し《エンゼルフオール》』二日目もドタバタでスタート。      2  午後一二時。お昼ジャスト。  夏バテです、わたくしめの事は放置して遊びに行ってください、という上条の言葉を受けて、上条家の一族(+上条家の|居候《いそうろう》シスター)が砂浜へ飛び出していくと、見計らっていたように|神裂《かんざき》、|土御門《つちみかど》、ミーシャの三人が海の家「わだつみ』へとやってきた、。  見た目『ヤバげな男アイドル』の土御門が海の家のオヤジ|達《たち》に見つかると面倒な事になる可能性がある。作戦会議は上条の客室で行われる事になった。  ちなみに、お昼まで時間が延び延びになっているのは、ついさっきまで上条が本当に夏バテで倒れていたからである。睡眠不足と水分不足と熱気が重なって起きた悲劇だった。  ミーシャは朝から単独で|火野《ひの》の捜索を行ってきたらしいが、空振りに終わったようだった。足を引っ張り続ける上条としては申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。 「まったく。一睡もしていないって、あなたは一体何を考えているんですか」  長い間、水をやり忘れていた植物みたいにぐったりしている上条を見て、神裂は|呆《あき》れたとも心配とも取れるような声を出した。その言葉に上条はさらにしぼんでいく。  と、土御門の青いサングラスの向こうの|瞳《ひとみ》が苦笑いして、 「まあまあ|神裂《かんざき》ねーちん。病人をさらにヘコましてもどうにもなんないし、ここは」 「何を言っているのですか、|土御門《つちみかど》。|叱《しか》る時にはキチンと叱っておかねば同じ|過《あやま》ちを繰り返します。その時、我々が確実に助けに入る事ができるという保証はないのですよ」  まるで子供の過ぎた火遊びを叱るような言葉が|上条《かみじよう》の致命的な部分にサクサク刺さっていく。見かねた土御門は神裂の耳に口を寄せると、恋人同士が|内緒話《ないしよぱなし》するように|密《ひそ》やかな声で、 「……(あれー。いいのかにゃーそんなに高圧的な態度に出ちゃっても。カミやんは神裂ねーちんにとっても大事な大事な禁書の事を、毒に侵されながらも守り抜いたとゆーのに)」  ぐっ、と神裂の息が詰まった。 「……(感謝こそすれ怒っちゃってもいーのっかなー? 大体ねーちんこの前の事件[#「この前の事件」に傍点]についてだってお礼も謝罪もしてないぜよ。どーすんのかなー?)」  ぐぐっ、と神裂の動きが止まった。  そんな神裂と土御門の様子を一歩離れた所から見ていたミーシャは、そっとため息をついた。静かに、しかし確実に|小馬鹿《こばか》にしていた。ミーシャはいつでも|俯《うつむ》いているため、前髪が|邪魔《じやま》になって顔が良く見えない。  何だか分からないけど、このままでは放っておいても|暫定《ざんてい》チームが空中分解してしまう気がする。ちょっと心配になってきた上条は自分が司会進行する事にした。 「んで、『|御使堕し《エンゼルフオール》』の犯人は|火野神作《ひのじんさく》って事で良いのか?」  火野神作———昨夜、床下から|襲《おそ》いかかってきた、あの|襲撃者《しゆうげきしや》だ。 「昨日の|俺《おれ》と|御坂《みさか》妹の|目撃《もくげき》情報から判断すると、どうにもアイツは『入れ替わってない』っぽいじゃねーか」  神裂は上条の方を見てから、 「私は直接火野神作を見ていないので何とも言えませんが、それが事実ならば彼は限りなくクロに近いでしょう」 「……、となると、火野神作ってのをとっ捕まえりゃ良い訳……だがにゃー」  土御門は困ったような顔をして、サングラスのフレームをいじくり回す。  そう、火野神作を捕まえるにしても、彼がどこに行ったのか、ヒントさえ存在しない。 「火野が|魔術師《まじゆつし》ならば、彼の魔力の|残澤《ざんし》を追跡する事はできないでしょうか?」 「解答一。昨夜、火野が魔術を使用した|痕跡《こんせき》は見つからず。おそらくは追跡を逃れるための工作かと推測される」 「一番ネックの『天使』の気配もないしにゃー。もっとも『天使』クラスの魔力なんざ、そのまま放置しておきゃ、それだけで土地が|歪《ゆが》んじまう。何らかの方法を使って|隠蔽《いんぺい》してる事は間違いないんだろうけど」 「隠蔽って……そんな簡単にできるのか?」  上条が聞いてみると、神裂はわずかに考えてから、 「あくまで旧約の話ですが、天使が自分の正体を隠して人の街へ赴き、民家に上がって人と共に食事をした、という記述があります。同様に河で|溺《おぽ》れる子供を助けた大天使もいたとか。元元、そういった|優《すぐ》れた|隠蔽《いんぺい》技術を持っている、と考えた方が良いかもしれません」  |神裂《かんざき》の声に、ミーシャも小さく|頷《うなず》いた。  前髪に隠れて表情は読めないが、ミーシャはちょっと得意そうだった。インデックスもそうだが、やっぱりシスターさんは聖書について語るのが好きなんだろうか? 「とにもかくにも、まずは情報収集かなーっと。うりゃ」  と、|土御門《つちみかど》は客室の隅っこに置いてある古臭いテレビのスイッチを入れた。  ニュース番組では相変わらず|小萌《アらコロサゆヘ》先生がマイクを握って何かしゃべっている。 「えー、|火野神作《ひのじんさく》が|新府中《しんふちゆう》刑務所を脱獄して丸一日が|経《た》ちました。スタジオには|三輪《みつわ》大学犯 罪心理学教授の|大野雷禅《おおのらいぜん》さんにお越しいただいています。大野教授、よろしくお願いします』  よろしく、と重々しく答えたのは小学校三年生ぐらいに見える。こうして小萌先生と肩を並べていると教育番組みたいだった。大野教授は言う。 「火野神作の行動パタ!ンというのは犯罪史」ぞも極めて珍しいものですな。彼は二八人もの無実の人々を殺害しておりますが、その|全《すべ》てが自分の意思で行ったものではないと主張しておるのです。何でも「エンゼルさま」という存在に導かれたとかで、これは欧米のカルト犯罪で見られる「|儀式《ぎしき》殺人」に分類されるものかと……』  老人口調でしゃべるスーツの小学生の言葉を聞いて、|上条《かみじよう》は軽く頷いた。 「そうだ、『エンぜルさま』。昨日の『火野』も言ってた。この評論家が『入れ替わる前の』火野について語ってんなら、これは入れ替わる『前』と『後』の共通点になる」 「問一。今一度確認を取るが、やはり火野神作が『|御使堕し《エンゼルフオール》』実行犯という事か?」  ミーシャの声に、上条は頷いた。  火野は上条のような|幻想殺し《イマジンブレイカー》を持っている訳ではない。にも|拘《かか》わらず何の『入れ替わり』も起きていないのだから、現時点で火野神作が一番怪しいと考えて問題ないだろう。 「けど、『エンゼルさま』ってのは何なんだ?」 「それについては、昨日床板直してる時に、床下からこんなんが出てきたぜい」  と、土御門は何かノートぐらいの大きさの|薄《うす》い木の板を取り出した。表面が釘のようなものでボロボロに傷つけられている。傷のない部分がないぐらいだった。 「どうにも、アルファベットが刻んであるらしいぜよ。後から後から上書きしてくんで、今じゃこんな傷モノになっちまってるけどにゃー」土御門はため息をついて、「こりゃ神託か自動書記の|類《たぐい》ぜよ。おそらく火野は『勝手に文字を刻む』右手の命令に従って動いてたんだぜい。ニュアンス的には『こっくりさん』とか『プランシェット』みたいなもんかな?」 (……、こつくりさん?)  上条は何か引っかかるものを感じたが、|黙《だま》っていた。ここは|彼《オカルト》らの|領分《フイールド》だ。 「それで、『エンぜルさま』の命に従って行われたのが判明しただけで二八人分もの『|儀式《ぎしき》殺人』、ですか。それは一体何の儀式を差していたんでしょうね」 「……、まさか。それが『|御使堕し《エンゼルフオール》』だってのか?」  世界的な|大魔術《だいまじゆつ》とか大きな|儀式場《ぎしきじよう》とか言っていたが、二八人もの|生《い》け|蟄《にえ》とか言われると改め てぞっとしてくる。まるで絵本に出てくるような悪魔崇拝の黒魔術だ。 「しっかしそうなるとコトは複雑になってくるぜい。|火野神作《ひのじんさく》が『|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こしたのは良いとして、それを命令したのは『エンぜルさま』って事だよにゃー? 『エンゼルさま』=天使だったら、何でわざわざ『|御使堕し《エンゼルフオール》』なんて起こしたんだか」  |喰《うな》るように両手を組む|土御門《つちみかど》に、|上条《かみじよう》は考えなしに言ってみた。 「……。地上に降りたかったから、とか? ストレートに」 「むう。カミやん、こいつは自分で言ってて矛盾があるんだが、天使ってのは人格なんて持たないんだぜい。天使とは『|天《カミ》の|使《パシリ》い』。その正体は|膨大《ぽうだい》な『異能の力』を詰め込んだ皮人形に近いから、偶像崇拝で仮物の十字架に力を分配するのと同じ要領で、あくまで理論上なら天使の『中身』を一〇〇個に区切って剣や|鎧《よろい》に注入する事すらできるんだぜい。で、基本的に天使ってのは奇跡も人助けも悪との戦いも|全《すべ》て神の命令がなければ実行しない、ただのラジコンって感じだぜよ」 「……、天使って、そんなもんなの?」 「そんなもん。新約には『最後の審判』ってのがあってな、善人と悪人を裁いて天国地獄へ送るのは世界の終わりの神様の仕事って事になってる。つまり、それ以前に天使が勝手に人を救ったり殺したりして歴史を変えちゃあマズイって訳ぜよ」  上御門はちなみに、と付け加えた。 「さっきも言った通り、天使ってのは神様が操るラジコンみたいなモンなんだが、これが何かの拍子に命令を受け付けなくなったり混線したりする。それが『悪魔』ってトコだぜい」  上条は土御門の言葉が少し意外だった、ゲームに出てくるような『てんし』と『まもの』は完全に別物だし、天使っていうのはなんか人を上から見下す偉そうな金髪美人(羽つき)だというイメージがある。もちろん映画やマンガ上でのイメージだが。 「……、」上条はまたもや考えなしに、「じゃあ、心が欲しかったから、とか?」 「心が欲しい[#「心が欲しい」に傍点]、と思う心がすでにないんだが[#「と思う心がすでにないんだが」に傍点]。天使ってのは自分で考えているように見えても見えるだけ、自分で動いているように見えても見えるだけなんだぜい、本来なら、操り人形は糸を切った所で、自由は得られず動けなくなるだけなんだが」  土御門はそこまで考えて、頭を|掻《か》いた。 「ま、そこらは火野をとっ捕まえて吐かせますか、さて、具体的に敵戦力を考えようぜい」  土御門の言葉に、ミーシャはチラリと視線を向けただけだった。どうも彼女は白発的な会話が苦手で、基本的に受け答えしかしないらしい。なので、土御門の言葉には|神裂《かんざき》が応じた。 「まず第一に、|火野神作《ひのじんさく》は|堕《お》ちてきた『天使』を手に入れているか、ですね」 「さっきの話を聞いてると怪しいモンだぜよ。大体、火野が完全に『天使』を掌握しているなら、昨日の夜にピンチになった時点で使ってるはずだし」|土御門《つちみかど》は少し考え、「どうも、火野の|命令《コマンド》は|完壁《かんぺき》に『天使』に伝わってる訳ではない気がするぜい、電波の混信みたいに。それどころか、火野の方が『天使』の命令を聞いてるような節もあるし。だからこそ、大事な場面で火野が命令を送っても『天使』が必ず受けつけるとは限らない」  そう言えば、昨夜追い詰められた火野は最後に『エンゼルさま』に不満を|漏《とわ》らしていたような気がする。どうして助けてくれないんだ、とか何とか。 「となると、逆説。『天使』に命が届けば、追い詰められた火野の|操縦《そうじゆう》に従うという可能性も無視できない訳ですか」  |神裂《かんざき》が言うと、土御門の目が青いサングラスの向こうで|獰猛《どうもう》に笑い、 「ま、その辺の『最悪のパターン』は常に|考慮《こうりよ》して損はないぜよ。それにしても、くふふ。最悪の場合は『天使』を敵に回す、か。こりゃ人の歴史はここで終わるかもにゃー」  言われても、|上条《かみじよう》は逆に実感が|湧《わ》かなかった。 『天使』というものに対しても、世界全人類が根こそぎ絶滅する事に対しても。 「続いて、人間関係上の戦力ですが。火野は何らかの集団・組織に属している可能性は」 「|薄《うす》そうだぜい。昨日の『|襲撃《しゆうげき》』が『エンぜルさま』の指示なら、やってきたのが火野神作一人ってのはどうにもショボい。ま、同時進行で別プロジェクトが動いてるってんなら話は変わってくるけどにゃー」 「ふむ。協力者の線は|希薄《きはく》。ならば、負傷した火野はどこで|治療《ちりよう》を受けると思いますか。クロイツェフの話によると、歯を二本を引き抜かれ左手首を砕かれているはずですが」 「|馬鹿《ばか》正直に病院に行けば即通報。|闇《やみ》医者の世話になろうにも脱獄直後じゃ金もないぜよ。|然《しか》るに現金輸送車でも|襲《おそ》って治療費稼ぎか、あるいは回復|魔術《まじゆつ》の下準備ってトコか。」 「何にせよ、判然としませんね。ナイフや毒の入手経路も気になります。逮捕される前にどこかに装備を隠していたのかもしれないし、あるいは|誰《だれ》かを襲って武器を調達したのかも。資金はあるかもしれないし武器は仲間にもらったものかもしれない。|心理分析《プロフアイリング》の専門家でもあるまいし、これ以上の犯入像予測は余計な誤情報を生むだけかもしれません」  はあ、と神裂はため息をついた。  一人が|黙《だま》ると、会話の流れも止まってしまう。|若干《じやつかん》ながら重苦しい空気の中、テレビの中の声だけが妙に無機質に|響《ひび》き渡る。  と、いきなり無機質だったテレビの声がいうめき立った、、  上条が視線を向けると、『臨時ニュース』というテロップが映っていた。どこかの評論家は|脇《わき》へと追いやられ、|小萌《こもえ》先生がいきなり手渡されたニュース原稿に目を自黒させている。 『えー、ただいま火野神作脱獄事件の続報が入りました! 火野は神奈川県内の民家に逃げ込み、その周りを駆けつけた機動隊が包囲しているとの事ですーっ! 現場の———あ、|繋《つな》がってる? 現場の|釘宮《くぎみや》さーん』  思わずその場の全員がテレビに釘付けになった。一歩離れたミーシャ=クロイツェフでさえ、無言のままちょっと身を乗り出すようにして画面を追っている。  画面が切り替わる。  どこにでもあるような平凡な住宅街。二階建ての建売住宅が並ぶ|閑静《かんせい》な街の中は、|野次馬《やじうま》とそれを押し|留《とど》める警察官と、これから戦争でも始めようとしているかのような装備に身を包む機動隊で|騒動《そうどう》が起きていた。ただし、警官や機動隊がおじーちゃんや幼稚園児に入れ替わっている所を見ると、節々に不安が|募《つの》ってくる。  |八百屋《やおや》のオヤジみたいな男はマイクを握って、 『えー、猶。証見のように我々報道を含めた民問人は|火野神作《ひのじんさく》が立てこもっているとされる民家の六〇〇メートル手前で封鎖されています。周りにいる人々は|避難《ひなん》勧告を受けた住民|達《たち》のようです。関係者筋の情報によりますと、火野神作は民家の中に逃げ込み、カーテンや雨戸を閉めて中の様子を分からなくした上で立てこもっているとの事です』  チッ、と|土御門《つちみかど》が舌打ちした。  青いサングラスの奥の|瞳《ひとみ》に、|苛立《いらだ》ちのような感情が見え隠れする。  それはこれだけ目立つ|騒《さわ》ぎになった事に対してか、それとも民家の住人に対する事か。 『民家の中の様子は分かりません、。人質の有無や火野神作の持っ凶器の種類なども判断できない事から、機動隊は強行突入を|避《さ》けているようです———っと、あれは何でしよう? 一台の乗用車が立入禁止区域の中へと入っていきます。警察の|交渉人《ネゴシエーダー》か何かでしょうか———』  画面が切り替わって、ヘリコプターを使った上空からの映像が映し出される。映し出された赤い屋根の民家が、問題となっている立てこもり現場だろうか? |馬鹿《ばか》が、と|上条《かみじよう》は口から|漏《も》らした。民家の上空にヘリを飛ばせば立てこもっている火野神作に余計な刺激を与える。それにテレビは火野だって見ているかもしれない。今はズームしているからまだ良いが、上空からの映像なんて飛れ流せば、そのまま機動隊員の配置状態を向こうに教えてしまう事になる。 (……って、あれ?)  上条は映像にどこか違和感を覚えたが、いきなり、何かに介入されたように不自然なタイミングで画面がスタジオへと戻された。|小萌《こもえ》先生はこれまで火野が犯した罪状と、周辺住民に決して外へ出歩かないよう注意を促す原稿を読むのに四苦八苦している。 「さてはて、困った事になったぜい。火野が警察の手に渡ると火野自身に『|御使堕し《エンゼルフオール》』を解いてもらいたい我々としては困ったちゃんになっちゃうぜよ。できれば警察に介入される前に火野神作を回収しちまいたい所だけど、どうしたもんかにゃー」 「土御門! 仮に人質がいた場合どういう結果を招くか分かって言っているのですか!?」  |神裂《かんざき》は珍しく|激昂《げっこう》したが、土御門は簡単に受け流してしまった。 「うにゃーん。それじゃ|火野《ひの》を回収するにしても人質を救出するにしても、とにもかくにも現場に行ってみないと。それで、現場ってどこなんだか。神奈川県内、だけじゃあ結構広いぜよ」  あの、と。その時、|上条《かみじよう》は恐る恐る片手を挙げて発言してみた。  |神裂《かんざき》は|背立《いらだ》ったような声で、 「何ですか。現場に連れて行けという要望なら却下します。ステイルはどうだか知りませんが、私はあなたを戦場に連れて行く気などさらさらありません」 「そうではなく。さっきの上空からの映像で気になる点が一個あったんだけど」 「何か?」 「いや、でも。けど、あの。うん、見間違いかも、しれねーし、あってたとしても」 「即刻言いなさい」 「うーん。ウチの母さんの|趣味《しゆみ》がパラグライダーらしくてさ、あーパラグライダーにも色々あって原動機付きだっけか? 良く分かんねーけど、パラシュートのついたブランコみたいなのに腰掛けて、でっかいプロペラ背負って空飛ぶヤツだよ、確か。で、|俺《おれ》が入院してた時にどこが良いのか全然分かんねー近所の上空写真を山盛りで持ってこられた事があるんだけどな」 「上空写真? それが————」  ————どうかしたのですか、と言いかけて、神裂は何かに気づいたようだった。  うん、と上条は一度だけ|頷《うなず》いて、 「なーんかあの赤い屋根って見覚えある気がするんだよなー……|実家《ウチ》の上空写真で」      3  痛みのあまり冷静な判断を失っていた。  脱獄死刑囚・火野|神作《じんさく》は暗い|闇《やみ》の中で腐った果実のような左手首を押さえながら舌打ちした、今はまだ昼前だが、|全《すべ》ての窓に雨戸やカーテンを閉める事で完全に光の侵入を防いでいる。  電気は外の機動隊によって。遮断されているようだった。残暑も厳しい八月下旬の炎天下の中、エアコンもなく全ての窓を閉め切った建物の中はビニールハウスのような熱気を|孕《はら》んでいた。ありえないとは思うが、この熱気のせいで傷口が腐り始めているんじゃないかという不安すら抱かせるほどに、室内の温度は|不気味《ぶきみ》に上昇していた。  折れた手首はここに来るまでの道で拾った針金と角材でギプスを作って固定した。引き抜かれた歯の方はどうする事もできない。熱を持つ傷口の中で、奇妙な痛みが胎動していた。  暑さと痛みでびっしょりと顔じゅうに汗をかいた火野神作は、暗がりの中で一人|呟《つぶや》く、 「エンゼルさま、エンぜルさま……」  眩きながら、現状を考えた。  火野が『二八人殺しの|謎《なぞ》の|儀式《ぎしき》殺人者』として知れ渡っていた|頃《ころ》、ネット上を中心に連続殺人犯の|愛好者《マニア》や|模造犯《コピーキヤツト》が数多く生み出されていた。この近所のアパートにも連続殺人犯・|火野《ひの》を支持するホームページを作っていた大学生が住んでいる。本来なら、脱獄の後の|潜伏《せんぷく》場所や逃走資金はそこに|頼《たよ》るつもりだったが……。  電気を落とされた室内ではテレビも|点《つ》かない。、外の様子は分からない。だが、どうも周辺住民は退去を命令されているようであった。これでは近くに住んでいるはずの『協力者』も包囲の外へと追いやられてしまっているだろう。 「エンゼルさま、エンゼルさま……」  さてどうするか。火野は考える。今の所、機動隊が強行突入してくる様子はない。おそらく家の中の様子が分からないからだ。だが、中に人質などいない事が分かってしまえば彼らはすぐにでも突入してくるだろう。  かと言って、下手なハッタリは逆に機動隊へこちらの戦力を教えてしまう事にもなりかねない。重要なのは『分からない事』を維持する事だ。精神|攻撃《こうげき》を得意とする火野には分かる最も厄介なのは、|騒《さわ》ぎ立てる乱暴者よりも|不気味《ぶきみ》な|沈黙者《ちんもくしや》である事が。  どうする。どうやって逃げる。  あの三日月ナイフには予備があるが、ナイフ一本で包囲を切り抜けられるはずもない。 「エンぜルさま、エンゼルさま……」  その時、火野の右手のナイフが、彼の意思とは無関係に動いた。  ナイフの切っ先は|一瞬《いつしゆん》で火野の腹に浅く突き刺さり、さらに文字を刻むために走り回る。 肉を刻む赤い神託は、静かに答えを表した。  CALL AN AMBULANCE  なるほど、そういう手もあるか、と火野は感心した。やはりエンゼルさまの答えに狂いはない。一度は警察に捕まり死刑も確定したが、死にたくないという願いをエンぜルさまは|叶《かな》えてくれた。エンゼルさまはやっぱり自分を幸せな未来へと導いてくれる。  そうと決まれば話は早い。火野|神作《じんさく》は腹の傷の手当もしないで『準備』に取りかかった。  演出は、派手な方が良いだろう。      4  |上条当麻《かみじようとうま》は|記憶喪失《きおくそうしつ》だ。  なので、実家の場所なんて言われても実は分かっていなかった。トイレに行くと言って|土御門達《つちみかどたち》と別れた後、テレビで|観《み》た上空からの映像を思い出し、GPS機能のついた携帯電話に座標を打ち込んで大まかな場所を調べたのだ。  上空からの映像に、大型のショッピングセンターが映し出されていたのが幸いだった。そのショッピングセンターは主に九州地方を中心として展開されているらしく、神奈川県内では一軒しかなかったのですぐに場所を特定する事ができた。  とはいえ、|流石《さすが》にGPS携帯でも民家の名前一つ一つまではカバーできない。  大まかな場所を元に、後は|騒《さわ》ぎが起きている中心点を探して回るしかない。  場所を特定して、トイレから出ると、今度は砂浜に向かう。波打ち|際《ぎわ》で遊ぶ面々を無視して、少し離れた所にあるパラソルの下へと|辿《たど》り着いた。何とも無用心な事に、荷物の入ったバッグがそのまま置き去りにされている。|上条《かみじよう》は少し罪悪感に駆られたが、父の財布を探り出し、その中に入っていた実家の|鍵《かぎ》を入手してから海の家「わだつみ』へと引き返した。  海の家『わだつみ』の一階には|神裂《かんざき》が待っていた。 「それで、あなたの実家というのはどこにあるんですか」 「ん。車で二〇分ぐらいのトコ。タクシーでも呼んで向かった方が無難じゃねーかな」 「……、何度も尋ねますが、あなたがついてくる必要はどこにもないんですよ」 「……、何度も答えるけどな、あそこは|俺《おれ》ん|家《ち》だ。お前|達《たち》に任せたら家が地図からなくなってそうで|恐《こわ》いんだよ」  そう言ってみたが、実は上条は神裂や|土御門《つちみかど》達が心配だった、というのもあった。昨夜、ミーシャが圧倒的な実力で|火野神作《ひのじんさく》を|撃退《げきたい》したが、だからと言って安心できない。 「火野が|魔術師《まじゆつし》だってんなら、俺の右手だって多少の役には立つだろ。昨日の時点でそれは決まってた事だろ。人様の海パンずり下ろそうとした時に」  なっ……、と神裂の言葉が詰まった所で、土御門とミーシャがやってきた。ミーシャは|誰《だれ》と『入れ替わってる』のか上条視点では分からないが、土御門は『いわくつきの芸能人』のはずである。海の家のオヤジと遭遇した時の事を考えると土御門としては困るはずだが。 「おっすー。、で、カミやん。覚悟が決まったんならとっとと行こうぜよ。カミやん家が分かるのはカミやんだけだし、案内してもらわなきゃな」  ミーシャは相変わらず何も言わない。このクソ暑いのに汗一つかいていない。 「あー、それなんだけど。こっから車で二〇分ぐらいかかるっぽいんだ。だからタクシー呼んだ方が無難かも」 「えー」と、土御門は不満を|漏《も》らし、「じゃ、タクシーやってくるまでどっか隠れてますかにやー。ステイルの格好した海の家のオヤジなんかに|騒《さわ》がれたら笑い転げるだろうし」  言うや|否《いな》や、土御門は忍者みたいな動きで海の家の外へと出て行ってしまった。『土御門!』という叫びと共に神裂も後を追って走って行く。さも当然のように上条を巻き込もうとする土御門の口ぶりが気に入らないのかもしれない。  |呆然《ぽうぜん》とした上条だったが、とりあえず携帯電話でタクシーを呼ぶ事にした。電話を切ってから、そう言えばタクシー運賃は誰が払うんだ俺だったらヤダなジャンケンで決めるとか言ってもすぐ負けるし……とか考えていると、ふと上条は背後に入の気配を感じて  そこに、まだミーシャ=クロイツェフが立っていた。 「うわっ!?」  てっきりどっかに行っていたと思っていた|上条《かみじよう》は思わず大声を上げていた。 「問一。何をそんなに|驚《おどろ》いている?」  いや別に……、と上条の言葉が詰まる。、  ミーシャ独特の質問口調は、情報伝達としては優秀だが世間話にはあまり向かないと思う。  タクシーがやってくるまでに五分か一〇分ぐらいの時間はかかるだろう。|土御門《つちみかど》や|神裂《かんざき》はいずこかへ消えていたので話し相手にならないし、かと言って今からミーシャの元を離れるというのも何となく気まずい。結果、エレベーターの中のような|沈黙《ちんもく》が下りる中、上条はミーシャと共にいる羽目になった。  挙げ句、ミーシャの格好はワンピース型の下着みたいなインナーの上から|外套《マント》を|羽織《はお》っているだけである。何か改めて二人っきりになるとまともに顔を見ていられない。 (お、重い……。気まずい、笑いが起きない……ッ!)  沈黙からわずか三〇秒で上条はギブアップした。彼の一番好きな言葉は「明るい食卓』である、何とか話のネタとなるものを探すためにあちこちに視線を巡らし、ポケットの中を探ると何か硬い感触を|捉《とら》えた。引っ張り出してみると板ガムだった。 「た、食べてみるか?」  おっかなびっくりという感じで上条は問いかけてみたが、ミーシャは微動だにしない。 「問二。食べてみるか、というその質問から察するに、これは|食物《しよくもつ》なのか?」 「食べ物だけど飲み込んじゃいけないモンだ」 『?』とミーシャは小首を|傾《かし》げた。|上条《かみじよう》がもう一度板ガムをミーシャの方に突き出すと、ミーシャの手が音もなく動いた。上条の指に触らないように、板ガムの端っこを指で|摘《つま》む。まるでコンビニの店員がお釣りの小銭を手渡す時のような他人|行儀《ぎようぎ》な仕草だった。  ミーシャは板ガムというものを知らなかったのか、しばらく銀紙に包まれたままの物体をじっと眺めていた。やがてモソモソと銀紙を|剥《は》がし始める。出てきたガムを鼻に近づけて小動物みたいにフンフンと|匂《にお》いを|嗅《か》ぎ、それから小さく出した舌の先端でわずかに触れるようにガム の表面を|砥《な》めた。 (ううっ……、信用されてねえ。思いっきり毒味してやがる)  上条が顔で笑って心で泣いていると、やがてミーシャは板ガムを口の中へと放り込んだ。口の中の物を一度|噛《か》むと、その動きがピタリと止まった。ガムの食感が未知のものだったからかもしれない。しばらくミーシャは直立不動だったが、やがて小さな口が再び動き出した。何か気に入ったらしい。 「|私見《しけん》一。うん、|甘味《かんみ》は良いな。糖の|類《たぐい》は長寿の元とも言うし、神の恵みを思い出す」  前髪に隠れ彼女の表情は見えないが、その口が小さな笑みを浮かべた……ように見えた。  上条はここにきて、ようやく重苦しい空気から解放された気分になった。  小さな子供がお菓子を食べるような姿のミーシャに、上条はホッと|安堵《あんど》の息を吐いたが、  ごっくん、と。ミーシャの|喉《のど》が動いた。 「うばあ!? ナニ飲み込んでんだお前!」 「解答三。何だその反応は、飲み込んではならぬものなのか。これは噛み|煙草《タバコ》の|類《たぐい》か?」  ほとんど反射的に出た上条の叫びに、ミーシャは小さく首を傾げただけだった。さも当然のような感じで、にゅっと小さな手を伸ばしてくる。もう一枚、と|黙《もく》して語っていた。  |大丈夫《だいじようぶ》かな? と上条はミーシャに正しいガムの食べ方を教えつつ頭の中で首をひねった。まぁ、口の中に入れる物なんだから、有毒って事はないだろうけど……とか何とか思いながら、上条は板ガムをもう一枚、ミーシャに渡す。彼女はやはりガムの端を摘む。  ちなみに、上条の知る|由《よし》もなかったが、ガムの主成分は合成樹脂である。      5  それから少ししてやってきたタクシーに乗って、上条|達《たち》は包囲網へと向かった。運転手(と言っても、『入れ替わり』によって女子高生がハンドルを握っていたが)は警察が道を封鎖しているため途中までしかいけないと言ったが、構わなかった。  |神裂《かんぎき》の刀は二メートル近くあるので、狭い車内に収めるには後部座席から助手席の前まで貫く形となる。運転手は迷惑そうな顔をしたが、モノが日本刀なだけに|恐《こわ》くて文句を言えないらしい。  |野次馬《やじうま》から少し離れた場所でタクシーから下ろしてもらう事にする。  運転手はタクシーからお客さんを下ろす時になって、|土御門《つちみかど》の顔を見た。『あんたアイドルの|一一一《ひとついはじめ》だろ? 娘がアンタのファンでさー』と|嬉《うれ》しそうな顔をして語る運転手の差し出した手帳に、土御門はニッコリ笑顔でデカデカとサインを書いていた。  タクシーは去っていく。テレビの情報を|鵜呑《うの》みにするなら、現場から半径六〇〇メートルにわたって大包囲網が敷かれているらしい。 「しかし、半径六〇〇メートルの大包囲とは、また|大袈裟《おおげさ》ですね。警官隊で維持できないような規模なら、半径をもっと縮めれば良いのに。|何故《なぜ》そんな無理を通すのでしょう?」  対して、|上条《かみじよう》の答えは明白だった。あまりロに出して気持ちの良いものではないが。 「発砲許可が下りてんだろ。民間人に流れ弾が当たらないように気を配ってんだよ」  とはいえ、銀行強盗の立てこもりでもここまで大規模な道路封鎖は行われないだろう。これは一発二発の発砲ではなく、銃器や爆発物を使った大規模な混戦を予想しての対応だ。欧米の|爆発物処理《E O D》事件ならともかく、日本国内の、しかも単独犯を扱う警戒レベルとしては前代未聞と言っても良い。|火野神作《ひのじんさく》は警察にとってもそれだけ特別な犯罪者なのだろうか?  そんな上条の思考をよそに、|神裂《かんざき》と土御門は勝手に話を進めてしまう。 「ふむ。テレビ局のヘリもいなくなっていますね。警察から警告でも受けたんでしょうか」 「地上のマスコミ共もみんな道路封鎖で足止めくらってるみたいだぜい。あのハイエナみたいな連中が大人しく従ってるってのは異常ぜよ。こりゃどっかから愉快な圧力でもかかってるのかもしれないぜい」  土御門は青いサングラスをかけ直しながらそう言った。自分で言ったマスコミという言葉を気にしているのかもしれない。 「日本の警察機構に、火野神作の『|御使堕し《エンゼルフオール》』に気づいている者がいるとでも? 上半期の報告では|霊能《れいのう》専門の捜査|零《ゼロ》課の存在は流言と断じられたはずでは?」 「うんにゃ、そういう次元ではなく、単に機動隊の二二口径が火野の脳ミソ吹っ飛ばす|瞬間《しゆんかん》をライブ中継されると困るからじゃないかにゃん? 色々あるぜよ、政治家さんはアイドルよりもイメージを大切にする職業ですたい」  ふむ、と神裂は何か|嫌《いや》そうな顔で遠くの立入禁止区域を眺めた。ミーシャは|黙《だま》ったままモグモグとガムを|噛《か》んでいる。上条は三人のプロの顔を順番に眺めて、言った。 「で、結局どうすんだ? 厳重な警官隊の包囲は元より、野次馬だっていっぱいいるんだぜ。どうやって|俺《おれ》ん|家《ち》まで向かうんだよ。マンホールの下でも|潜《もぐ》ってみるか?」 「下水ルートを使った火野の逃走ぐらいは警察も|考慮《こうりよ》してそうな気がするけど。ま、いいか。とにもかくにも、まずはカミやん家まで向かってみますか」  |土御門《つちみかど》があまりにもあっさり言ったので、|上条《かみじよう》は逆に面食らった。 「どうやって?」 「どうやってって、もちろん。そこを通っていくに決まってるぜい」  言って、土御門は近くにある民家のコンクリート|塀《べい》を指差した。  警官隊は周辺の|全《すべ》ての道路を封鎖していた。  しかし、逆に言えば『道路でない場所』にまで警官は立っていない。|避難《ひなん》命令を出され無入となった民家の庭———そこは植え込みやコンクリート塀によって『道路からは見えない空間』となっている。  上条はさも当然のように民家の庭から庭へと走って行く土御門|達《たち》の後を追っていた。|柵《きく》を飛び越し、塀を乗り越え、民家から民家へと走って行く。  もちろん、それだけで警官隊の目から逃れられるはずがない。  確かに警官隊の持ち場は『道路』だが、かと言って全く民家の庭や車の陰を無視している訳ではない。何かの拍子に彼らの視界に上条達の姿が映ってしまえばお尋ね者だ。  そう[#「そう」に傍点]、映ってしまえば[#「映ってしまえば」に傍点]。  何かの拍子———例えば|隣《となり》の警官と言葉を交わしたり、無線通信に意識を集中したり、物陰から飛び出してきた|野良猫《のらねこ》の方を見たり、何気なく空を見上げたり———そういった、ほんのわずかな空白を突いて土御門達は警官のすぐ近くを走り抜ける。しかも、土御門達は警官に|隙《すき》が生まれるまでじっと物陰で待ち続けているのではない。まるで計ったように、土御門達が走り抜ける|瞬開《しゆんかん》と警官に隙が生まれる瞬間が奇妙に重なるのだ。  結果、|魔術師《まじゆつし》達はほとんど立ち止まる事なく全力疾走で包囲網の中を駆け抜ける。  あまつさえ、|素人《おにもつ》の上条を引き連れたまま。  上条は、テレビゲーム———テロリストが立てこもる施設の中を敵兵に見つからないように進むスパイゲームや、用心棒だらけの武家屋敷の中を|俳徊《はいかい》する立体忍者アクションなどを連想した。そうしたゲームの最短記録|狙《ねら》いのリプレイを見ているような|錯覚《さつかく》がする。  ただし、ゲームとの違いが一つある。  始めから|突破《クリア》してもらうために作られたゲーム上の|戦場《ステージ》と、  始めから|突破《ブレイク》はできないように作られた本物の|包囲網《バトルフイールド》。  言葉にすれば細かいように聞こえるかもしれないが、両者の差は絶対と言っても良い。  こういった人間離れした技術を見せつけられると、あれだけ身近に感じていた土御門もやはりプロの人間なんだと痛感させられた。上条にとって、それは少し苦い感想だった。鼻歌交じり。て包囲網を突破していく土御門の存在が、少し遠くに感じられた。  半径六〇〇メートルを囲む警官隊の包囲網を越えると、しばらく人の姿は見えなかった。だが、走り続けると今度は|装甲服《ボデイアーマー》と|透明な盾《ポリカーボネイド》に身を包んだ物々しい面々が現れた。機動隊の人間だ。中にはおじいちゃんやおばあちゃんが『入れ替わってる』人もいるため、所々が|頼《たよ》りなく見えてしまうのだが。  |土御門《つちみかど》が立ち止まり、路上、駐車の車の陰に隠れる。後の全員もそれに従った。 「さてはて、|流石《さすが》にここから先は|隠密《おんみつ》だけでは難しいぜい。、カミやん|家《ち》を取り囲んでる機動隊は全員、双眼鏡でカミやん家に大注目しているし。|誰《だれ》にも気づかれずにカミやん家に|突撃《とつげき》して|火野《ひの》を押さえるのは不可能っぽいぜよ」 「不可能って……じゃあどうすんだよ?」  まさかここまで来て立ち|往生《おうじよう》とは思っていなかった|上条《かみじよう》は、慌てて口を挟んだ。 「そうですね。機動隊を眠らせたり|放心《ぽうだち》させたりする意識介入の術式は可能ですが、その方法では無線連絡などの|沈黙《ちんもく》から外部の警官隊に異常を感知される恐れがあります」  |神裂《かんざき》はそこまで言うと、少しだけ|黙《だま》った。  頭の中で、次に発言する内容を吟味しているようだった。 「それよりも、認識を|他《ほか》に移す、という手法を取るのはどうでしょうか?」  上条は訳が分からない言葉を理解できない。ミーシャは無言で神裂を見る。 「つまり機動隊に、『全然違う家』を『上条|当麻《とうま》の実家』と思い込ませれば良いのです。それなら『上条当麻の実家』で何が起きても、機動隊員は『異常ナシ』と告げるでしょう」  ヒュン、という|風斬《かぜき》りの音が聞こえた。  神裂の周辺に、太陽光の乱反射がなければ決して見えないほど細い|鋼糸《ワイヤー》が現れる。「|禁糸結界《きんしけつかい》———元ネタは東南アジア辺りの|家守《いえもり》ノ神の召喚陣かにゃー?」 「土御門。観客の前で手品のタネを明かすとは何事です」神裂はため息をついて、「|全《すべ》ての機動隊員を効果範囲内に収めるには———この調子ですと半径一〇〇メートルの|蜘蛛《くも》の巣を築く必要がありそうですね。糸を張り巡らすのに二〇分ぐらいかかりますので、その間はどこかに身を隠していてください」 「あいあいさー」  土御門は青いサングラスのフレームを指でなぞりながら適当に答えた。 「それから、上条当麻。あなたは糸には触れないで下さい。禁糸結界は地面に描く二次元的な|魔法円《まほうえん》の代わりに、糸を使って三次元的な魔法陣を描く結界の事です。、結界の核たる糸にあなたの右手が触れてしまうと魔術が解けてしまう恐れがありますので」 「いや、いくら何でも、こんな指ごとスッパリ切断されそうな糸に触れようとは思わねーよ。っつか前にも右腕|斬《き》られたばっかなのに、そんな簡単にバラバラにされてたまるか。そんなん『不幸だから[#「不幸だから」に傍点]』の一言で済む問題じゃねーだろ」  びく、と神裂の顔から表情が消えた。 「うにゃー。けどカミやん、三沢塾戦じゃそれが『不幸中の幸い[#「不幸中の幸い」に傍点]』にならなかったっけ?」  土御門と上条は、そんな神裂の微細な変化に気づかない。 「あんなもん好きで切断された訳じゃねーっつの。ったく、あのロリコン|錬金術師《れんきんじゆつし》め。あんなもんに遭遇しちまったのがすでに『不幸だった[#「不幸だった」に傍点]』んだよ」  カツン、と。ブーツの|踵《かかと》を鳴らして、|神裂《かんざき》は|上条《かみじよう》に背を向ける。  ゾクリ、という背筋の感触に、上条は神裂の背中を目で追った。何かを意図した訳ではない、身の危険を感じて反射的に|身体《からだ》が動いてしまったような……そんな感覚だった。  神裂の背中は何も語らない。 「な、何だよ? お前、気分でも悪いのか?」  別に、という返事。  神裂は振り返らないまま、禁糸結界を張るために上条の元から走り去った。  神裂は無入の住宅街を走りながら糸を張り巡らせ結界を築いていく。  学園都市とは違い、普通の街には電柱というものがある。広範囲にわたって見えない糸を張り巡らせるには格好の『支点』だった。この電柱と糸を使い、機動隊から少し離れた場所に、半径一〇〇メートルほどの三次元的な|魔法陣《まほうじん》を作る。この結界を使って、人の認識をズラすような特殊な波長の魔力を機動隊にぶつけるのだ。禁糸結界の形は|中華鍋《ちゆうかなべ》のようなものになるが、上条ならパラボナアンテナとでも表現するかもしれない。  上条。  彼の言った『不幸』という言葉を思い出して、神裂は顔をしかめた。 (彼は、悪くありません。あの少年に怒りをぶつけるのは筋違いというものです)  理性では分かっていたが、それ以外の部分がどうしてもあの場に|留《とど》まる事を許さなかった。  神裂には、『不幸』という単語に苦い思い出がある。  できれば、もう二度とその単語を耳にしたくないほどに。  封じた|記憶《きおく》の扉をこじ開けられるのを恐れて、神裂は走る。さらに速くさらに力強くさらに集中して。作業に没頭する事で、一番恐れている事から意識を|逸《そ》らそうとするように。  神裂が走り去った後、上条は路上駐車された車の陰でため息をついた。  上条は|驚《おどろ》いていた。、もちろん彼ら魔術師の技量についてもだが、それ以上にかなり行き当たりばったりで動いているような気がする。はっきり言うが、神裂が『なんとか結界』を使えなかったらどうするつもりだったんだろう。こんな所で立ち|往生《おうじよう》なんて間抜けすぎる。  アクション映画に出てくるやられ役の特殊部隊[#「アクション映画に出てくるやられ役の特殊部隊」に傍点]だって、テロリストの立てこもるビルに突入する前には事前に見取り図か何かを見て綿密な作戦を練るシーンぐらいは登場するのに。  そう言えば、過去にルーンの魔術師と手を組んで錬金術師と戦った『三沢塾』戦においても、やっぱり細かい計画などは何もなかった気がする。  その事を|愚痴《ぐち》と文句を混ぜて話した所、|土御門《つちみかど》は何を当たり前の事を、と答えた。 「カミやん。ウチら|魔術師《まじゅっし》って生き物は、プロって言っても|教本《テキスト》通りに|訓練《プログラム》された特殊部隊とは違うにゃー。どっかの軍隊みたいに『組織的な殺人訓練』とか『集団的な思想教育』とか、そういったものを|叩《たた》き込まれる訳じゃない。|戦闘《せんとう》に関しちゃド|素人《しろうと》なんだぜいですよ」  何だって? と|上条《かみじよう》は|眉《まゆ》をひそめた。  その言葉は、これまで会ってきた魔術師|達《たち》とはあまりに無縁の言葉に思えたからだ。 「ウソだろ? だって、ステイルとかアウレオルスなんて、九〇式戦車を相手にしたって真っ正面から笑顔で|撃破《げきは》するような連中だぜ。あんな戦闘狂の|破壊魔《はかいま》が素人なはずねえだろ」  上条は無言で|掌《てのひら》を差し出してくるミーシャに新しい板ガムを渡す。やっぱりミーシャは上条の手に触れようとせず、コンビニ店員がお釣りを渡すような感じで板ガムを受け取った。  |土御門《つちみかど》はそんな上条とミーシャを、サングラスの青いレンズ越しに見て、 「そりゃあ、あれだぜい。核ミサイルの発射ボタンを中学生に握らせるようなモンだって事。ヤツらは|優《すぐ》れた魔術の腕を持つが、それは別に軍事訓練を受けた結果じゃない」土御門は笑って、「不思議に思わなかったかい、カミやん。プロとして訓練されているはずの魔術師達が、やけに戦いに私情を挟んでた事に。ショッキングな事実を知って敵の眼前で凍りついたり、敵の言葉に耳を傾けていちいち真に受けたり、敵に対して同情したり、一対一で正面から正々堂々と戦おうとしたり———魔術師の戦いってのは、とにかく無駄[#「無駄」に傍点]が多いぜよ」  本当に軍事訓練を叩き込まれた、冷たい『人間兵器』なら敵の言葉なんて聞かない、同情もしない、正面から戦うどころか敵の視界に映ろうともしない。たとえ|衝撃的《しようげきてき》な真実を前にした所で、まずは目の前の敵を倒す。犯人を殺せと言われたら、盾にされた人質の子供ごと犯人の心臓を|撃《う》ち抜く。それがプロの戦闘要員という生き物だ。 「そういう面において、魔術師ってのは子供なんだぜい。子供がナイフを握ってんのさ。それも世界に裏切られて泣きながら|震《ふる》える子供が、な」  土御門は、わずかに息を吐いた。 「魔術師って生き物は、そういうものなんだ。|叶《かな》えたい願いがあっても叶えられない、神様に祈っても助けてもらえない———そうやって行き場を失っていった人間が最後にすがりつくのが、究極の裏技、魔術ってトコになるんですたい」 「……、」  上条は何も答えられなかった。目の前の土御門も、魔術師だ。お気楽に振る舞っていても、やはり魔術師なのだ。いつでも笑っているこの少年の心にも、乾いた空白があるに違いない。  同じく、無言でガムを|噛《か》んでいるミーシャも、また。 「魔術師———特に一九世紀末に土台を固めた、いわゆる『|近代魔術師《アドバンスドウイザード》』ってのは自分の魂に自分の願いを刻み付ける。言っちまえば『魔法名』ってヤツだぜい。自分が魔術を学ぶ理由、自分が人生を投げ打ってでも叶えたいたった一つの願いを、ラテン語で胸に刻む。オレだったらFallere825、神裂ねーちんだったらSalver000ってにゃー。後ろの数字はあれだ、同じ単語がダブった時のため。そこらへんはメールの|登録名《ドメイン》と同じだぜよ」 「……、それは———」  ———どれほどの覚悟だろう、と|上条《かみじよう》は思った。漠然とした夢しか持たない上条だって、大勢の前で自分の夢を語るのは恥ずかしい。自分の夢を否定されるかもしれないという恐怖もある。芸能人やスポーツ選手を夢見る人の中には、親や先生から|馬鹿馬鹿《ばかばか》しいと|一蹴《いつしゆう》されて|諦《あきら》めてしまったパターンもあるはずだ。夢を否定される事は、それぐらいの|衝撃《ダメージ》を伴うのだ。  彼ら|魔術師《まじゆつし》は、|恐《こわ》くないのか。、  たとえ|誰《だれ》に否定されてでも、自分の夢を諦めないという覚悟があるというのか。 「そんな連中にとって、『組織に属する』なんて言葉に大した意味はないんだぜい。たまたま自分の目的と合いそうだから、くっついているだけ。自分の人生にとって組織が|邪魔《じやま》になるなら、|神裂《かんざき》ねーちんもステイルも迷わず離反するだろう。もっとも、今の所は|禁書《ひとじち》がいるから離れる事はないと思うけど」 『人質』という言葉にギョッとしながらも、上条はため息をついた。  魔術師の言う『プロ』は、特殊部隊で言う『プロ』とは一八〇度意味が違う。何となく、上条にはそれが分かった。命令一つで給料のために自分の意に反する殺人を犯すような特殊部隊とは、正反対なのだ。誰の命令も聞かない、お金だって欲しくない、それでも何があっても自分の|想《おも》いだけは曲げたくないーそういう子供みたいな考え方を極めた『プロ』なのだ。 (……、そうなると)  上条は、神裂が走り去った方を見た。  そこには誰の姿もない。空っぽになった住宅街の静寂が、|虚《むな》しく広がっているだけだ。  去り|際《ぎわ》、何か|不機嫌《ふきげん》にも見えた神裂の後ろ姿、上条は、知らず知らずの内に彼女の『プロ』としての信条に傷をつけるような事を言ってしまったんだろうか?  と、そんな少し不安そうになっている上条の顔に気づいたのか、|土御門《つちみかど》は笑って、 「ああ、神裂ねーちんはカミやんが言ってた『不幸』って言葉が気に食わなかったんじゃないかにやー」 「不幸?……、言ったっけ、そんな事?」  上条は首を|傾《かし》げた。ミーシャの方を見ても、彼女はガムを|噛《か》むだけで何も答えてくれない。 「カミやんにとっては|口癖《くちぐせ》みたいなモンだからにゃー、『不幸』って。ま、神裂ねーちんも苦しんでんのさ、自分の『悪運』ってヤツに」 「……、『悪運』?」 「言い換えれば「幸運』でもある。つまり神裂ねーちんは自分が『幸運』なのが許せない」 「『幸運』で、悩む?」  上条が良く分からない顔をすると、土御門は『ああ』と|頷《うなず》いて、 「日本には天草式っていう隠れキリシタンの組織があるんだが、神裂ねーちんは生まれる前からそこのトップ『|女教皇《プリエステス》」になる事が決まってた。しかも世界で二〇人もいない限られた、神様に選ばれた|聖痕《ステイドクマ》使いの『聖人』でもあった」  |土御門《つちみかど》は笑っている。  だが、その笑みはいつもの|瓢々《ひようひよう》としたモノとは異なる種類のものだった。 「努力をしなくても成功するほどの才能があった。何もしなくても人の中心に立てるほどの人望があった。願った望みは|全《すべ》て|叶《かな》い、予想もしなかった|嬉《うれ》しい誤算は日常|茶飯事《さはんじ》だった。|誰《だれ》かに命を|狙《ねら》われても|何故《なぜ》か生き残った。理由もなく弾は外れ、至近距離で爆弾が爆発したって奇跡的に傷一つなかった」土御門は、|子守唄《こもりうた》でも歌うように、「——だからこそ、|神裂《かんざき》ねーちんは自分の『幸運』が許せないんだとさ。いや、自分の『悪運』を|呪《のろ》ってるのか」 「……、何だよそりゃ。そんなもんが悩みになんのか?」  |常日頃《つねひごろ》から『不幸』で悩まされている|上条《かみじよう》にとっては、|羨《うらや》ましい限りだ。 「さあって。こればっかりはなってみた人問じゃないと分からないぜよ」  土御門は笑っていた、  しかし、その顔はちっとも楽しそうには見えなかった。 「けどカミやん。『幸運』なヤツってのはどんな気持ちなんだろうな? 常に自分はたった一本しかない当たりくじを必ず引いてしまう。という事は、自分の周りにいる人間には絶対に残ったハズレくじを引かせてしまうんだぜい[#「自分の周りにいる人間には絶対に残ったハズレくじを引かせてしまうんだぜい」に傍点]」 「……、あ」 「生まれた時から『|女教皇《プリエステス》』の地位を約束された。けど、そのせいで『|女教皇《プリエステス》』になりたかった人|達《たち》の夢を|潰《つぶ》してしまった。努力をしなくても成功するほどの才能があった。けど、そのせいで死にもの狂いで努力する人達を絶望させた。何もしなくても人の中心に立てるほどの人望があった。けど、そのせいで|他《ほか》の誰かが人の輪の外へ|弾《はじ》かれた。願った望みは全て叶い、予想もしなかった嬉しい誤算は日常茶飯事だった。けど、その裏ではたった一つの願いも叶わず打ちひしがれる者が確かに存在した。誰かに命を狙われても何故か生き残った。けど、神裂を|庇《かば》うために目の前で弱い者が倒れた。飛んできた弾の盾となり、爆風を防ぐ|鎧《よろい》となり、神裂を|慕《した》って信じる多くの人が倒れていった」 「……、」 「きっと、神裂ねーちんが|外道《げどう》なら、何も悩む必要はなかった。けど、アレはどうしても自分一人が『幸運』になるのが許せなかった。自分の周りの入々が本当に大切だったからこそ、周りの全てを『不幸』にする自分の『幸運』が許せなかった」  土御門は息を吐いた。  遠い空を見上げながら、彼はさらに言う。 「そして、神裂ねーちんは耐えられなかった。自分のせいで周りのみんなは『不幸』になったのに、それでもあなたに出会えた事は『幸運』ですと告げて倒れていく人達の笑みを見る事が」  |上条《かみじよう》は、言葉を失った。  確か、|神裂《かんざき》はイギリス清教の人間だ。それなら、天草式という別の組織からは抜けた事になる。生まれた時から高い地位を約束されて、周りの|全《すべ》てに慕われて。それでも、自分を信じる人|達《たち》が『不幸』になるのを止めたかったから、神裂は全ての地位を捨てた。本当に守りたい者がいたから、いつまでも|一緒《いつしよ》にいたかった気持ちを殺して孤独を選んだ。  結局、彼女と共に歩いていけるのは。  幸運や不幸に振り回されないほど強い、|必要悪の教会《ネセサリウス》のような特別な集団だけだった。  それはどんな気持ちだろう、と上条は思った。  そして、上条は『それ』を神裂に思い出させてしまった。自分が『不幸』なのは当たり前だと、何でもない事のように笑ってしまった事で。  そんな上条を前に、しかし|土御門《つちみかど》は明るく笑う。 「けど、カミやんが気にする事ないぜい。あんなん神裂ねーちんが一人で勝手に思い出してるだけだぜい。テメェのトラウマで勝手に沈むなんざ自己中も良いトコだにゃー」土御門は手をパタパタ振って、「ありゃ子供の|癇癪《かんしやく》だよ。いちいち気にする事でもないぜよ」  笑顔であっさり言われても、上条のブルーな気持ちが吹っ飛ぶ訳ではない。  会話が少し止まった。  住宅街には物音らしい物音は何もなく、所々で置き去りにされた飼い犬が真夜中みたいな|遠吠《とおぼ》えをしているだけだった。ずっと遠くの方から電車の走る音も聞こえてくる。  ややあって、上条は|誰《だれ》もいない住宅街をぐるりと見回した。 「それにしても神裂、遅くねーか? まさか警官に見つかってるとかってんじゃねーだろうな?」 「そりゃありえないぜい。神裂ね!ちんなら戦車中隊に見つかったって真正面から切り抜けられるだろうし。ねーちんはロンドンでも十指に入る|魔術師《まじゆつし》だけど、どうにも使う術式にムラっ気があるんだぜい。結界張るのは得意じゃないから手間取ってんだよ」 「……、っつか、お前が『魔術師』って言うの、今でも違和感あんだよなー。って事はあれか、お前も職業神父さんとかで修道服着たりすんのか?」 「|囮《おとり》捜査の刑事が制服着てる訳ないぜよ。オレは専門外だよ、聖書ももらったがホコリまみれだ。基礎術式だってカバラじゃなくて道教の和風アレンジ、|陰陽道《おんみようどう》だし」 「……、オンミョーって、なんか和風っぽくねーか?」 「そうだぜい。だがカバラと陰陽ってのは結構似てる所があるぜよ」  土御門はうんうんと二回|頷《うなず》いた。 「例えば五大元素を表す記号は西洋も東洋も五紡星だし、各属性に色や方角を振り分けるのも陣を張る時には東西南北四方位に守護者を置くのも同じ。西洋じゃ四大天使で日本じゃ四大式神だがにゃ」 「ふうん」|上条《かみじよう》にはサッパリ分からない世界の話なので適当に、「ふしぎふしぎ」 「不思議でも偶然の一致でもないにゃー。|陰陽《おんみよう》が発祥し|晴明《ジジイ》が極めたのは平安時代、当時はシルクロード経由で外来品がわんさかやってきてたし。コイツは私見だが、そっから|影響《ヒント》もらったって考えた方が自然だぜい。陰陽の元ネタ『|金鳥玉兎集《きんうぎよくとくしゆう》』だって大陸から渡ってきたモンだしにゃー。興味あるんだったら後で禁書にでも|頼《たの》んで頭の中から引っ張り出してもらえば良い」  もっとも、と|土御門《つちみかど》は自分で自分を笑うように付け加えて、 「オレの専門は風水だからにゃー。土地の見方は東洋と酉洋で大分術式が異なるモンだ」 「ふーすい? 『ドクター・ごぶぁ』とかの?」  確かRPGの|職業《ジヨブ》に『風水師』とかいうのがあった気がする。そうすると、兼業なのか? 「ああカミやん。言っとくけど、元々世界に風水師なんて職業はなかったんだぜい。本来なら中国では道士の、日本では|陰陽師《おんみようじ》の仕事なのさ」  土御門は指を折って何かを数え始めた。 「風水は仕事の内容の一つ。風水師、|占術《うらない》師、|錬丹《くすり》師、|呪術《のろい》師、|祈濤《おがう》師、|歴術《こよみ》師、|漏刻《とけい》師、エトセトラ。これらは道教や陰陽の一部分が分立・特化した別職業って感じだぜい」 「ふうん。|小林拳《しようりんけん》の一部が沖縄に伝わって空手になったようなもんか?」 「そんな感じだぜい。似てるんだよ。道教の|道《タオ》は入に『気』を当てる術式だが、これを土地や世界に応用すると『風水』になる。|科学《カミやん》的に言えばガイア論だにゃー、世界を一個の生命とした医学とでも考えれば良い」土御門は何かを思い出すように、「オレはその中でも黒ノ式———詳しく言えば『水路作り』が専門だったからにゃー」 「すいろづくり?」 「その名の通り、水路を作るのさ。水の流れを使ったでっかい|魔法陣《まほうじん》で、城や街を守るのが主な目的。水路を陣にするのは世界的にも珍しくない。、風水とは離れるが、イタリアの「|水の都《ヴエネチア》』とかですたい。大戦末期にゃ旧日本軍も地下|防空壕《ぼうくうこう》を|繋《つな》げて巨大な水路陣を作ろうとしたみたいだが、コイツは失敗したみたいだぜい」  土御門は遠い過去を思い出すように言う。 「オレは水路を使ってワナを作るのが得意、だった。ってか、陰陽師ってなそんなもんなのさ。遠く離れた見えない所からコソコソ式神を打ち、テメェの周りに陣を張って姿を隠す。平安京で陰陽が恐れられたのはその力の強さじゃない。|卑怯《ひきよう》で陰湿で|狡猜《こうかつ》で暗殺で反則な「|禁忌《うロリぎり》』にこそあったんだぜい」  そうこうしていると、|神裂《かんざき》が物陰から物陰へ移動するようにして、帰ってきた。  その顔は冷静で、もう動揺している様子もない、 「禁糸結界、起動しました。|上条《かみじよう》宅を取り囲んでいる機動隊は、三〇〇メートル離れた無人の家を『上条宅』と勘違いして、包囲を崩しているはずです」 「んじゃ、がら空きになったカミやん|家《ち》にお|邪魔《じやま》しますかにゃー」  |土御門《つちみかど》がやけにあっさりと言って、さっさと進んでしまった。ミーシャと|神裂《かんざき》もそれに|倣《なら》う。一人置いてきぼりになった|上条《かみじよう》に、神裂がふと振り返った。 「何をしているのです? それとも我々が|火野《ひの》を仕留めるまで、そこで待機していますか?」 「あ、ああ」  上条は言って、慌てて走った。|律儀《りちぎ》に待ってくれた神裂と並んで土御門の背中を追う。上条は走りながら考えた。神裂に|辛《つら》い「思い出』を|蘇《よみがえ》らせてしまった事を謝ろうかとも思ったが、 (……、いや。謝ったら謝ったで、また神裂に思い出させちまうか)  本当に辛い思い出なら、下手に蒸し返させない方が良い。上条は 人で首を横に振ると、少し不思議そうな顔をしている神裂の視線を振り切るように速度を上げた。      6 『上条』と書かれた表札が、コンクリート|塀《べい》の端———玄関ポーチにポストや呼び鈴と|一緒《いつしよ》にくっついていた。  上条|達《たち》は、『上条家』の向かいの家の植え込みの陰に隠れて、様子を|窺《うかが》う。  どこを取っても平凡に見える木造二階建ての建売住宅。  だが、この真夏の炎天下、真っ昼間から|全《すべ》ての窓を雨戸と分厚いカーテンで|覆《おお》い隠している光景は、それだけで異様だった。|記憶《きおく》がないとはいえ、本来ならある種の|懐《なつ》かしさでも感じて良いはずの上条だったが、目の前の建物は、家庭内暴力や少女監禁事件など、何か|陰惨《いんさん》な事件の匂いを感じさせるほどの邪気を放っているように見えた。  そして実際、その|得休《えたい》のしれない直感は間違っているとも言えない。  太陽の光を拒むように閉ざされた家の中には、|悪魔《あくま》崇拝じみた理由で二八人もの人間を|惨殺《ざんさつ》して|生《い》け|瞥《にえ》に捧げ、「|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こして全世界を巻き込んだ脱獄犯が立てこもっているのだから。  神裂は植え込みの陰から二階のカーテンに|阻《はば》まれた窓を盗み見つつ、小声で言った。 「ふむ。ここからでは火野がどこにいるのか|掴《つか》めませんね。、あるいはステイルなら熱源探知で居場所を知る事もできたかもしれませんが」ほんのわずかに、口惜しそうに、「しかし、あれだけ厳重に閉ざしていると、火野もこちらの接近には気づいていないように思えます。|奇襲《きしゆう》を かけるならば手早く行いましょう。上条宅の|鍵《かぎ》はどこですか?」 「ここですにゃー」  と、|何故《なぜ》か土御門がポケットから銀色の鍵を取り出した。あれ? と上条は慌ててポケットを探る。ない。いつの間にどうやったか知らないが、鍵は|盗《と》られていたらしい。  神裂も、土御門の無意味な|手癖《てくせ》の悪さに|呆《あき》れたようなため息をついて、 「では、|土御門《つちみかど》は陽動として玄関から、できるだけ大きな音を立てて突入してください。私とクロイツェフはその音を合図に、別ルートから|隠密《おんみつ》で侵入します」 「あいさー。ミーシャたんも異存なしかぜよ?」  土御門はミーシャに向かってそう言うと、ミーシャは一言『解答一、肯定』と告げた。腰のベルトからノコギリを引き抜くと、何の助走もなしの一跳びで|上条《かみじよう》家の一階の屋根へと飛び乗った。二階の小さな窓の横に張り付くようにしている。  ギョッとした上条の目の前で、今度は|神裂《かんざき》が跳んだ。助走もないただの垂直飛びで、上条家の一階屋根に乗っているミーシャの頭を飛び越し、二階の屋根へと音もなく着地する。神裂はそのまま屋根の向こう———庭に面したベランダの方へと進んで行ってしまう。  |馬鹿《ばか》げていた。|理不尽《りふじん》と言っても良い。『駆けっこで速くなりたいです、どうしたら良いですか?』という子供の問いに、『エンジンを移植しろ』と真顔で答えるのと同じぐらい、何か基本の基本が外れているような気がした。  そんな神裂やミーシャをさも当然のように見送ってから、土御門も植え込みの陰から出る。一人置いてきぼりにされた上条は、慌てて土御門の背中に問いかける。 「お、おい。|俺《おれ》はどうすりゃ良いんだよ?」 「神裂ねーちんが全無視してたトコ見ると、そこでお留守番がベストな解答じゃないかにゃー?」土御門は振り返ると、「さっきの見たろ、カミやん。あんな人間離れした|魔術師《まじゆつし》がこっちにゃ三人も詰めてるんだしにゃー。カミやんは心配する事ないぜよ」 「け、けど……その内の二人は女の子じゃねーか」  上条の言葉に、土御門は青いサングラス越しに|呆《あき》れたような視線を向けた。 「あのにゃー。いいかい、神裂ねーちんなんざ|聖痕《ステイグマ》使いだぜい? 人間兵器どころか聖人兵器なんざ、女の子に分類できるかっつーのですよ?」 「……、何だって? セイジン、ヘイキ?」 「その名の通り。カミやん、偶像崇拝については昨日説明したよな。教会の屋根にあるレプリカの十字架でも、カタチと|役割《ロール》が合っていればある程度の力は宿せるっていうヤツ」  土御門は早口で、先行した神裂|達《たち》を気にしながら言った。 「それは『神様のレプリカ』にも当てはまる。人間ってのは神様に似せてデザインされたモノだから、『|人間《レナリカ》に|神様《オリジン》の力を宿す』事は可能なんだ。もちろん、『神に似た人聞』は選ばれた一握りの人間だけ。ねーちんみたいに生まれながらに『神の力を宿せる人間』は聖人って呼ばれてて、聖人の|証《あかし》 『|聖痕《ステイグマ》』を解放した場合に限り、ねーちんは一時的に人間を超えたカを使う事ができる。今のねーちんなら一人で城攻めでもできるんじゃないか?」  土御門は最後に『それじゃ』と上条を突き放すように言うと、玄関のドアの横へと張り付いた。その手にある銀色の|鍵《かぎ》を、静かに鍵穴へと挿していく。  一人植え込みの陰に取り残された上条は、心の中で自問自答した。  良いのか、あのまま彼らに任せておいて。確かに彼ら|魔術師《まじゆつし》は|戦闘《せんとう》のプロだ、昨夜ミーシャが圧倒的な実力差で|火野神作《ひのじんさく》を追い詰めた事も|考慮《こうりよ》すれば、なんて事はないのかもしれない。  だが。  彼らは、本当に理解しているのか? 閉ざされた|闇《やみ》の中で戦う事の難しさを。  暗闇の室内戦において、一番危険なのは『敵からの|攻撃《こうげき》』ではなく『味方の同士|討《う》ち』だ。真っ暗闇で|揉《も》み合いになる二つのシルエット、不意に物陰から現れる人影。こうした『見えない味方』を間違って|撃《う》ってしまう、というのが一番|恐《こわ》いのだ。|上条《かみじよう》だって夜間戦のプロではないが、街のケンカで『逃げる』ではなく『戦う』と覚悟した時は、できるだけ開けた場所を選ぶ。暗がりに|潜《ひそ》む伏兵の存在が|恐《こわ》いからだ。  そして、おそらく|火野神作《ひのじんさく》は知っている。  暗闇での戦い方を。味方と味方をぶつける方法を。昨夜の|襲撃《しゆうげき》のせいで火野を過剰に評価しているだけかもしれないが、わざわざカーテンや雨戸を使って自ら暗闇を作り出しているのだ。同士討ちを|狙《ねら》っているかもしれない、ぐらいは思ってもバチは当たらないだろう。 (チッ……、それじゃあ味方が強ければ強いほど危ねえじゃねーか!)  上条は|土御門《つちみかど》の後を追って、玄関ポーチへと走った。玄関横の背の低い木の枝についた巣箱に頭をぶつけそうになりながら、土御門のすぐ近くへと駆け寄った。 「待てよ、土御門」  対して土御門は舌打ちしたが、突入ポイントの目の前で|呑気《のんき》に言い争いなどする余裕はない。土御門はほとんど音に出さず、しかし|何故《なぜ》か妙に頭に残る声で上条に向かって言った。 「……、こっから突入するけど、カミやんはオレの後ろに隠れてろ。かと言って、自分が安全地帯にいるとは思わない事。特に後ろに注意するんだぜい」  上条だってここから先に『安全地帯』などない事ぐらい分かっている。子供のように言い返そうとした上条だったが、それより先に土御門は|鍵穴《かぎあな》に挿した鍵をガチャリと回した。  一度だけ短く息を吸うと、土御門は勢い良く玄関のドアを開け放つ。  バン! と。|轟砲《ごうほう》のようなドアの開閉音が、無人の住宅街に|木霊《こだま》する。 (うっ……!?)  ドアの中を|覗《のぞ》き込んだ上条は、危うく声をあげる所だった。  闇を流し込んだような建物の中から、生温かい空気がドロリと流れ出してきた。密閉した建物の中にこもった熱気だ。しかも、何かおかしな異臭がする。腐ったザリガニの入った水槽を、水が|濁《にご》るまで放置しておいたような、鼻や目に突き刺さる|匂《にお》いだ。  シュウ、と。闇の奥から、タイヤから空気が抜けるような、妙な音が聞こえてくる。  四角いだけの開け放たれた玄関が、|得休《えたい》の知れない巨大生物の口のように思えた。 「……、」  |流石《さすが》にこの段階になって、土御門は不用意に言葉を交わそうとはしない。無言で歩を進める|土御門《つちみかど》の背中を追うように、|上条《かみじよう》は人工的に作られた|暗闇《くらやみ》の中へと一歩踏み出した。 玄関のドアが、スプリングによって上条の背後で自動的に閉まる。  |野獣《やじゆう》の巣穴の中のような、こもった熱気が上条の全身を包み込む。  カーテンや雨戸によって光を|遮《さえぎ》られた室内だが、その暗闇は|完壁《かんべき》なものではない。遮光性の分厚いカーテンと、窓枠の間のわずかな|隙間《すきま》から光が|漏《も》れている。ガムテープか何かでカーテンと窓枠を|繋《つな》げてしまえば完全な暗闇を作れそうだが、|火野《ひの》はそうしなかったようだ。 (だけど……、)  完企な暗闇ではなく、わずかに光の漏れる薄暗闇だからこそ、余計に|嫌《いや》な想像が入り込む。物の輪郭が見えるからこそ、何でもない傘立てが|樽《うずくま》る人影に見えるし、壁の陰からぬっと人影が出てきたら、|誰彼《だ かれ》構わず|殴《なぐ》りかかってしまうかもしれない。靴箱の上に乗ったタヌキや赤い郵便ポストの置き物が|不気味《ぶきみ》なぐらいの陰影を作っているし、傘立てに差さったままのお|土産《みやげ》の木刀が切断された人間の腕か何かに見える。廊下の床板を|剥《ぽ》がせば腐りかけた死体でも出てきそうだし、そこらの壁。紙でも剥がせば釘を打ち付けられ封鎖された古い木の扉でも見つかりそうな気さえしてくる。  南米の大きな仮面とか小さなモアイの置き物とか、どこかしら宗教色のあるお土産が多い。おそらくは|刀夜《とうや》が海外出張の時に買ってきた物だろう。  玄関を入って右側にガラスドアが一つ、正面には二階への階段、その階段の横にはドアが二つ。一つはカギがついている。トイレのドアだろうか? (|神裂達《かんざきたち》は……?)  上条は頭上を見上げたが、何の物音もしない。もっとも、ここから物音が聞こえるようでは、こっそり忍び込むメリットなど何もないのだが。  土御門が歩き出した。  彼はトイレの方へと向かい、音もなくドアを開けて中を確かめた。そのままドアを閉めた所を見ると、火野はいなかったらしい。土御門がトイレの近くにあるドアを開けた所で、上条も土御門の後を追った。  ドアを開けると、シューッ、という風船から空気が抜けるような音が強くなった。何だか良く分からないが、肌から直接突き刺さるような鋭い匂いも増している。  ドアの向こうは、脱衣所だった。  |洗濯機《せんたくき》や乾燥機、洗而台などのシルエットが見える。横にはすりガラスの引き戸があり、|瓜呂場《ふろば》に|繋《つな》がっている事が予想できた。  土御門はすりガラスのドアをゆっくりと開けて、中を確かめた。  風呂場は湿気を帯びた暗い空間となっていた。湯船に浮かべる物か、ウレタンでできた|亀《かめ》のオモチャが転がっている。風呂場というより、子供でも監禁している地下室のようだった。  土御門は空っぽの浴槽の中を|覗《のぞ》き込んでいる。  |上条《かみじよう》は脱衣所の方に視線を戻した。洗面台の鏡の向こうには、どろりとした|暗闇《くらやみ》が広がっていた。夜の海のようだ。洗面台の上には、ヘアスプレーやT字の|剃刀《かみそり》と並んで、チェスの|駒《こま》や|硝子《ガラス》の切り出し細工の小ビンが置いてある。これも、|刀夜《とうや》の|趣味《しゆみ》で選んだ海外|土産《みやげ》か?  |土御門《つちみかど》が、上条の体を横に押しのけて、脱衣所の先へと向かう。その先は台所のようだ。 (……、待てよ)  上条の体の中を、|嫌《いや》な予感が駆け抜けた。異臭、空気が|漏《も》れるような音、台所、近づくにつれ強くなる|匂《にお》い、鼻に刺すような、台所から流れてくる異臭の正体は……。 「……(土御門っ、戻れ)」  上条は|内緒話《ないしよぱなし》をするように言ったつもりだったが、暗闇の中に声は大きく|響《ひび》いたような気がした。自分でも予想外の声量に、上条の心臓が不自然に跳ね上がる。  対して、土御門は一言も告げない。ただ視線だけで『どうした?』と告げていた。 「……(ガスだ、匂いの元はきっとプロパンガスだ。ガスの元栓を開けてやがる!)」  上条が続けて言うと、土御門もギョッとしたように肩を|震《ふる》わせた。  ひょっとすると、|火野《ひの》は上条|達《たち》の侵入に気づいて、一足先に上条宅から抜け出しているのかもしれない。そうして建物の外から火を放って、上条達を(あるいは、火野は機動隊と勘違いしているかもしれないが)まとめて爆破するつもりかもしれない。上条は台所から遠ざかるように、後ろ向きのまま一歩二歩と後方へ下がった。ここにきて土御門もこの場に|留《とど》まる事が危険だと判、断したのか、後ろへ下がる上条に従うように、一歩足を踏み出して、  ゆらり[#「ゆらり」に傍点]、と[#「と」に傍点]、  土御門の背後[#「土御門の背後」に傍点]———台所の中から[#「台所の中から」に傍点]、音もなく痩せぎすのシルエットが現れた[#「音もなく痩せぎすのシルエットが現れた」に傍点]。 「つ、———ッ!!」  ———ちみかど、と上条が叫ぼうとした時、すでにその人影は|不気味《ぶきみ》な曲線を描く三日月ナイフを、土御門の頭上へ振り上げていた。  |誰《だれ》が、予想できただろうか?  プロパンガスが充満し、建物ごと爆発するかもしれない状況で。ガスの元栓を開けた張本人が、一番危険な台所に隠れていたなどと。  心理的な死角に|潜《もぐ》り込まれた土御門は、背後に迫る死にまだ気づいていない。  音もなく、三円月ナイフは土御門の頭上に落ち——— 「!」  ———る直前、上条は土御門の体を横へ突き飛ばした。脱衣所は狭い。横と言っても、一メートルも進む前に壁に激突してしまう。しかし、真上から振り下ろされる三日月ナイフを|避《さ》けるには十分な距離だった。  刃が|暗闇《くらやみ》を切る音と共に、|土御門《つちみかど》を突き飛ばした|上条《かみじよう》の腕が|灼熱《しゃくねっ》の痛みを発した。  切られた。だが浅い。上条は痛みに構わず前方を|睨《にら》みつける。人影———いや、|火野神作《ひのじんさく》は振り下ろした三日月ナイフをそのまま跳ね上げるように、真下から上条の顔を|狙《ねら》う。  迫り来る銀の刃を前に、上条は辺りにある物を適当に|掴《つか》んで、その|一撃《いちげき》を受け止めようとした。だが、その右手が何かを捌む前に、唐突に悪夢のような考えが脳に|染《し》み込む。  充満レベルには満たないものの、この辺りにはプロパンガスが漂っている。  そんな中で、ナイフの刃を硬い物体で受け止めようものなら、|弾《はじ》けた火花に引火して脱衣所が丸ごと吹き飛ばされてしまう! 「こんの、————サイコ野郎!!」  と、横合いにいた土御門が、今まさに上条の首を突き刺そうとしていた火野のナイフ——正確にはナイフを握る右手を、|蹴《け》り飛ばした。手の中からすっぽ抜けたナイフが|洗濯機《せんたくき》の上へ落ちる。ヒヤリとしたが、火花は散らなかったようだ。  チャンスだ。上条は火野の腹にでもタックルして身動きを封じようとする。  だが、火野は粘液じみた|唾液《だえき》の|浴《あふ》れる口を大きく開いて、 「ぎィ! ギビィ!!」  |獣《けもの》のように、鳴いた。粘つくその口元を見て、上条の体が|一瞬《いつしゆん》、|這《は》い上がってきた|嫌悪感《けんおかん》で凍りつく。その一瞬を見逃さず、火野は上条の横を猛然と走り抜けると、洗濯機の上に落ちていたままのナイフを掴んで脱衣所から玄関の方へと飛び出して行った。 「逃がさん!!」  土御門が叫んで火野の後を追う。上条はそこまできて、ようやく一秒にも満たない|金《かな》。|縛《しば》りから解き放たれた。土御門の後を追うか迷ったが、台所へと飛び込んだ。  台所はガスの臭気が|凄《すさ》まじかった。これなら衣服の静電気一つで爆破を起こすかもしれない。 |食玩《しよくがん》らしき|虎《とら》のオモチャが三つほど乗っかった電子レンジ、木のお|札《ふだ》の形をしたマグネットが|貼《は》ってある冷蔵庫、七色七つのガラス小ビンの置いてあるステンレスのシンクなど、とにかく台所にある|全《すべ》ての金属・電化製品が起爆剤になりそうで、上条は|身震《みぶる》いした。 (とにかく……、とにかく、ガスの元栓を閉めねーと! 自宅で爆死なんてふざけた人生設計はまっぴらだっつーの!)  上条は|薄暗闇《うすくらやみ》の中、アルミの|油除《あぶらよ》けで囲まれたガス台を見つける。おっかなびっくりという感じで裏を|覗《のぞ》き込むと、ガスのホースが外された元栓があった。上条は爆弾の赤いコードで も切断するぐらい慎重な手つきで、ガスの元栓をひねる。  シューッ、という|不気味《ぶきみ》な音は、それで止まった。  爆発も起きない。上条はホッと|安堵《あんど》した。それから、勝手口のドアを大きく開け放つ。炎天下の直射日光が、薄暗闇に慣れた目をまともに焼いた、有害なガスがゆっくりと流れていくのを、肌で感じる。あれだけ体に毒に思えた、うだるような真夏の外気が美味しく感じられた。  その時、  男の太い絶叫と、激しい足音が聞こえた。  |上条《かみじよう》は視線を巡らす。おそらくリビングに|繋《つな》がっているだろう、|薄闇《うすやみ》の向こうから争うような物音が聞こえる。|火野《ひの》と|土御門《つちみかど》だ。二階からもバタバタと足音が聞こえてきた。|神裂《かんざき》やミーシャは、もはや足音を隠す必要はないと判断したのか。  上条は台所を走り、リビングへと飛び込む。  広い部屋だった。部屋の角に大きなテレビがあり、そこから距離を測るように座テーブルが置いてある。床は毛の短い|絨毯《じゆうたん》が敷かれていた。テレビとは反対側の壁には戸棚があり、その横の余ったスペースに型遅れのコンポが置いてある。  土御門と火野は、テレビと座テーブルの問の空間にいた。火野がやたらめったらに振り回すナイフに対し、土御門は『防ぐ』事を考えず、ひたすら『|避《さ》ける』事に|徹《てつ》して|反撃《はんげき》の機会を待っている。ナイフの刃を受け止めるに足る灰皿や鉄の置時計なんかはそこらに置いてあるが、|流石《さすが》に火花を散らして、辺りに漂うプロパンガスに火を放つつもりはないらしい。 (まさか、そんな事まで考えて……)  上条は改めて、火野の|恐《こわ》さを思い知った。常に死と|隣《とな》り合わせのリスクを背負う事で、相手の行動を心理面から|雁字搦《がんじがら》めに|縛《しば》り付ける。こんな戦い方は見た事がない。  これでは、上条には加勢ができるとは思えなかった。下手に武器を持って打ち合えばプロパンガスに引火させる恐れがあるし、火野の人殺しに|手馴《てな》れた変幻自在のナイフさばきを素で避けられるほど運動能力に自信はない。  上条が考えあぐねている事に土御門も気づいたのか、 「カミやん、来るな!!」  大飴戸で叫んだ|瞬間《しゆんかん》、火野の音ゆ識がわずかに上条の方へと|逸《そ》れた。  だが、その一瞬。  あろう事か、動けない上条を囮に使った[#「動けない上条を囮に使った」に傍点]土御門は、火野の注意が逸れた瞬問を|狙《ねら》って大きく踏み込み、火野の|懐《ふところ》へと深く飛び込んだ、 「!?」  絶句した火野が慌ててナイフを振るおうとするが、もう遅い。ほとんどゼロ距離まで踏み込んだ土御門は、腰を回し全体重を込めて腕を振るう。ケンカじみた握り|拳《こぶし》ではなく、|肘《ひじ》を大きく突き出した肘打ちを火野の胸に向けて放つ。全体重を乗せた一撃なら、|肋骨《うつこつ》を砕いて肺に突き刺す事だってできるかもしれない。殺入技としか思えなかった。  火野|神作《じんさく》は、  無防備な胸板に迫り来る、|金槌《かなづら》のような土御門の肘打ちを前に、  信じられない事に、砕けた左手首で土御門の重い一撃を受け止めた。  ぐちゅり[#「ぐちゅり」に傍点]、という腐った果物を噛み潰すような音[#「という腐った果物を噛み潰すような音」に傍点]。  |上条《かみじよう》は思わず両目を硬く|瞑《つむ》っていた。のみならず、反射的に顔を背けると、ぴちゃぴちゃ、と上条の|頬《ほお》に何か生温かい液体が飛び散った。  改めて、|火野神作《ひのじんさく》の神経を疑ってしまう。  あまりの|嫌悪感《けんおかん》に足元が|震《ふる》えた。両手十本の指先にジワジワと|嫌《いや》な感覚が|襲《おそ》いかかる。ぎヒィ! という火野の歓喜の笑い声に、上条は気づいた。これも火野の心理策だ。分かっていても、思わず目を背けたくなるような光景を突きつけて、|土御門《つちみかど》の動きを封じたのだ。  ヒィウン! と、一歩遅れていたはずの三日月ナイフが、空を裂く。  土御門! と上条はおぞましい光景に背けた顔も戻せずに叫んでいたが、  ゴギン!! と。  鳴り|響《ひび》いたのはナイフの|斬撃音《ざんげきおん》ではなく、|肘打《ひじう》ちによる打撃音だった。  あ? と、上条は思わず間抜けな声をあげて、目を開けていた。  土御門は、|怯《ひる》んでなどいなかった。顔を背けず、体も凍らせず、真正面から真正直に目の前の敵を見据え、そして迷わずその顔面をハンマーのような肘で|殴《なぐ》り飛ばしたのだ。 「だから[#「だから」に傍点]?」  あまつさえ、土御門は言った、  笑っていた。狂った訳でも|壊《こわ》れた訳でも終わった訳でもなく。ただ、通常のように|普段《ムだん》みたいに普通の通りに、いつもの笑みを浮かべて[#「いつもの笑みを浮かべて」に傍点]子供のように尋ねていた。  響いて、いなかった。  まったくにして、ちっともさっぱり響いていなかった。  壮絶な肘打ちを受けた火野の体は、金属バットでフルスイングしたように吹っ飛ばされた。ノーバウンドでニメートルも飛んだ。ボロボロになった火野の体は、ごろごろと床を転がると戸棚にぶつかって、ようやく停止した。 「さぁって、聞きたい事を手っ取り早く尋ねるとしますかにゃー」  |獰猛《どうもう》に犬歯を|剥《む》いて笑う土御門。  青いサングラスを通した向こうに、|獣《けもの》のように輝く|瞳《ひとみ》があった。  火野は、意識はあるようだが反撃できる状態でもないらしい。バランス感覚を失い、かろうじて動く手足をびくびくと動かすその姿は、死にかけの昆虫のように見えた。  あまりの出来事を前に、上条の思考はほとんど|停《と》まりかけていた。  そこに、ようやく|神裂《かんざき》とミーシャが二階から一階へと下りて来た。 「無事ですか、土御門!」と、神裂はそこにきて顔をしかめ、「……何ですか、この異臭は?」  あ、と|上条《かみじよりつ》は放心しかけた頭を動かした、プロパンガスは空気より重いので、二階にいた|神 裂《かんざき》やミーシャには分からなかったんだろう。  ミーシャは|火野《ひの》の顔を見るなり腰のベルトからL字の|釘抜き《バール》を引き抜こうとしたが、その前に|土御門《つちみかど》がミーシャの手を|掴《つか》んだ。|釘抜き《バール》など振り回されて、火花でも散ったら一大事だ。  上条がガスの事を告げると、神裂はわずかに身を|強張《こわば》らせ、 「火野|神作《じんさく》の尋問は我々が行います。あなたは至急、窓を開けて換気を行ってもらえませんか?」  一見、神裂の言い分は間違っていないような気もするが、上条はそれでも聞いた。 「おい。それなら家の外に連れ出した方が安全じゃねーの?」 「必要な情報を聞き出すまで、尋問はこの場で行います。ここまできて火野を取り逃がす機会は作りたくないのです」  そうか、と上条は|納得《なつとく》しないまま、とりあえず|頷《うなず》いた。  それなら、できるだけ早く家の中からガスを抜いてしまった方が良い。|自棄《やけ》になった火野が自爆でも図ったら大変な事になる。上条は一階の要所要所を回って、窓や玄関を開放していった。そこらじゅうに|刀夜《とうや》が集めたらしい、海外からの民族性のあるお|土産《みやげ》が|浴《あふ》れていた。上条はその|趣味《しゆみ》の悪さに正直|呆《あき》れ返ったが、今はそんな物を気にしている余裕もない。  |全《すべ》ての窓を開けられるだけ開けると、上条はリビングへと引き返した、雨戸やカーテンも取っ払ったので、そこはもう|薄暗闇《うすくらやみ》の|魔境《まきよう》ではない。どこにでもあるような、当たり前のリビングだった。 「……、分からねえよ」  リビングに戻ってくると、ぐったりと戸棚に寄りかかったままの火野がそう言った。 「何だよ、それ、何ですか、えんぜるふおーるって、知らないよ、エンゼルさま、コイツらナニ言ってんですか、分かんないよ、答えてください、おかしいよ、おかしいんだ、何でこんな事になってるんだ」  ぶつぶつ、と。ぶつぶつぶつぶつ、と。まるで熱によって伸びてしまった古いテープを再生しているかのように、火野神作は小さな声で延々と|呟《つぶや》いていた。独り言のようにも聞こえるし、尋問する魔術師|達《たち》の気を引こうとしているようにも聞こえた。  土御門はニヤニヤと、ニタニタと愉快げに笑いながら、 「さて、『審問』でも開始すっか。一応、降参する場合は『|御使堕し《エンゼルフオール》」の『|儀式場《ぎしきじよう》』を吐くと、覚えておくぜよ。そんじゃ何から始めるか。とりあえず|肘《ひじ》の関節でも外すか。関節の外れた腕は思いの|外《ほか》よく伸びるモンだけど、まずは一センチずつ伸ばしてくかにゃん?」  楽しげな口調が逆に背筋を凍らせる土御門の|隣《となり》では、右手に|ネジ回し《ドライバー》左手にノコギリを持ったミーシャが無言で立っている。本来、日曜大工に使うはずの道具は、時と場所が変わるだけで心臓を凍りつかせるほど凶悪な武器へと姿を変化させるのだ。  しかし、それでも|火野《ひの》の態度は変わらない。  力を失い、投げ出したままの手足も動かさず、ぶつぶつと口の中で|呟《つぶや》き続ける。 「しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない、しらない」  メリハリのない、|平坦《へいたん》すぎる声に|上条《かみじよう》は|悪寒《おかん》じみたものが背筋を駆け抜けるのが分かった。  投げ出されたままの火野の手の人差し指が、イモ虫みたいにびくびくと動いた。  指はひとりでに動く。まるで腕の筋肉に電極を突き刺しているかのように。毛の短い|絨毯《じゆうたん》の上に、何か文字を書いているようだったが、インクも何もないので文字は写らない。  それでも、火野は何かに満足したような目で、指が走った絨毯を見た。 「ああ、エンゼルさま、エンゼルさま……」  |唾液《だえき》の|溢《あふ》れる口からこぼれる、|不気味《ぶきみ》な|呪文《じゆもん》。  上条は思わず疑問を声に出していた。 「えんぜるさま?」 「そうだ、エンゼルさま、いつも私の心の中にいる、エンゼルさま、私が望めば何でも答えてくれる、エンゼルさま、それに聞違いはない、エンゼルさま、ずっとずっと従っていればきっと私は幸せになれる」  言っている|側《そば》から、火野の手は|痙攣《けいれん》したようにビクビクと|蠢《うごめ》いている。|神裂《かんざき》は火野の手の動きに警戒心を抱いているようだった。 「そう、エンゼルさま、いつも正しい、エンゼルさま、だからガスの元栓も開けた、エンぜルさま、救急車を利用すれば、エンゼルさま、どさくさに|紛《まぎ》れて逃げられるって言ったから」  上条は、火野|神作《じんさく》の腹を見た。自らナイフで傷をつけた文字で、『CALL AN AMBULANCE』と刻まれている。 「……、直訳すれば『救急車を呼べ』って感じかにゃー?」  上条の視線の先を目で追いかけていたらしい|土御門《つちみかど》が、そんな事を言った。  そうか、と上条は思った。本来なら、ここに突入してくるのは上条|達《たち》ではなく機動隊だったはずだ。それも、完全防護のヘルメットに装甲服を着込んだ機動隊だ。  火野神作はバスルームかどこか、構造的に頑丈な場所に|避難《ひなん》しておく。そして機動隊が突入した所でガスに着火して爆破する。その後で倒れた機動隊の装備を奪い、負傷者を装って救急車にでも乗れば、すんなり包囲網を突破できる……かもしれない。  望めば知りたい答えを何でも教えてくれる『エンゼルさま』。だが、上条はそれに違和感を覚えていた。  火野は、自分の指を折ってしまうような強さで床に文字を書こうとする。  そんな彼を警戒する神裂が鋭い声で言う。 「手を止めなさい、火野神作。これは警告ではなく|威嚇《いかく》です。従わねば刀を抜きます」  |神裂《かんざき》の声は刃のように冷たかったが、|火野《ひの》の手は止まらない。  がりがり、と。がりがりがりがりと床に文字が刻まれていく。 「ひっ、ぃひっ。止ま、止まらないんだ。エンぜルさまは止められないんだ」  火野自身は、神裂の刃の声に|脅《おび》えているらしい。  泣いているような笑っているような顔で、しかし右手だけが別の生き物のように動いている。 (……、?)  上条は、ふとこの状況に違和感を覚えた。  何かどこかで見たような……いや、人づてに聞いた事があるような、そんな光景だった。  違う、補習だ。  夏休みの補習で、|小萌《こもえ》先生が何かを言っていたはずだ。  確か、一つの体で二つの能力を使えるかどうかの研究が、—————。 「———そうだ、二重人格だ」  精神を一つのネットワークとした場合、耐えられない思い出を封じたりするためにネットワークの一部を封鎖する事を統合失調症、さらに封鎖されたネットワークが独立して動いてしまう事を|乖離性同一障害《かいりせいどういつしようがい》———つまり二重人格と呼ぶ。  テレビの中で言っていたはずだ。  |火野神作《ひのじんさく》は、前の事件で二重人格と診断され、責任能力があるかどうかで議論されたと。  二重人格はマンガや映画のように、人格Aと人格Bが完全に『切り替わる』とは限らない。場合によっては二つの人格が『混線』する場合もある。  例えば、鏡の中の自分がしゃべる、と|怯《おび》えていた二重人格の患者の話がある。医者が調べてみると、実はその患者が鏡に向かって自分で自分に話しかけているだけだった。人格Aは、自分の口を人格Bが操っている事に気づいていなかったのだ。  |火野《ひの》の右手も、そういったものではないか?  火野|神作《じんさく》は二重人格で、右手はもう一つの人格が動かしているのだとしたら。 「なあ、『|御使堕し《エンゼルフオール》』の副作用ってのは、『中身』と「外見』が『入れ替わる』んだったよな」 |上条《かみじよう》は、|神裂《かんざき》に向かって話しかけた。「じゃあ、二重人格の場合はどうなるんだ? 一つの『外身』の中に『中身』が二つあるってカウントされるのか?」  え? と神裂は上条の顔を見た。  だからさ、と上条は神裂の目を見て即答。 「火野神作の体の中で、『|人格《なかみ》A』と『|人格《なかみ》B』が『入れ替わってる』って可能性は?」  なっ……、と。その場にいる全員が凍りついた。 「火野神作って『外見』の中で、二つの人格が入れ替わっているんだとすれば、火野を外から見たって変化はないだろ」  上条は、次の言葉を選ぶ。 「だとするなら、火野神作も『|御使堕し《エンゼルフオール》』に巻き込まれただけで、犯人とは関係ないって事になるんだけど」  絶句。  |魔術師達《まじゆつしたち》は、凍りついたように上条の言葉を聞き入っている。 「それで、どうなんだ? 二重人格者は『二つの中身がある』ってカウントして良いのか? それとも『二重人格という一つの中身がある』ってカウントされるのか?」 「……、」  神裂は答えられないまま、|土御門《つちみかど》やミーシャの顔を見た。答えはない。『|御使堕し《エンゼルフオール》』が起きた後、二重人格者なんて珍しい人間には会った事がないから分からないんだろう。  と、始めに櫛寂を破ったのは、なんと火野神作だった。 「ふざ、ふざふざふざふざふざけるなよ! おま、お前もアレか、あの妙チクリンな医者とおんなじ事を言うのか! エンゼルさまはいるんだ! エンゼルさまは本当にいるんだ! 何でそれが分からないんだ!」  火野にしてみれば、エンゼルさまの存在を否定されるのは命を奪われる事より|辛《つら》いんだろう。何せ、火野はエンゼルさまのためなら、人を殺す事さえためらわなかったのだから。  しかし、その|台詞《せりふ》は何の弁明にもならなかった。  むしろ、|神裂達《かんざきたち》により強く疑いの目を向けさせるだけだった。 「医者に……。医者に、言われたのですか? あなたのエンゼルさまは、ただの二重人格だと? そういう診断を受けたのですか?」 「ひっ!」|火野《ひの》は、その言葉にビクリと|震《ふる》え、「やめ、やめろ、そんな目で見るな。あの医者は何も分かっていないんだ。何にも分かっていないだけなんだ!」  子供のように震える火野に、|上条《かみじよう》は思わず目を|逸《そ》らした。  相手が殺人犯とは言っても、やっぱりどこかに罪悪感の|棘《とげ》が突き刺さった。 「決まり、だな」上条は重たいため息をついて、「火野|神作《じんさく》は二重人格だった。コイツが見た目『入れ替わって』いないように見えるのは、単に火野神作の『外見』の中で、『人格A』と『人格B』が『入れ替わって』いるだけだった」  つまり、と上条は苦々しい声で、 「————火野神作は[#「火野神作は」に傍点]、『御使堕し[#「御使堕し」に傍点]』の犯人じゃない[#「の犯人じゃない」に傍点]」      7  全員が、その場で固まってしまった。  完全にとばっちりを受けた火野神作は、激痛のためか信じていた『エンゼルさま』が|偽物《にせもの》だった事にショックを受けたのか、気絶していた。  これで、『|御使堕し《エンゼルフオール》』の犯人を追う手がかりは完全に失われてしまった。|無駄《むだ》に使ってしまった時間も多い。何から手をつければ良いのか分からないし、手当たり次第に動いていられるほど時間に余裕があるかも分からない。 「それで、火野が『|御使堕し《エンゼルフオール》』の犯人じゃないならば、一体|誰《だれ》が犯人なんです?」 「そんな事言われたって……」  上条は言葉がなかった。完全に手詰まりだった。どこからどう動いて良いかも分からず、上条達はその場で|呆然《ぽうぜん》と立ち尽くしているしか道はなかった。  はずだった[#「はずだった」に傍点]。 「あれ?」  神裂の視線に負けて日線を逸らしていた上条は、ふと視界の中に何か違和感のようなものを感じ取った。しかし、それが何なのかは分からない。  上条は視線の先———火野が寄りかかっている戸棚へと近づいた。  戸棚の中は雑多な物で|溢《あふ》れていた。海外に出張する事が多いらしい、|刀夜《とりつや》がそこらじゅうで集めてきたお|土産《みやげ》をそのまま放り込んである感じがする。  そんな中で、|唯一《ゆいいつ》お土産とは種類の違う物が入っていた。写真立てだ。|記憶《きおく》のない上条には分からないが、|上条《かみじよう》は幼稚園の卒園と共に学園都市へと移ったらしい。なので、そこに写っているのは、幼い上条と、若かりし|頃《ころ》の両親———のはずだった。 「これは……、」  人々の『人れ替わり』は肉体だけでなく、写真の中にも及ぶ。青髪ピアスがインデックスの修道服を違和感なく着こなしていたのも、そういう理屈があるんだろう。服や靴のサイズ、措紋や血液などの情報、写真やビデオの映像まで、その人に関する常柄『|全《すべ》て』が入れ替わるのだ。  写真立ての中の思い出も、『|御使堕し《エンゼルフオール》』によって|歪《ゆが》められていた。|幻想殺し《イマジンブレイカー》の効果によって難を逃れた上条は幼い姿のまま写っているが、母親として写っているのはインデックスだし、父親として写っているのは————。  ————父親として、写っているのは。 「……、待て」  上条は思わず|呟《つぶや》いた。上条の視線を|辿《たど》った|魔術師達《まじゆつしたち》も、やがて一つの事実に気づく。  刀夜は[#「刀夜は」に傍点]?  上条刀夜は[#「上条刀夜は」に傍点]、何故[#「何故」に傍点]『入れ替わって[#「入れ変わって」に傍点]』いない[#「いない」に傍点]?  ほんの少し前に交わしてきた言葉が、はるか遠くのもののように聞こえてきた。  ———たった「人だけ難を逃れた者がいました。  ———さて、その少年が怪しいと思うのはおかしいですか?  一つの違和感は、次々と上条の|記憶《きおく》の中から別の違和感を掘り起こしていく。  ———カミやんを中心点にして世界中に広まっているらしいんだぜい。  ———それでいて、中心に立つカミやんだけは|何故《なぜ》か無傷ときたもんだ。  数々の違和感は、やがて一つの方向性を伴って疑問となる。  ———これでもオレや|神裂《かんざき》は運が良いんだよ。、  ———『距離』と『結界』。二つがあって初めて難を逃れられる。  そうだ、と上条は思う、。魔術師でさえ、そっちの業界のプロである魔術師でさえ、そのほとんどが『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|影響《えいきよう》に|呑《の》み込まれたというならば。 「ま、さか……父さん」  上条のほから思わずこぼれた一言に、紳裂は|眉《まゆ》をひそめた。 「何ですって? まさか、あの人は『入れ替わって』いない、本物だったというのですか?」  逆に上条はその質問を飛ばした神裂の意図が読めなかった。  だが、冷静に考えれば無理もない。『|御使堕し《エンゼルフオール》』が写真や記録までも入れ替えてしまう以上、それが起きた後に『人物A』の資料を集めた所で、あらゆるデータは全て『別人B』に入れ替わった後のモノしか集まらない。『|上条刀夜《かみじようとうや》』が素の表情でデータ上に出てきても、すでに入れ替わった後の『別人』だと判断してしまうのも妥当と言えば妥当だろう。  と、上条の|隣《となり》に立っていたミーシャは冷たく息を吐いて、 「解答一、自己解答。標的を特定完了、残るは解の証明のみ。……私見一、とてもつまらない解だった」  言うや|否《いな》や、彼女は開いた窓から庭へと飛び出し、どこかへと走り去ってしまった。 「待ちなさい、ミーシャ=クロイツェフ! 標的とはどういう意味ですか!」  |神裂《かんざき》が慌てたように叫んだが、すでにそこには|誰《だれ》もいない。  標的。  上条刀夜の写真を見て、出てきた言葉が。 「……、|土御門《つちみかど》」上条は、深呼吸して、「この『|御使堕し《エンゼルフオール》』の中で、|俺《おれ》みたいにまともな人間ってのは、そんなに珍しいのか?」 「ていうか、カミやんしかいないはず」土御門は青いサングラス越しに写真を睨みながら、 「例えばオレみたいに陣を張っても、ねーちんみたく|聖《セント》ジョージ大聖堂やモン=サン=ミシェル修道院の最深部に|潜《ひそ》んでいても、完全に『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|影響下《えいきようか》から逃れる事はできないにゃー。例えばオレが土御門|元春《もとほる》だって自覚はあっても、『|一一一《ひとついはじめ》』って肩書きに|呑《の》み込まれたようにな」  そう、だからこそ、上条|当麻《とうま》は「|御使堕し《エンゼルフオール》』実行犯と間違われた。  世界中の|誰《だれ》もが影響を受けていなければならないはずの『|御使堕し《エンゼルフオール》』、その|大魔術《だいまじゆつ》に全く何の影響も受けていない、たった一人の異常だったのだから。  つまり、それが答え。 『御使堕し[#「御使堕し」に傍点]』に全く影響を受けていない人間が[#「に全く影響を受けていない人間が」に傍点]、犯人だと言うならば[#「犯人だと言うならば」に傍点]。  上条は、もう一度戸棚の中の写真立てを見る。睨みつけるように。  その写真に写るのは、三人の親子。  上条|詩菜《しいな》がインデックスに『入れ替わって』しまったのは分かる。  上条当麻が|幻想殺し《イマジンブレイカー》のおかげで『入れ替わって』いないのも、分かる。  けれど。  上条刀夜は[#「上条刀夜は」に傍点]、入れ替わっていない[#「入れ替わっていない」に傍点]。  そして、上条のような|幻想殺し《イマジンブレイカー》を持っている訳でもない。世界中のあらゆる人間が『|御使堕し《エンゼルフオール》』の影響に呑まれていないとおかしいと言うならば、そしてこれが人為的な『術』で、コンピュータウィルスと同じく、放った本人だけは無傷だと言うならば。 「ちくしょう……、」  上条当麻は、認めたくなかった。  それでも、もう可能性はそれだけしかなかった。 「ちくしょう!!」  犯人は、|上条刀夜《かみじようとうや》だった。  そう思い至ってしまった自分が、上条|当麻《とうま》は憎たらしくて仕方がなかった。      8 『|御使堕し《エンゼルフオール》」は結界や|魔法陣《まほうじん》を必要とする、とても大きな規模の魔術らしい。  ならば、その魔法陣を|破壊《はかい》してしまえば『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止める事ができるらしい。 「……、戻れ。カミやん」  なのに、|土御門《つちみかど》は|儀式場《ぎしきじよう》があるかもしれない家の中を探そうともせず、いきなりそう言った。「ここはオレが調べとく。カミやんとねーちんは刀夜さんの保護を」 『保護』という言葉に、上条は|眉《まゆ》をひそめた。  コイツらはイギリス清教の人間だ。今までは共に『|御使堕し《エンゼルフオール》の犯人を止める』という口的の元に協力してきたが、自分の身内である刀夜が犯人と分かってなお上条に協力するのは何でだろ?  と、土御門は上条の顔を見て苦笑すると、 「なめてくれるなよ、カミやん。オレ|達《たち》の目的は『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止める事ぜよ。殺さずに解決できるならそれに越した事はないにゃー」一転、土御門は吐き捨てるように、「ミーシャの野郎は早計すぎるんだよ。何でも殺せば済むって訳じゃあるまいし」  殺せば済む。  その言葉に、土条はゾッと背筋を凍らせた。  ミーシャは犯人を追い詰める事に何のためらいも見せなかった。|火野神作《ひのじんさく》の腕を折り、疑いのある上条には|容赦《ようしや》なくノコギリを首に押し当てた。  上条刀夜にも[#「上条刀夜にも」に傍点]、あれをやるのか[#「あれをやるのか」に傍点]?  刀夜が一体どういう理屈で「|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こしたのかは知らないけど、  上条当麻の父親に向かって、容赦なくカナヅチや釘抜きを振り下ろすっていうのか。 「ちくしよう、ふざけやがって……」  彼女はためらわない。  ミーシャ=クロイツェフは最初から、そのためにやってきたのだから。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』の犯人を殺す事で、問題を解決しようとしていたのだから。 「……ふざけやがって、ちくしょう!!」  上条は、絶叫する。  怒りをぶつけるべき相手は、すでにここにはいなかった。 [#改ページ]    第三章 有害世界のエンゼルフォール      1  帰りのタクシーの中、|上条《かみじよう》と|神裂《かんざき》は無言だった。  上条はミーシャの事を考えた。車と徒歩なら、言うまでもない。上条|達《たち》はミーシャよりも速く海の家に戻る事ができるはずだ。だが、ミーシャが途中で車でも拾うかもしれない。 「……、」  上条は、疲れたように目を閉じた。  閉じた|瞼《まぶた》の裏には、『入れ替わり』によって|歪《ゆが》められた写真立てが浮かぶ。  おそらく、あの写真一枚だけではないだろう。どこかに大切にしまってあるアルバムにしたってそうだし、それは世界中の人々のアルバムにしたって同じ事だ。  あるいは小学校の運動会で圃した古い色あせた八ミリフィルム、  あるいは赤ちゃんの写真がプリントされた一枚の年賀状、  あるいは小さな画面に収まろうと体を寄せ合う恋人との携帯電話のカメラを使った写真。  それはきっと、その入達にとって一番大切な思い出だ。  決して汚してはいけない、歪めてはいけない思い出のはずなのに。 (何で……あ。のクソ|親父《おやじ》)  上条は長いため息をついた。  ため息の音すら、上条の精神を圧迫してくるような気がした。  上条達が海の家『わだつみ』へ帰ってきた時、辺りは夕暮れのオレンジに包まれていた。  それがまるで鮮血や火炎。の色に見えて、上条は|身震《みぶる》いした。  ミーシャは……、まだ、|辿《たど》り着いていないのだろうか?  |刀夜《とうや》が犯人である以上、その命を|狙《ねら》う者は必ず現れる。  それも|悪魔《あくま》の手先ではなく、正義の味方として。  それでも、上条は刀夜の身を案じて海の家へと飛び込んだ。善とか悪とか、正義とか悪性とか、そんなものなど二の次だった。ただ、自分の父親が心配だった。そう思う事が『悪』になってしまう今の状況が、この上なく憎らしかった。 「あれー? おにーちゃんどこ行ってたの?」  と、海の家に入ると、扇風機の前に寝そべって棒アイスを|舐《な》めながらテレビを見ていた|美琴《みこと》が話しかけてきた。良かった、と|上条《かみじよう》は思う。少なくても真相に気づいたミーシャが|誰《だれ》かを人質に取る、というような行動には出ていないらしい。  |美琴《みこと》は特に起き上がる事もなく、寝そべったまま|頬《ほお》を|膨《ふく》らまして、 「いきなりいなくなるからみんな心配したんだよ? もう海で遊ぶの中止にして捜索しまくったんだから。出かけるなら出かけるって誰かに言うなりメモ残しとくとかしなさ———」 「父さんは? どこにいる」  突然、言葉を|遮《さえがぎ》られた美琴は|驚《おどろ》いて目を丸くした。上条は、今の自分がどんな顔をしているのかも分からない。ただ、自分で出した声が、ひどく泣きそうなものに聞こえた。 「浜辺、じゃないかな? 詳しい場所なんて知らないわよ、みんな散り散りになっておにーちゃんの事捜し回ってるんだから。あ、私はサボってんじゃなくて連絡係だからね。ホント、後でみんなに謝った方がいいよ」  ああ、と上条は|頷《うなず》いた。  これから、上条は自分の父親を追い詰める。その事は、謝った方が良い。  上条が浜辺へ視線を向けようとすると、|隣《となり》を歩いていた|神裂《かんざき》が口を開いた。 「後は、私の仕事です。あなたはここで待っていてください」神裂は慎重な声で、「私は|刀夜《とうや》氏の身柄を確保します。だから」 「お断りだ」  上条は、一言で否定した。  まるで|氷雨《ひさめ》の中に立ち尽くしたような声だった。 「コイツは、俺が決着を着ける。俺が着けなくちゃ、いけない問題なんだ」 「しかし、———」  神裂は、戸惑ったように言った。おそらく、それは彼女の優しさだろう。身近な人と、顔を突き合せて対立させたくないという、優しさだ。  けれど、それが余計に上条の気を逆立てた。 「しかし、じゃねえよ! 何様なんだテメェは! 上条刀夜は俺の父さんなんだ! 父さんなんだよ! 世界にたった一人しかいない、|他《ほか》の誰にも代わりはできない、たった一人の父さんなんだ!!」  突然の叫び声に、美琴はビクリと肩を|震《ふる》わせて上条を見た。  神裂は、何も、言えなかった。 「だから……、」  上条|当麻《とうま》は一人、告げる。  どうしていいのかも分からず、答えなど見つからず、それでも。 「だから、決着は俺が着ける、お前|達《たち》なんかに|邪魔《じやま》はさせない。お前達なんかに、傷っけさせない、父さんは、俺の父さんは———」  それでも、言った。  ボロボロのままに、言った。 「————|上条刀夜《かみじようとうや》は、|俺《おれ》が救ってみせるんだ」      2  上条刀夜は、夕暮れに染まる浜辺を歩いていた。  その顔には疲れが見えている。体中も汗びっしょりだった。きっと突然消えた上条を捜すためにそこらじゅうを走り回ったんだろう。くたくたになりながらも、それでも足を止める事を許さずに、刀夜は疲労のたまった足を引きずるように浜辺を歩いていた。  それは|魔術師《まじゆつし》なんかに見えなかった。  |戦闘《せんとう》のプロにも見えなかった。 「……父さん」  上条は、呼びかける。  心底疲れ切ったような刀夜の顔は、振り返った|瞬問《しゆんかん》に安心したような、|嬉《うれ》しそうな、そんな表情に変わっていた。  それは、ただの一般人の顔だった。  迷子になった子供をやっと見つける事ができた、父親の顔でしかなかった。 「|当麻《とうま》!!」  上条刀夜は、たっぷり五秒もかけてから、ようやく怒りの表情を作った。 「今までどこに行っていたんだ! 出かけるなら出かけると私|達《たち》に言わないか! 母さんだって心配しているんだぞ、大体お前は夏バテだから海の家で休んでいると言っていたじゃないか。もう|大丈夫《だいじようぶ》なのか、どこか痛んだり吐き気がしたりはしてないだろうな?」  しかし、怒りの言葉など一秒も待たない内に上条を|労《いた》わる言葉へと変わっていく。  当たり前だ。  刀夜は、上条の事が嫌いだから怒っている訳ではない。  父親は、子供の事が心配だったから怒っているのだから。  上条は、奥歯を|噛《か》み締めた。  できる事なら、刀夜を尋問するような|真似《まね》をしたくなかった。『|御使堕し《エンゼルフオール》』を起こした犯人はお前だろうと、問い|質《ただ》したくなかった。何もかもなかった事にして、このまま海の家へと戻って、これまで通りに愉快に楽しく接していたかった。  だけど、それはできない。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』の事件を解決しなければならない。  たとえ刀夜と敵対する事になっても。その結果、刀夜の願いを妨げてしまい、実の父親に恨まれる事になっても。、これから先、もう二度と家族らしい会話ができなくなっても。  決めたのだから。  |上条刀夜《かみじようとうや》を助けると、決めたのだから。  刀夜が何を望んでいるかなんて知らない、それでも上条は自分の父親には血生臭い|魔術《まじゆつ》世界になんて|関《かか》わって欲しくなかった。上条は、本物の魔術師を知っている。その|恐《こわ》さも知っている。ミーシャに始まり、様々な魔術師が刀夜の命をつけ狙うなど考えたくもなかった。  だからこそ、ミーシャがやってくる前に終わらせなければ。 「|御使墜し《エンゼルフオール》』を終わらせなければ。 「……、何で、だよ?」  だから、上条は言った。  その声が。|震《ふる》えないように、ボロボロに泣き出さないように、気をつけながら。、  刀夜は、そんな上条の様子に|眉《まゆ》をひそめていたが、 「何で、アンタが|非日常《こつち》にいるんだよ。アンタは|日常《そつち》の人間だろうが。つまんねえオカルトになんざはまりやがって、一体何やってんだよ、クソ|親父《おやじ》」  上条の言葉に、刀夜の笑顔が停止した。 「なにを、いっているんだ、|当麻《とうま》。それより————」 「シラ切ってんじゃねえ! どうして魔法使いの|真似事《まねごと》なんかしたんだって言ってんだ!」  糸が切れたように、刀夜の表情が消えた。  それは魔術師として身の危険を感じた表情ではない。実の息子にやましい所を見られた父親のような、そんな表情だった。 「……、答える前に、一つだけ聞かせてくれ。当麻、お前がどこに行っていたかは問わない。それで、体は|大丈夫《だいじようぶ》なのか? どこか、痛む所とかはないのか」  空と海、二重の夕暮れの中、燃えるようなオレンジ色の世界で刀夜は問う。  この場において、あまりに不釣合いな言葉に、上条は面食らっていた。  彼は、この|期《ご》に及んで|未《ま》だ上条の身を心配しているようだった。  まるで、父親のように。 「その様子なら、問題はなさそうだな」  上条刀夜は、わずかに|安堵《あんど》の息を吐く。 「さて、と。何から話そうか」  上条は|黙《だま》っていた。  かける言葉など見つからない。見つかるはずがない。それでも、上条は視線を外さなかった。たった一度も、自分の父親から視線を外さなかった。  刀夜の顔は、電池の切れたオモチャのように表情がなかった。  上条には、目の前の男がいきなり一〇年も|歳《とし》を取ったように、見えた。 「あんな方法で願いを|叶《かな》えようとは……|馬鹿《ばか》な事だとは、私自身も思っていたのだがな」  やがて、|刀夜《とうや》は言った。 「なあ、|当麻《とうま》。お前は幼稚園を卒園するとすぐに学園都市に送られてしまったから覚えていないかもしれないが」刀夜は、何かを思い出すように、「お前がこちらにいた|頃《ころ》。周りの人|達《たち》からお前がなんと呼ばれていたか、覚えているかい?」 「……、?」  |上条《かみじよう》は|眉《まゆ》をひそめた。  元より|記憶喪失《きおくそうしつ》の上条には、今年の七月の事さえ思い出す事はできない。  刀夜は、本当に、|喉《のど》まででかかった何かを一度|呑《の》み込み、そしてもう一度、 「|疫病神《やくびようがみ》、さ」  刀夜は、己の舌でも|噛《か》み切るような表情で、そう言った。  実の息子に、その言葉を告げなければならなかった事を、死ぬほど後悔するような表情で。 「分かるかい、当麻。お前は確かに生まれ持ち『不幸』な人間だった。だからそんな呼び方をされたんだろう。だが分かるかい、当麻。それは何も子供達の悪意ないイタズラだけではなかったんだ」刀夜は、歯を食いしばり、「大の大人までもが、そんな名でお前を呼んだんだ。理由などない。原因などない。お前は、ただ『不幸』だからというだけで、そんな名前で呼ばれていたんだ」  上条は、息を呑んだ。  刀夜から、表情が消える。  何が楽しいのでもなく。何が|嬉《うれ》しいのでもなく。ただ、何もない。 「当麻が|側《そば》にやってくると周りまで『不幸』になる。そんな俗話を信じて、子供達はお前の顔を見るだけで石を投げた。大人達もそれを止めなかった。当麻の体にできた傷を見ても、|哀《かな》しむどころか逆に|嘲笑《あざわら》った。何でもっとひどい傷を負わせないのかと、|急《せ》き立てるように」  上条には、無表情に言葉を|紡《つむ》ぐ刀夜の感情が読めない。  きっと、それが刀夜の|狙《ねら》いだろう。その仮面の裏に隠れる、押し殺す事もできないほどの渦を巻く激情。それだけは、決して我が子に見せたくないという、気持ちの表れだと思う。 「当麻が側から離れると、『不幸』もあっちに行く。そんな俗話を信じて、子供達はお前を遠ざけた。その話は大人までもが信じた。覚えているかい、当麻。お前は一度、借金を抱えた男に追い掛け回されて包丁で刺された事もある。話を聞きつけたテレビ局の人間が、|霊能《れいのう》番組とかこつけて、|誰《だれ》の許可も取らずにお前の顔をカメラに映して化け物のように取り扱った事もあるんだぞ」  オレンジ色に染まる世界は、地獄で燃える炎に似ていた。  炎の中で、一人の男はただ凍えるような無表情でいる事しかできなかった。 「私がお前を学園都市へ送ったのもそれが理由だ。|恐《こわ》かったんだよ。『幸運』だの『不幸』だのが、じゃない。そんなものを信じる人間が、さも当然のようにお前に暴力を振るう現実が」|刀夜《とうや》は、顔色一つ変えず|働実《どうこく》して、「恐かったんだ。あの迷信が、いつか本当に|当麻《とうま》を殺してしまいそうで。だからこそ、そんな迷信のない世界にお前を送りたかった」  だからこそ、刀夜は家族の|絆《きずな》さえ断ち切った。  たとえ家族が|一緒《いつしよ》にいられなくても、それでも|我《わ》が子を守りたかったから。 「しかし、あの科学の最先端でさえ、お前はやはり『不幸な人聞』として扱われてきた。お前から届いた手紙を読むだけで分かったよ、以前のような陰湿な暴力はなかったようだが」刀夜は笑みを浮かべたまま、「私はそれでは満足できなかった。お前の『不幸』そのものを打ち殺したかった。だが、常識的にも、科学の最先端手法を用いても、それは|叶《かな》わぬ願いだった」  それでも、たとえ叶わぬ願いと分かっていても。  |上条《かみじよへつ》刀夜は、決して|諦《あきら》めたくはなかったから。 「残された道は一つしかない。私はオカルトに手を染める事にした」  上条刀夜は、そこで言葉を断ち切った。  |上条《かみじよう》は、考える。|刀夜《とうや》は上条の『不幸』を打ち消すために『|御使堕し《エンゼルフオール》』を行ったという。しかし、天使など呼び串して刀夜は何がしたかったんだろう? まさか|馬鹿《ばか》正直に、神様にお祈りが届くように|直談判《じかだんぽん》でもしたかったのか。これだけ多くの人を巻き込んで、世界中の人々の『中身』と『外見』の『入れ替え』までして、そんな事が……。  と、そこまで思った所で、上条は気づいた。 『中身』が『入れ替わる』。つまり、上条|当麻《とうま》の『不幸な人間』という肩書きが、|誰《だれ》かと入れ替わるのだ。確かに、それなら上条の背負っているものはなくなるはずだ。  天使がどうの、などはどうでも良かった。  上条刀夜が求めたのは、『中身』を『入れ替える』という事の方だったのだ。 「……、馬鹿野郎」  しかし、それは|諸刃《もろは》の|剣《つるぎ》だ。  何せ、『上条当麻』という『存在』が|他《ほか》の誰かに入れ替わるのだ。自分の子供は二度と刀夜を父親だと思う事はなくなる。そればかりか、顔も見た事のない赤の他人が『上条当麻』になってしまう。自分の息子として自分の家庭に土足で踏み込んでくる事になる。  それでも、上条刀夜は我が子を守りたかった。  たとえ、世界中の人間を巻き込んででも。  たとえ、自分の子供が、もう二度と自分の事を父親と呼ぶ事がなくなっても。  たとえ、もう二度と家族が|揃《そろ》って笑い合う事ができなくなっても。  それでも、上条刀夜は守りたかった。  たとえ罪人となってでも、自分の息子を見えない『不幸』から守りたかった。 「ばっかやろうが!!」  だからこそ、耐え切れずに上条は吼えた。  刀夜が、|驚《おどろ》いたような顔をする。上条はその表情が許せない。 「ああ、確かに|俺《おれ》は不幸だった」上条は|唾《つば》を吐くように告げた。「この夏休みだけで何度も死にかけたよ、一度。なんか右腕を丸ごと切断された事もあった。そりゃクラスメイトを一列に並べて比べりゃ、こんな不幸な夏休みを送ってんのは俺だけだろうさ」  けどな、と上条は続けて、 「俺はたった一度でも、後悔してるなんて言ったか? こんなに『不幸』な夏休みは送りたくなかったなんて言ったかよ! 冗談じゃねえ、確かに俺の夏休みは「不幸』だった。だけど、それが何だ? そんな程度で、この俺が後悔するとでも思ってんのか!?」  そうだ。  |姫神秋沙《ひめがみあいさ》を『三沢塾』から助け出したのは、上条当麻だ。  そうだ。  |御坂《みさか》妹を『実験』から救い出したのだって、|上条当麻《かみじようとうま》だ。  そして。  あの自い少女の笑みを守り抜いたのだって、おそらくは。  たとえそれが|誰《だれ》かに巻き込まれたものでも、きっかけはほんの偶然が重なった『不幸』によるものだったとしても、その一点だけは誇るべきだ。逆にゾッとする、もしも上条が『幸運』にもこれらの事件に巻き込まれなかった時の事を考えると[#「これらの事件に巻き込まれなかった時の事を考えると」に傍点]。 「確かに|俺《おれ》が『不幸』じゃなければ、もっと|平穏《へいおん》な世界に生きていられたと思う。この夏休みだって、何度も何度も死にかけるようなものにはならなかったはずだ」上条は、自分の父親を|睨《にら》みつけて、「けど、そんなもんが『幸運』なのか? 自分がのうのうと暮らしている陰で別の誰かが苦しんで、血まみれになって、助けを求めて、そんな事にも気づかずに! ただふらふらと生きている事のどこが『幸運』だって言うんだ!?」  |刀夜《とうや》は、|驚《おどろ》いたように上条を見た。  上条は言う。 「惨めったらしい『幸運』なんざ押し付けんな! こんなにも素晴らしい『不幸』を俺から奪うな! この道は、俺が歩く。これまでも、これからも、決して後悔しないために!」  だから、|邪魔《じやま》をするな。 『幸運』なんて欲しくない。すぐ|側《そば》でみんなが苦しんでいる事にも気づけずに、ただ一人のうのうと生き続けるぐらいなら、『不幸』に苦しむ人々にいくらでも巻き込まれてやる。  だからこそ、上条当麻は言う。 「『不幸』だなんて見下してんじゃねえ! 俺は今、世界で一番『幸せ』なんだ!」  おそらくは、笑みを浮かべて。  |獰猛《どうもう》で、|野蛮《やばん》で、荒々しく、上品さの|欠片《かけら》もない、  けれど、確かに最高に最強な笑みを浮かべて、上条当麻は、宣言した。 「————、」  刀夜は。  上条刀夜は、言葉も出ない。  オレンジ色に染まる世界で、ただ波の音を聞きながら、刀夜は笑っていた。笑って、笑って、笑って笑って笑って|薄《うす》く引き伸ばしたように笑って。  はっ、————と。  その時、初めて本当に[#「初めて本当に」に傍点]、上条刀夜は小さく笑っていた。 「何だ、お前」気の抜けたような声で、「最初から、幸せだったのか。当麻」 ああ、と|上条《かみじよう》はためらう事なく|頷《うなず》いた。  |刀夜《とうや》は、何か大きな荷が下りたという表情を浮かべて、 「|馬鹿《ばか》だな、私は。それじゃまったく逆効果だ。私はみすみす、自分の子供から幸せを奪おうとしていたのか」|安堵《あんど》からくる|自嘲《じちよう》だった。「といっても、何ができた訳でもないがな。まったく、私も馬鹿だ。あんな「おみやげ』を収集した程度で何かが変わるはずもないって、オカルトなんぞに何の力もないって[#「オカルトなんぞに何の力もないって」に傍点]、分かっていたはずなのに[#「分かっていたはずなのに」に傍点]」 「え?」  上条は、ふと父親の言葉に|眉《まゆ》をひそめた。  刀夜は、そんな息子の様子に気づかない。 「大体、みやげ屋に置いてある家内安全やら学業|成就《じようじゆ》やらといった|民芸品《おまもり》を買い|漁《あさ》った程度で治る『不幸』なら、お前が誇るはずもない。もう出張先から変なみやげを買って帰るのはやめにするよ。菓子の方がまだ母さんも喜ぶ」 「ちょ、ちょっと待て」上条は、一度止めた。「アンタは『|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こしたんだろ? だったら、その|儀式場《ぎしきじよう》はどこにあるんだ? |俺《おれ》の『不幸』をなくすって目的がなくなったんなら、もう『|御使堕し《エンゼルフオール》』を中止にしても構わねーんだろ」  上条の言葉に、|何故《なぜ》か刀夜は不審そうな顔で、 「エンゼルフォール? 何だそれは。何かの流行語か、歌手の名前なのか?」「……、ちょっと。待て」上条は、刀夜の顔をもう一度見る。「おい。母さんが今どこにいるが、分かるか?」 「何を言っている、|当麻《とうま》。海の家にでも戻っているんじゃないのか[#「海の家にでも戻っているんじゃないのか」に傍点]?」  上条はギョッとした。  自分の父親の顔は、ウソをついているようには見えない。  刀夜は、インデックスが自分の妻だと本気で信じている。だが、それだとおかしい。上条刀夜が『|御使堕し《エンゼルフオール》』を引き起こした犯人ならば、彼はその|影響《えいきよう》を受けないはずなのだから。 (待て。考えろ。まだ何かを見落としていないか? この状況は明らかにおかしい。今の父さんの口ぶりだと、不幸な子供にお守りを渡そうとしているだけに聞こえるぞ)  だが、考えている時間はなかった。  上条当麻の思考を、さくっ、という砂を踏む音が唐突に|遮《さえぎ》った。  上条は、視線を上げる。 「……、ミーシャ=クロイツェフ」  一体いつからそこにいたのか、隠れる場所なんて全くない砂浜の波打ち|際《ぎわ》に、ポツンと赤いインナーの上に同色の|外套《マント》を|羽織《はお》った少女が立っていた。黒い革のベルトをあちこちに巻いて、首輪までつけた金髪の少女に刀夜が思わず不審そうな目を向ける。  上条の呼びかけにも、ミーシャは答えない。  無言のままに、少女は|刀夜《とうや》の顔を見ている。  互いの距離は一〇メートル前後。|上条《かみじよう》は初めて|襲《おそ》われた夜を思い出して背筋が凍った。あれだけ恐ろしかった|火野神作《ひのじんさく》を、|野良猫《のらねこ》でも追い払うぐらいの実力差で|叩《たた》きのめしたあの力。この程度の距離はミーシャにとって『距離』とは呼べない。  それでも、上条は話が通じると、まだ、思っていた。思ってしまった。さりげなく刀夜を|庇《かば》うように一歩前へ出て、上条は言う。 「待ってくれ、ミーシャ。何か様子がおかしい。確かに父さんは誰とも『入れ替わって』ない。けど、|他《ほか》の誰かが『入れ替わって』いる事にも気づいてない。きっと、「|御使堕し《エンゼルフオール》』の|影響《えいきよう》を受けてるんだ。どういう理屈か、知ら、—————ッ?」  言いかけて、上条の|喉《のど》が凍りついた。  ぞわり、と。  ミーシャ=クロイツェフの小柄な体から、見えない何かが噴き出した。上条の両足は地面に縫い付けられ、胃袋に重圧が落ち、呼吸が乱れ、心臓は暴れ回り、頭の奥がチリチリと火花みたいな痛みを発して思考が止まる。  まるで毛穴から神経ガスでも噴いているのでは、とも思ったが、違う。ミーシャは何もしていない。特に何かをするまでもなく、その存在だけで上条の体を|縛《しば》り付けている。  殺意。  ただの殺意だけで、上条|当麻《とうま》は石化していく。  ドン!! と。まるで、周囲の重力が十倍に膨れ上がったような威圧。  ゆらり、と。ミーシャの細い手が、腰のベルトに伸びる。引き抜かれたのはL字の|釘抜き《バール》。その中途|半端《にんぱ》に鋭利な先端を見て、刀夜が背後で息を|呑《の》む音が聞こえた。そうだろう、荒々しいだけの先端など、下手なナイフよりも凶悪に見える。 「待、て。————ミーシャ、……話を!」  それでも何とか声をかけようとする上条だったが、ミーシャは答えない。  ただ、風が吹き。ゆらり、と前髪が揺れる。  その奥でギョロリと|蠢《うごめ》く、あまりにも感情の消滅した|瞳《ひとみ》。  上条は思わずギョッとした。  火野神作の瞳が狂熱に|彩《いろど》られた激情の瞳ならば、ミーシャは全く正反対。あれはもう人間の瞳ではない。人間にあんな瞳の色は作れない。まるであらゆる心理現象を|遮断《しやだん》したような、|硝子《ガラス》や水晶の|珠《たま》にしか見えない二つの眼球が見えた。  ミーシャ=クロイソェフは何も告げず、  ただ一度、り字の|釘抜き《パール》を真横に振って、監視カメラのような瞳で上条を見た。  ゾッと。  上条の声が止まってしまう。  目の前の、赤いインナーを|外套《マント》で包み込む小柄な女の子が、人間に見えなかった。まるで人の皮を|被《かぶ》ったまったく別のものが|畿《もつヨヒめ》いているような、そんな気がした。  ミーシャは、ゆっくりと、ゆっくりとL字の|釘抜き《バール》を|竹刀《しない》のように構える。  あの、たった一振りで|火野神作《ひのじんさく》の手首を|叩《たた》き砕いた|拷問具《ごうもんぐ》を。あんなものの|攻撃《こうげき》を|避《さ》けながら、|刀夜《とうや》を|庇《かば》い続ける事などできるのか。|上条《かみじよう》は|身震《みぶる》いし、|掌《てのひら》を気持ち悪い汗でぐっしょりと|濡《ぬ》らす。  それでも、下がれない。  上条は震える手で、ようやく右手の|拳《こぶし》を握り締めて、  突然、あらぬ方向から|神裂《かんざき》の怒鳴り声が飛んできた。 「そこから離れなさい、上条|当麻《とうま》!!」  ヒュン、という風鳴りの音。  見えない|斬撃《ざんげき》とも言うべき何かが、砂を走って上条とミーシャの間を|一閃《いっせん》した。横一線に巻き上げられた地面が砂の壁を作り出す。今まさに|釘抜き《バール》を構えようとしていたミーシャの気が|一瞬《いつしゆん》それて、その間に紳裂が間に割って入った。  と、殺気立つ神裂の|隣《となり》には、いつ戻ったのか|土御門《つちみかど》も立っている。 「ご苦労さん、カミやん。アンタは本当に良くやった。ケリは着けたんだろ、だったら下がりな、|後《バトル》はオレらの仕事だぜい」  どんな手法を使ったか知らないが、近くで見張っていたのか。  刀夜は土御門の顔を見て、口をぱくぱくさせた。無理もない、『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|影響《えいきよう》を受けているなら、刀夜の目にはキナ臭いウワサの立つアイドルに見えているはずなのだから。  だが、そんな誤解をいちいち解いている余裕はなさそうだ。  上条は絶句しながらも、それでも様子のおかしくなったミーシャの方を見る。 「おい、土御門。アイツは一体どうしちまったんだ」 「いやー、考えてみればおかしかったんだぜい」土御門は|獰猛《どうもう》に笑って、「どうせ他宗派のヤロウが名乗る名前なんざ偽名とは思ってたが、それにしたってミーシャはない。その時点で気がつくべきだったんだがにゃー」 「?」 「ミーシャというのはですね」神裂が油断なくミーシャを|睨《にら》みながら、「ロシアでは、男性の名前につけられるものなんです[#「男性の名前につけられるものなんです」に傍点]。偽名として使うにもおかしすぎる」  対して、当のミーシャ本人は何も告げない。  その目を細め、|釘抜き《バール》の切っ先を、刀夜から神裂へと修正する。 「何だって、そんな事を……?」 「ロシア成教に問い合わせた所、サーシャ=クロイツェフってのはいたけど。おそらくそいつが『入れ替わってる』のがサーシャなんだろ」  |上条《かみじよう》はミーシャの顔を見る。  そうだ、『|御使堕し《エンゼルフオール》』の|影響《えいきよう》を受けているのなら、彼女も|誰《だれ》かと入れ替わっていなければおかしい。だが、だとすれば、クロイツェフに入れ替わっているこの少女は誰なんだ[#「クロイツェフに入れ替わっているこの少女は誰なんだ」に傍点]? 「いるんだよ、カミやん。この世にはな、男にも女にもなれるヤツが。性別も決まっておらず、常に中性として両性として神話に描かれる存在が。ソイツらにとって、『名前』ってのは自分が神に作られた『目的』そのものなんだ。他人と『名前』を交換なんてできる訳がない」  土御門の言葉に、上条は|眉《まゆ》をひそめたが、 「忘れたかい、カミやん。この大魔術が[#「この大魔術が」に傍点]、一体何の名で呼ばれているのか[#「一体何の名で呼ばれているのか」に傍点]」  |瞬間《しゆんかん》、ミーシャの両目がカッと見開いた。  ドン!! という地を揺るがす|轟音《ごうおん》と共に、  オレンジに染まる夕空が、一瞬で星の散らばる夜空へと切り替わった。 「な……、」  上条は思わず頭上を見上げた。|刀夜《とうや》の息が凍る。  夜。まるで電灯のスイッチを切ったように、いきなり夕暮れが夜へと切り替わった。頭上には|禍《まがまが》々しいほど巨大な|蒼《あお》い満月。だが、おかしい。今の月齢では、月は半月のはずなのに。 「ちょ……何だよこれは!?」 「見て分かりませんか。アレは、|夕闇《ゆうやみ》を夜闇へ切り替えたようですね」  |神裂《かんざき》は簡単な事のように言うが、上条は思わず絶句していた。  夕方から夜に変える。言葉遊びなら簡単だが、それはつまり天体単位で地球と太陽の位置関係を自在に操る事を意味している。いや、月の満ち欠けすらズレている所を見ると、月や|他《ほか》の惑星すら操る事ができるかもしれない。  |天体制御《アストロインハンド》。  その|凄《すさ》まじさにピンとこないなら、『世界を終わらせる力』とでも思えば良い。例えば地球の地軸が一〇度ズレただけで地球上の動植物の四分の一が絶滅するし、地球の自転を止めれば世界は滅亡する。この星に立っている者には感じられないだろうが、地球とは時速一六六六キロ強というものすごい速度で回転している天体だ。その自転をいきなり急停止させると、急プレーキをかけた車の中のように凶悪な慣性の力が働き、地球表面の地殻が丸ごと吹き飛ばされるのだ。  それは、つまり。  好きな時、好きな場所で、ミーシャが|想《おも》い望んだだけで、この世界は|壊《こわ》れるという事だ。 「待て。おい、ちょっと待て! |魔術《まじゆつ》ってのは、こんな事までできんのか!?」 「できませんよ、人には[#「人には」に傍点]」  鋭利で冷たい刃のような声は、|神裂《かんざき》のものだ。 「自身の属性強化のための『夜』ですか。月を主軸と置く所を見ると、ああ。なるほど、心得ました。水の象徴にして青を|司《つかさど》り、月の守護者にして後方を加護する者。旧約に勝いては|堕落《だらく》都市ゴモラを火の矢の雨で焼き払い、新約においては聖母に神の子の受胎を告知した者」  その時になって、|上条《かみじよう》はようやく思い出した。  今回の大魔術がなんと呼ばれているのかを。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』。  そう呼ばれるからには、必ずある存在が落ちてきているはずなのだから。 「——その名は『神の力』。常に神の左手に|侍《はべ》る|双翼《そうよく》の大天使、ですか」  神を裂く者の声に、神に仕える者は答えない。  まるで見えない殻を砕くように、見えない皮を脱ぐように。  そうして。ソレは|覚醒《かくせい》した。      3  天使は特に動かない。  神裂は上条や|刀夜《とうや》の盾になる位置に立ち|塞《ふさ》がりつつ、腰の刀へと手を伸ばす、 「エンゼルとは善悪なき力。神の意思に従い人を救えば天の使いと|崇《あが》められ、地に|堕《お》ちて泥に染まれば悪魔と恐れられる」神裂は、|忌《いまいま》々しそうに、「まるで旧約の神話そのままですね。そうまでして元の位階に戻りたいのですか、『神の力』」  上条は絶句してミーシャ———いや、天使『神の力』を見た。おそらく、彼女が『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めようとする目的は、この場の|誰《だれ》よりも単純だ。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』は天使を地上へ落とす術式。  ならば、落とされた天使が元の場所へ帰ろうと思うのは当然の事。 『神の力』は何も告げない。  もはや何の弁明もせず、まるで何かの口火を切るようにL字の|釘抜き《バール》を天上へ振りかざす。  ゾグン!! と心臓を氷の|杭《くい》が貫くような|悪寒《おかん》。  頭上の月が、|一際《ひときわ》大きく|蒼《あお》く輝いた。カメラのレンズが太陽を追い駆けた時のように、|眩《まばゆ》い月の周りに光の輪が生まれる。  光の輪は満月を中心にして|一瞬《いつしゆん》で広がり、夜空の端の水平線の向こうまで消えてしまった。さらに輪の内部に複雑な紋章を描くように、様々な光の筋が走り回る。  |魔法陣《まほうじん》。  それも単に巨大なだけではない。良く見ると、ラインを描く光の粒一つ一つが、別々の魔法陣なのだ。まるで海を泳ぐ魚の群れのように、地を歩く|蟻《あり》の行列のように、何億何十億という魔法陣が規則正しく流れてさらに巨大な陣を築き上げる。 (しかし。なんて……、なんて|凄《すさ》まじい光量なんだ)  |上条《かみじよう》は夜空に|瞬《またた》く光の群れを見て、思わず絶句した。  夜空の星の光を見て、『|脆《もろ》い』や『|儚《はかな》い』と思うのは間違いだ。遠くにあるものは小さく見えるーこんな遠近法なら小学生でも分かるだろう。例えば日本で暮らしていても、自衛隊や在日米軍の|戦闘機《せんとうき》が空を飛んでいる光景ぐらいは見た事はあると思う。しかし、空を走る飛行機雲を見る事があっても、そのジェットエンジンから噴き出す炎の色を見た事がある人はいるだろうか?  つまり、そういう事。  戦闘機のジェットエンジン程度の光では、見えないほど距離が開いているという事。まして成層圏において確認できる人工の光など、衛星を打ち上げるロケットの噴射光ぐらいか。  魔術に詳しくない上条でも、何となく分かる。  これは、ケタ外れだ。  ビリビリと。体の内側が|震《ふる》えるような感覚を伝えてくる。  夜空を見上げる|神裂《かんざき》の|頬《ほお》に、ぶわっと汗の|珠《たま》が浮かび上がった。 「正気ですか、『神の力』! ただ一人を|狙《ねら》うためだけに旧約に記された神話上の術式を持ち出すなど。あなたはこの世界を一掃する気か?」  神裂の口調と、その内容は尋常なものではない。  上条は、思わず口を挟まずにはいられなかった。 「何だって? おい、あの天使は「体何を始めようって……」 「あれは、かつて|堕落《だらく》した文明を一つ丸ごと焼き尽くした火矢の豪雨です。あんなものが発動すれば人類の歴史はここで終わってしまいます」  スケールが大きすぎて、逆に上条には現実味が|湧《わ》かない。  だが、『火』という単語と、『豪雨』という単語が上条の胸にしこりを生み出した。 (火の矢が、落ちる? まさか、夜空の光、あれが? 燃料満載のロケットと同じぐらいの光の|塊《かたまり》が何十億って浮かんでいる、あれが全部地上に?)  上条は凍りついたまま夜空を見上げた。単純に考えて、あの何十億もの瞬く光|全《すべ》てが地上を狙うミサイルの噴射光だとでも思えば良い。もう|絨毯爆撃《じゆうたんぱくげき》どころの話ではない。世界全人類一人に一発|照準《ロツクオン》したって、まだお釣りが帰ってくるほどのミサイルの雨が降ってくるのだ。  |攻撃《こうげき》範囲なんて分からない。この街一つか、この国一つか、あるいは『夜空の下』の|全《すべ》てと言うならば地球の半分が丸ごと焦土と化してしまう。  |神裂《かんざき》は今にも心臓が止まってしまいそうな顔で、 「神の命なしに天使は人を殺せないはずなのに。それすらも忘れましたか『神の力』。新約の『最後の審判』ではあらかじめ裁かれる|魂《たましい》の数は決まっています。|無闇《むやみ》に人を殺せば審判が|破綻《はたん》する事ぐらいあなたは分かっているはずです! あなたが私|達《たち》に伝えたんだ!」  そんな話は、確か前に|土御門《つちみかど》から聞いたような気がする。  世界の終わりには神様が地上にやってきて、全ての人聞を一人一人天国へ送るか地獄へ落とすか決めるとか。実はその結果は始めから決まっている事なので、不用意に天使が人を殺すと結果が狂ってしまうとか、何とか。  宗教的な観念はともかくとして、理屈としては|時間矛盾《タイムパラドツクス》の一種だろう。本来、殺されるはずのない人間を殺してしまうと、その子供が生まれなくなる。すると、その孫も、その子孫も生まれなくなってしまう。|時空操作《タイムマシン》を使った人間がいくらでも歴史を変えられる超越者であるのと同じく、『人の|歴史《じかん》』からズレた天使も『人の|未来《おわり》』を変える力を持つのだ。  超越者。  人殺しをやめうという神裂の悲痛な叫びに、しかし天の使いは一片も動じない。  怒りに狂うのでもなく、|嘲《あざけ》りに笑うのでもなく、罪悪を感じる訳でもなく。  ただ、動じなかった。、  その光景に、|上条《かみじよう》はゾッとした。この天使には、『神の力』には、おそらくもう理屈は通じない。『|御使堕し《エンゼルフオール》』が発生した時点で、何かレールのようなものから脱線してしまったんだろう。  今の天使には、『天上へ戻る』というたった一つの命令文しか存在しない。  その結果、世界にどれだけの|影響《えいきよう》を与えるかなど考えてもいない。  ただ、正しいものを正しいものへと|還《かえ》そうとするように。  臓羅移植で適合しない他人の内臓を取り込んだ人間が、死組事が分かっていても拒絶反応を起こしてしまうように。  今まで上条達と行動を共にしていたのは、単に標的を見極めるためか。  圧倒的な爆撃を行う場合、|瓦礫《がれき》や死体の山に隠れて標的の生死が判断しづらい事もある。だからこそ、あらかじめ標的の顔を覚えておく必要があったのか。  上条は犬歯を|剥《む》き出しにして頭上を見上げた。  それが『異能の力』であるならば、神様の奇跡すら打ち消す事のできる右手。だが、そもそも|魔法陣《まほうじん》の位置が遠すぎる。成層圏の先なんて|戦闘機《せんとうき》にも|辿《たど》り着けない高みなのだ。  ならばこそ、上条は『神の力』を睨みつけた。  あの魔法陣を止められないなら、それを扱う術者を止めるしかない。『|御使堕し《エンゼルフオール》」と同じだ、あの魔術がまだ完成していないなら、術者を止めれば発動を妨害できるはずだから。 「くそ……、」  しかし、一番簡単な目の前の答えに、|上条《かみじよう》は奥歯を|噛《か》み締めた。  それでは、あの天使と何も変わらないからだ。 「くそったれが!!」  そんな上条を、『神の力』は表情も変えずにただじっと見ている。  まるで一つ上の高みから、泥の申でもがく昆虫でも眺めているような目で。  世界を滅ぼすほどの力を、指先一本動かさずに用意した大天使は、何も告げない。  その視線に危機感はない。|哀《あわ》れみすらも感じられない。  虫を一匹|潰《つぶ》すのに、胸を痛める必要などないのだから。 「ふざけやがって、 一言ぐらいしゃべりやがれテメェは! いいか、|俺《おれ》は今怒ってるんだ。最っ高にブチ切れてんだ! ここから先に交渉の余地なんざ一片もねえ、テメェは|黙《だま》ってこの術式を止めやがれ!!」  上条は自分より背の低い少女に向かって怒鳴ったが、声は|震《ふる》えそうだった。  |刀夜《とうや》はこの場の何よりも、自分の子供が|罵声《ばせい》を放った事に|衝撃《しようげき》を受けているようだった。  思い出す。眼前で|火野神作《ひのじんさく》を追い払った時のあの速度を。あの重さを。あの間合いを。あの組み立てを。偽装してさえ、あの実力。上条など詰め将棋の予定調和みたいに相手の手に踊らされる事しかできなかった、あの『神』のような『力』を。  そして、今はそれ以上。  堅苦しい|化けの皮《こうそくぐ》は、すでに|剥《は》がれているのだから。 「……、」  上条の休から、泥のような汗が噴き出した。刀夜を|庇《かば》って前へ出る。その態度こそ勇敢に見えるが、実質それはただの|無謀《むぽう》でしかない。『神の力』との実力差はもはや人間の手で埋められるものではない。これは核ミサイル相手に|格闘技《かくとうぎ》で戦えと言われているようなものだ。 「上条|当麻《とうま》」  と、|神裂火織《かんざきかおり》は静かに上条当麻の方へと振り返ると、 「『神の力』は私が押さえます。あなたは刀夜氏を連れて一刻も早く逃げてください」  その|瞬間《しゆんかん》、神裂が何を言ったのか、上条には理解できなかった。  それぐらい、あっさりと、、  核ミサイル相手に格闘技で戦えと言われているような状況で。  何の|躊躇《ちゆうちよ》もなく、何の|遠慮《えんりよ》もなく、何の|容赦《ようしや》もなく、何の恐怖もなく、何の|焦燥《しようそう》もなく。  神裂は上条に背を向けて、死神のような天使の前に立ちはだかった。 「な、んで……?」  だから、|上条《かみじよう》にできた質問はただそれだけ。  しかし、かろうじて|搾《しば》り出した問いに|神裂《かんざき》は振り返りもせずに、 「理由などありません。私は私にできる事があるからここに立っているだけです」心底、つまらなそうな声で背中は言う。「『一掃』、ね。つまらない。本当につまらない。そんなつまらない手法では、私の目指す到達点には遠く及びません」  吐き捨てるように言って、神裂は一歩前へ。  上条は、その背中を止められない。その背中に追い着けない。距離にして一メートルに満たない長さは、しかし感覚において永遠だった。強いのではない、|恐《こわ》いのではない、鋭いのではない、重いのでもなく速いのでもなく凍るでもなー熱いでもない。  ただ、違う。 『神の力』に敵対する者の背は、その役にふさわしくあまりに『違って』いた。  神を裂く者は告げる。 「これより行う我々の|戦《いくさ》は人のものとは『違い』ます。逃走時には、くれぐれも巻き込まれないよう細心の注意を払ってください」  逃げうと言われても、上条には理解できない。  今さらどこに逃げれば良いのか。まさか、火星にでも行けというのか。  と、神裂は|呆然《ぽうぜん》とする上条の方に振り返りもせず、 「考えても見てください。『神の力』の『一掃』。それを使えば簡単に事を終えられるのに、|何故《なぜ》あの天使は淡々と私|達《たち》の成り行きを眺めているのだと思いますか?」  言われて、上条はようやく気づいた。 『一掃』できるなら、さっさとやってしまえば良い。『神の力』にそれをためらう理由などないはずだ。何せ、彼女の目的はたった一つのはずなのだから。  にも|拘《かか》わらず、一体どうして『一掃』が行われないのか。 「行わないのではなく[#「行わないのではなく」に傍点]、行えないのですよ[#「行えないのですよ」に傍点]。いかに『神の力』といえど、この規模の術式を完成させるまでには時間がかかるのです。珍しい事ではありません、過去に文明を|襲《おそ》った『|神戮《しんりく》』 も、|大概《たいがい》はある程度の『|待ち時間《しつこうゆうよ》』がありましたから」神裂の背中は語る。「——時間にしておよそ三〇分といった所ですか。ふふ、箱舟に動物を乗せるにしても少しせっかちですね」  上条は絶句した。  あと三〇分。あと三〇分で、『一掃』は世界の約半分に火の矢を降らせる。感覚的には何億発ものミサイルが落ちる感じだろうか。当然、上条の『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』も世界中はカバーしきれない。  だが、逆に言えば。  この三〇分で、『神の力』を止める事ができれば。 「だったら、なおさら逃げらんねーよ! |俺《おれ》も参戦する、ああいうオカルト相手なら俺の右手だって少しは役に立つだろ!!」 「やめておきなさい。|素人《しろうと》に|庇《かば》われ傷を負わせる|玄人《くろうと》など切腹する権利すらありません」  |神裂《かんざき》は涼しげな声で言った。 「何で、そんな余裕なんだよ? 今のアイツに見境なんてねーんだぞ。天使に人は殺せないとか何とか、お前|達《たち》がさんざん言ってたのだってアテになんねえだろ!」|上条《かみじよう》は、飛び降り自殺を止めるように叫ぶ。「あんなもんの相手を、お前一人に任せてなんておけるか! 俺だって戦える、ここまできて逃げられるか!」 「聞きなさい」しかし、神裂の背中は冷静に、「あれは元より『人の|規格《せかい》』から外れた存在です。あれに対して戦おうとか勝利しようとか考える時点ですでに間違っています」  上条は息を|呑《の》んで神裂の背中を|凝視《ぎようし》した。 「けれど勘違いをしてはなりません。私は何も|無駄死《むだじ》にするつもりはありません。勝利するとは妄言しませんが敗北するとも断言せず。私にできるのは互角で平等な『足止め』のみとなります」神裂は静かに、「上条|当麻《とうま》。あなたには私が足止めしている間に、|刀夜《とうや》氏を連れて『|御使堕し《エンゼルフオール》』の解除をお願いしたいのです」 「ちょっと待て、何だって?」 「忘れましたか、『神のカ』の目的を。あれは『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めるために『一掃』を持ち出したのです。つまり、逆に言えば『一掃』が行われる前に『|御使堕し《エンゼルフオール》』が止まってしまえば、『一掃』を行う必要性はなくなる。そう考えられませんか?」  最後の言葉は、上条ではなく大天使に向けられたように聞こえた。  凍える天使は答えない。  どうでもいいのだ、『神の力』には。どの道、三〇分後には『|御使堕し《エンゼルフオール》』の術者・刀夜を焼き払う『一掃』が|全《すベ》てを解決させる。その前に上条達が別の方法で「|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めたってあの天使には何の害もない。  だからこそ、『神の力』はこうして目の前の|刀夜《ターゲツト》を|黙《だま》って見逃している。  何を選びどう転がろうが同じ結果なら、目くじらを立てる必要もないと言わんばかりに。 『一掃』より凶悪な『|天体制御《アストロインハンド》を用いて地球の自転を止める』という絶対の手段を|掌《てのひら》で転がしながら、さてどのルートを進んで問題を片付けようかと吟味するように。  上条はチラリと刀夜の顔を見た。確かに、彼を『神の力』の近くに置いておくのはあまりに危険すぎる。だが、 「けど、お前は? あんな『神の力』なんてもの相手にするなんて……」 「さあ。ですが、これが最良の選択肢でしょう。あなたではアレの足止めはできない。あなたはあなたの役割をしっかり|遂行《すいこう》して、一刻も早く『|御使堕し《エンゼルフオール》』を解除してください。その努力が私の生存確率を確実に引き上げてくれます」  神裂はさらに『神の力』へ向かって、一歩。 「そして何より、私は|魔術師《まじゆつし》の争いで民間人に|犠牲《ぎせい》を出すつもりは毛頭ありません。|上条刀夜《かみじようとうや》は死なせません、この身に代えても」 「……、いいのかよ。本当に」 「ええ。|不躾《ぶしつけ》な話で申し訳ないのですが、私はあなたを信用してみる事にします。かつて一度、私の前であの子を救った時と同様に、今度は私の人命を救ってもらえると助かります」  |神裂《かんざき》の背中はそれ以上、何も言わない。  上条は何かを言おうと思ったが、言葉が何も見つからない。  神裂を止めようとすれば、それだけ時間をロスしてしまう。そんな|無駄《むだ》な行為の一つ一つが、確実に神裂の生存確率を引き下げてしまう。  上条は、歯を食いしばって、 「|頼《たの》んだぜ、神裂! |俺《おれ》もお前を信用する!!」  叫んで、上条は訳の分からないままの刀夜の腕を|掴《つか》んで、半ば引きずるように海の家へと走って行く。ちょっと待て、どうなっているんだ、という刀夜の叫びを|黙殺《もくさつ》して。 『神の力』の視線が神裂を素通りして、上条|達《たち》へとそれた。  そこへ、割り込むように神裂が滑り込む。 「あなたの相手は私です。人の話は聞きなさい、そも天使の役は神と人の間の伝令も兼れているはずなのに」神裂は、そこで場違いにも小さく笑って、「それにしても、信用するときましたか。この私に対して。まったく『三沢塾』戦にて調子が狂うと言ったステイルの報告も|馬鹿《ぽか》にはできませんが、しかし確かにその一言は最良です。私の生存確率は、あなたの一言によって確実に引き上げられました」  言って、神裂は腰の|大刀《たち》『七天七刀』の|掴《つか》に手を伸ばす。  そんな神裂を|黙《だま》って見ていた『神の力』だったが、やがてポツリと、人外の声で、 「————q愚劣rw」  ズバン!! と天使の背中が爆発した。  その背から羽のように飛び出したのは、しかし白鳥のような優美な|翼《つばさ》ではない。  それは氷細工でできた|孔雀《くじやく》の翼に似ていた。  水晶を削って作ったような鋭く荒削りな翼が何十と集まり、剣山のように飛び出した。同時、『神の力』の背後にある海水が、不規則にうねる。まるで巨大な蛇か|海龍《かいりゆう》のように飛び出した、何十トンという|膨大《ぼうだい》な海水が天使の背中へと殺到する。  背と海水が接合し、巨大な水の翼へと|変貌《へんぼう》する。  一本が五〇メートルから七〇メートルまで届く巨大な水翼の剣山が、『神の力』の背後でバサリと広がった。それは|何人《なんぴと》にも越えられぬ壁にも見えたし、触れれば指が切れる鋭利な水晶の扇のようにも見えた。  天に刃向かいし、凍える数十もの|翼《つばさ》。  最後に、『神の力』の頭上に一滴の水滴が浮かぶ。それは小さく円を描くと、中空に浮かぶ輪となって固定された。  そのどれもが深夜の海面のような、黒の|濁《にご》った死を招く|蒼《あお》。  羽の尾から羽の先まで余さず『|天使の力《テレズマ》』が行き通ったそれらは、一本一翼で山を根こそぎ吹き飛ばし、地を|快《えぐ》って谷を築く天罰の|一撃《いちげき》だ。|普段《ふだん》、戦場では敵が恐れて道を開けるほどの実力を持っ|神裂《かんざき》だが、その神裂でさえ|緊張《きんちよう》に体が凍った。一般人ならば、この場に放たれる殺意のみで呼吸が停止していたかもしれない。 「まったく、大層な役目を安請け合いしてしまったものです」神裂は、わずかに重心を落とし———そこで気づいた。「? |土御門《つちみかど》、どこにいるのですか? 土御門?」  いない。  いつの間にか、ちゃっかり土御門の姿が戦場からいなくなっている。  神裂は、こんな非常事態でも自分の|背信《ポリシー》を守り通す土御門に対して|呆《あき》れたように、 「ま、あれはそういうヤツです。放り捨てても自力で生存するでしょう。さて、私も私で自力で生存しなければなりません。それでは、『|唯閃《ゆいせん》』の使用と共に、一つの名を」  そうして、神裂|火織《かおり》は告げた。  己の身と心と|魂《たましい》に自ら刻み付けた、もう一つの名を。 「—————|救われぬ者に救いの手を《S a l v e r e 0 0 0》」      4  その|頃《ころ》、土御門は一人夜の|闇《やみ》を引き裂くように走り続けていた。 (さぁって、まずい事になってきたぜいまずい事になってきたぜい。致し方なかったとはいえ、もっと早くアレをぶち|壊《こわ》しておけば良かったかにゃー)  戦場から遠ざかるように、争いから逃れるように。 (過ぎたる失策は忘却すべし、頭を切り替えポジティブ思考。よし、見方によっては|邪魔《じやま》な神裂は足止めくらってるし、今なら自由に動けると考えてみるぜよ)  新たな戦場へ向かうように、火の中へ飛び込む羽虫のように。 (ふっふっふ。それでは|魅惑《みわく》の裏切りタイムスタートだぜよ。悪いねぇカミやん、どうもこの問題を収拾するには最低でも|誰《だれ》か一人を|生《い》け|賢《にえ》にしなくっちゃなんないみたいだぜい)  楽しそうに笑って「騨——楽しそうに笑って「|背中刺す刃《Fallere825》』土御門|元春《もとはる》は闇を走る。      5  |神裂火織《かんざきかおり》と『神の力』は一〇メートルの距離を空けて|対峙《たいじ》する。  しかし、それは少しでも十字教を知る者ならば|無謀《むぱう》の一言に変換できた。別に神裂が弱いとか大天使が強いとか、そんな小さなレベルの話ではない。もっと根本的に、一番根っこの部分から間違ってしまっている。  大体をもって、これは人類文化史上ほぼ|全《すべ》ての宗教に当てはまる法則だろうが、  人間は[#「人間は」に傍点]、神様には逆らえない[#「神様には逆らえない」に傍点]。  異なる神に仕える異教者ならともかく、十字教の人間は、同じ十字教の天使には逆らえない。考えてみれば当たり前の法則だ。  つまり、神裂が教会に属してしまっている時点で、『神の力』には絶対に勝てない。  |信徒《チョキ》しか出せないジャンケンでは、|天使《グー》を出された時点で必ず敗北するのと同じ。  だからこその、|滑稽《こつけい》。  しかし、天使少女は一言も告げない。|憐欄《れんびん》の笑みすらも浮かべない。 『神の力』はただ、その背から生える水翼の一本を天高く振り上げた。互いの距離は一〇メートル近くあるが、そんなものは関係ない。長さにして七〇メートルに届く『水翼』にとって、その距離はむしろ近すぎて困るぐらいだ。  羽の先まで『|天使の力《テレズマ》』を封入した『水翼』は、それ一つが街を|壊《こわ》す『天罰』と言っても良い。|一度《ひとたび》振り下ろせばこんな砂浜など吹き飛び、クレーター状にえぐれて湾が出来上がるはずだ。神話の時代、神々の力が大地を削り地図を整えたように。 『神の力』は迷わない。  その|破壊力《はかいりよく》を、非力な人間に向けて放てば何が起こるか知っても、なお。  青を|司《つかさど》る大天使は|一瞬《いつしゆん》も迷わずに、振り上げた七〇メートルもの『水翼』を振り下ろした。  まるで塔が崩れるような|錯覚《さつかく》。引き裂かれる空気は風の|拳《けん》と化して周囲に荒れ狂い、それすらも押し|潰《つぶ》して水翼は恐るべき速度で神裂火織の頭上へと|真《ま》っ|直《す》ぐに振り下ろされる。  それで終わり。  それで終わりのはずなのに[#「それで終わりのはずなのに」に傍点]。  スパン! と。小気味の良い音と共に、『水翼』が|横一閃《よこいつせん》に切断された。  その光景を、|誰《だれ》が予測できただろうか。  ピタリと動きを止める『神の力』に、しかし神裂は吸気をもって答えるのみ。  神裂火織の腰に下げられた、ニメートル近い刀。  それが引き抜かれた|瞬間《しゆんかん》、七〇メートルに届く巨大な『水翼』が竹筒のように切断された。それだけではない。|斬《き》り飛ばされた水翼の|残骸《ざんがい》は一瞬にして、爆風に吹き飛ばされるように|粉 微塵《こなみじん》となり夜の|闇《やみ》へと消えていった。  |神裂《かんざき》は、何一つ告げようとしない。  すでにその刀身は|黒鞘《くろさや》の中へと静かに収められている。 「神の力」の前髪が、揺れる。その奥にある|硝子《ガラス》のような|瞳《ひとみ》が、神裂の弱点を探るようにギョロリと|蠢《うごめ》いた。まるで何かの実験のように、背中の『水翼』を一本振るう。  今度は|横一閃《よこいつせん》、地に立つ者|全《すべ》てを|薙《な》ぎ払うとでも言わんばかりの暴力の突風が吹き荒れる。  しかし、それすらも。  |斬《ざん》! と。神裂|火織《かおり》の一刀は、五〇メートルもの長さの水翼を軽々と斬って捨てた。  しかも、それでいて神裂は振り抜いた刀の速度や重さに振り回される事もない。一瞬前に振り抜いた刀は、一瞬後には鞘の中へと静かに収まっている。  一〇メ!トル先にて、神裂火織の指は静かに刀の|掴《つか》へと触れている。  天使の動きが止まる。  日の前の獲物をどう料理すべきか、慎重に戦術を練り直すように。 「むしろ、私としては」神裂は、挑発するように、「この程度で|驚《おどろ》かれた方が心外です。どうもあなたは、神裂火織という生き物を過小に評仙しすぎてはいませんか?」 『神の力』は答えない。今度は二本の水翼を左右から、|鋏《はさみ》のように同時に交差させる。  |轟《ごう》! と|喩《うな》りあげて|襲《おそ》いかかる二本の水翼は、  しかし、竜巻のように身を回す神裂の|一撃《いちげき》にて、二本同時に|叩《たた》き切られて消滅した。 「……、」  前髪が夜風に揺れ、その奥にある服球が一つの事実に確認するようにギョロリと回転した。  一本二本ではなく、合計で四本も断ち切られた。それは偶然ではなく必然だ。そして、矛盾も|孕《はら》んでいる。十字教徒は十字教の天使には逆らえないはずなのに。  対して、逆に神裂は涼しい顔で、 「そもそも、私をただの十字教徒と見ているのが間違いの始まりなのです」わざわざ、自分の手札を見せるほどの余裕を見せて、「|我《わ》が術式は天草式十字|凄教《せいきよう》のもの。江戸の世にて、弾圧されし|切支丹《キリシタン》がそれでも神を信じるために編み出した、日本独自の十字教様式です」  十字架やマリア像を持つだけで処刑されるほど弾圧が厳しかった時代に、信者|達《たち》は神道の木札を『十字架』に見立て、仏教の仏像を『マリア像』に見立てた。そうして神道や仏教によってカムフラージュを行った天草式は、いつしか融合しすぎてどこまでが|神道・仏教《たてまえ》で、どこか らが|十字教《ほんね》なのかも分からなくなる、|一種独特の創作宗教《アレンジオリジナル》を築き上げていたのだ。  多角宗教融合型十字教術式・天草式十字凄教。  つまり、  十字教の術式で天使に勝てないなら、+字教の術式など使わない。仏教や神道といった『天使の出てこない宗教』の術式を|迂回《うかい》して天使に|攻撃《こうげき》を仕掛ければ済むだけの話。  十字術式にできない事は仏教術式で、  仏教術式にできない事は神道術式で、  神道術式にできない事は十字術式で、  それぞれの宗教様式が持つ弱点を、天草式は|他《ほか》の術式でカバーしていく。つまり、『十字教徒』に『天使』は倒せない、という|大前提《じやくてん》も|突破《カバー》されているのだ。 「……、」 『神の力』の視線が凍る。左右と頭上、三本の水翼を同時に振るう。  だが、やはり|神裂《かんざき》の|一閃《いつせん》の前にたやすく|斬《き》り飛ばされてしまう。 「そして、日本神道とは多神教の中でもとりわけ多くの『神』が登場します、世界中のあらゆる物には神が宿っているという|八百八神《やおよろずのかみ》、どんな無価値な道具でも長い時間が加わる事で神に 成るという|付藻神《つくもがみ》、さらには|急拵《きゆうこしら》えとはいえ人為的に神を作り家を守らせる|狗神《いぬがみ》、猿神、蛇神。あらゆる宗教の中でも、日本神道ほど多くの神を取り扱う宗教は存在しないでしょう」  ですから、と神裂は腰の七天七刀を強調するように触れ、 「一神教の天使には信じ|難《がた》い話でしょうが、多神教たる日本神道には神に対する交渉術つまり対神格用の術式すら存在するのです。暴走し、|生《い》け|蟄《にえ》の娘を求め害を成す邪神の|類《たぐい》を|何の変哲もない剣《とつかみのつるぎ》で殺す神話など、ごまんと存在するのですよ。日本神道の禁じ手には『神を傷つけてはならぬ』というものがありますが、さて。一体どうしてこんな掟を作る必要があったのでしょうか[#「一体どうしてこんな掟を作る必要があったのでしょうか」に傍点]?」  歌うように、神裂|火織《かおり》はそう言った。  天使による|一方的な試合《ワンサイドゲーム》では終わらせないと、そう言った。 「……、」 『神の力』はただ|黙《だま》って『敵』を見据えた。斬り飛ばされた水翼が、新たに海水を取り込んで元の形とサイズを取り戻していく。  対して神裂に準備は不要。その腰に下げた長大なる刀の|掴《つか》へ、軽く指を触れるだけで良い。ある種独特の呼吸法を用いて体内で|魔力《きぽりよく》を練り、己が身を『神を殺す者』へと作り変える。  そして静寂。  常人には感知もできぬ、一秒を千に等分したわずかな静寂の後、 『神の力』と『神を裂く者』は命の削り合いを開始した。  ドン!! という強大な怒号。  大天使が真上から振り下ろした五〇メートルもの水翼を、一〇メートル先にいる神裂が|叩《たた》き|斬《き》った音だ。  だが『神の力』は動じない。斬られた水翼などいくらでも補修できるからだ。|神裂《かんざき》が刀を|鞘《さや》へ収め体のバランスを取り戻す前に、今度は左から|横殴《よこなぐ》りに水翼を振るう。  神裂がこれを斬り捨てた所で、今度はその背を|狙《ねら》うように右から水翼の|横一閃《よこいつせん》。 『神の力』と神裂の間には一〇メートルの距離がある。天使は常にこの距離を保とうとしているらしい。神裂を近づけまいとするように水翼の|乱撃《らんげき》を繰り出してくる。  背後を|襲《おそ》う水翼を、神裂は体ごと回転するように振り返って両断。その|瞬間《しゆんかん》を狙ったかのように、神の使いは真上から時間差を空けて三本の水翼を振り下ろす。  時間差、といっても一〇〇分の一秒単位、常人ならば『差』があるとさえ感知できない神の速度域。しかし神裂はこれに反応した。人体は脳から指先まで命令が届くのに〇・一八秒の時間を要するらしいが、『神を殺す者』と化した神裂は一時的に、人の領域を超えた存在になっており、そんな常識は通じない。血管筋肉神経内臓骨格、その|全《すべ》ては自らの術式により『神を殺せるように』組み替えられている。  |斬《ざん》! と三本の水翼の内、最初の一本を神裂の抜刀が切り裂いた。  次の『一〇〇分の一秒』が届く前に、神裂はすでに振り抜いた七天七刀を鞘へと収めて次撃へ備えている。余裕だ、と神裂が一〇〇分の一秒の中で笑みを浮かべた瞬間、  二本目の水翼が、ひとりでに砕け散った。  細かいガラスの破片のようになった数千もの『刃片』が、神裂目がけて襲いかかる。 「な……!?」  神裂がとっさに『刃の豪雨』へ対応しようとした瞬間、さらに意表を突いて三本目の水翼、が『刃の豪雨』を|蹴散《けち》らすように追い抜いた。 「……くっ!」  不意打ちの三本目は何とか両断できた。だが、刀を鞘へと収めている|暇《ひま》はない。それでは、続いて神裂を追い討ちする『刃の豪雨』が間に合わない。神裂はやむなく居合術を|諦《あきら》め、振り抜いた刀を鞘へ戻さずにそのまま『刃の豪雨』の迎撃に移る。  だが、一本の刀では数千もの刃を残らず打ち払う事などできるはずもない。  わずかに打ち|漏《も》らした一七本の刃片が(それでも残りは全て|叩《たた》き落とした神裂の技量は壮絶の一言だが)神裂の近くの砂浜へと落ちる。ドガッ!! という、爆発音というより|衝撃波《しようげきぽ》のような|轟音《ごうおん》と共に辺りの砂が勢い良く巻き上げられた。  まるで砂漠の|砂嵐《すなあらし》のように、 面の視界を奪い尽くす砂の壁。  それを障子のように引き裂いて、さらに左右と斜め右前方から水翼が襲いかかる。  戦局はそこで固定された。  神裂と『神の力』の距離は一〇メートル。それはつまり神裂の攻撃は天使に届かず、『神のカ』の|攻撃《こうげき》が一方的に|神裂《かんざき》を|襲《おそ》う事を意味している。  その上、天使の度重なる連撃によって神裂は振り抜いた刀を|鞘《さや》へ戻す事さえ許されない、得意の抜刀術も封じられ、がむしゃらに刀を振るって防戦一方となる神裂の姿は、|誰《だれ》がどう見ても劣勢にしか映らない事だろう。  神裂は|歯噛《はが》みした。  紳裂はロンドンでも十本の指に入る|魔術師《まじゆつし》だ。  神裂|火織《かおり》は人生の中で、一対一の相手に負けた事など両手の指で数える程度しかない。それも『人』対『人』のみならず『人』対『|獣王《じゆうおう》』、『人』対『兵器』を含めた『一対一』の話だ。  だが、これはどうやら世紀の|瞬間《しゆんかん》に立ち会ったらしい。  今まで両手の指で数えられた程度の『記録』が、数え切れなくなりそうだった。  もっとも。  この規格外の天使を、まともにカウントして良いのかどうかは大いに疑問だが。  ドガガガザザザザギギ!! と一秒に四五発もの|斬断《ざんだん》の火花が|炸裂《さくれつ》する。  まるで、|堅牢《けんろう》な|推《こしら》えの|大太刀《おおたち》が、打ち合いの中で徐々に刃こぼれしていくかのように。  天使は後ろへ下がろうとはしない。このまま持久戦に持ち込み、神裂のスタミナを少しずつでも確実に奪おうとするように、より一層|凄《すさ》まじい速度で水翼の乱撃を繰り出す。一〇〇分の一秒すら神裂に休みを与えまいとして、数十本もの水翼を別々の生き物のように動かして、様々な角度と方向と速度と時間差を使って神裂に|襲《おそ》い掛かる。  と、神裂の手元で、何かが月明かりを浴びてギラリと輝いた。  ヒィゥン!! という空気を裂く音と同時に、七本のワイヤーが空を切る。  七閃。  もちろん、羽の尾から羽の先まで『|天使の力《テレズマ》』が注ぎ込まれた水翼には、ワイヤーなど何の役にも立たない。|左文字《さもじ》の銘を継ぐ刀匠が|鍛《きた》えた世界遺産級の|鋼糸《こうし》だが、それでも水翼の一撃の前には|蜘蛛《くも》の糸のように軽々と断ち切られるのがオチだ。  だが、そんな|業物《わざもの》を切れば水翼の速度が落ちてしまう。  それはほんの|些細《ささい》な抵抗で、速度が落ちると言っても一〇分の一秒程度のものだろう。  しかし、  この|戦闘《せんとう》では、|瞬《まばた》き一つの時間があれば四、五手は放つ事ができる。 「——————、lkチィッ!」 『神の力』の眼球がギョロリと|蠢《うごめ》いた。不用意にワイヤーを切った水翼の速度がわずかに|削《そ》がれる。その一〇分の一秒の|隙《すき》を見逃す神裂火織ではない。彼女は、その長大な刀を中段に構えたまま勢い良く———  ———走り出そうとして、その足がガクンと崩れかけた。 (……?)  天使は勢いを取り戻し水翼を三連で振り下ろすが、|神裂《かんざき》はやはり恐るべき速度と正確さをもってこれら|全《すべ》てを両断する。しかし、その時『神の力』は見た。  神裂|火織《かおり》の全身から、熱病のような汗が噴き出している事を。  いかに『神を殺す術式』があるとしても、|誰《だれ》でもそれが使えるという話ではない。|否《いな》、才能の有無以前に、そもそも『人体』ではかかる負担が大きすぎるのだ。  神裂は抜刀術が得意なのではない。  |一瞬《いつしゆん》で勝負を着けなければ体が|崩壊《ほうかい》するほどの負担が|襲《おそ》う術式だっただけだ。  天使は水翼て|容赦《ようしや》ない攻めを繰り出しつつ、改めて神裂の顔を見た。常人の何十倍もの過酷な運動をしているのに、その顔色は紅潮するどころか氷水に首まで|浸《つ》かっているように育ざめていた。刀を握る手にもわずかな|震《ふる》えが確認できる。  |過酷な運動《ハードワーク》の|代償《だいしよう》は、すでに神裂の全身を|蝕《むしば》み始めている。 『神の力』は続けて水翼を振り回した。持久戦の結果がようやく現れてきた。後は戦いを長引かせるだけで神裂は勝手に自滅する。さらに|緩急《かんきゆう》をつけて|連撃《れんげき》を続ける『神の力』の攻撃に、神裂の体がついにぐらりとよろめいた。  青の天使はトドメを刺すために背中の水翼へと命を発したが、  しかし、神裂はそんな『神の力』を鋭い眼光で突き刺し貫通させた。 「……ッ、遅い!!」  必殺のはずの天使の水翼を、神裂は一喝して|叩《たた》き|斬《き》る。  人体には決して不可能なほどの苛烈な運動は、体温を異常に上昇させ、血流を狂わせ、酸素を奪い、筋肉どころか骨格にまで悲鳴をあげさせる。その苦痛は熱病どころではない。毒でも飲んだ方がまだ楽かもしれない。  それでも、神裂は止まらない。  鬼神のごとき形相のまま、一歩も下がらず水翼を斬り伏せる。  神裂火織は天使を圧倒しながらも、すでに死の一歩手前まで追い詰められていた。  一つ一つの行動が、自らの肉体を破壊していく様がありありと伝わってくる。七天七刀を一振りするたびに過剰な運動の代償は強引に関節を引き仲ばし、血管をギシギシと|軋《きし》ませ、ろくに酸素も供給されない内臓は燃料不足の悲鳴を苦痛という形で神裂の脳へと叩きつける。  しかも、それさえもいつまで|保《も》つかは分からない。何かの拍チに、|不気味《ぶきみ》に軋む動脈の一本でも引き|干切《らぎ》れれば、それだけで神裂は確実に絶命する。 「だが、—————」  神裂は歯を食いしばり、左右から襲いかかる二本の水翼、を竜巻のように切り伏せる。  もはやドロリとした血の味しかしない|唇《くちびる》を動かして、 「————、それが、何だというのですか」  さらに無数の水翼を|斬《き》り飛ばし、|神裂《かんざき》は荒ぶる|嵐《あらし》のように長刀を振り回す。  ここを突破させる訳にはいかない。 神裂がここで倒れれば、『神の力』は世界を|襲《おそ》う『一掃』を止めようとする|上条《かみじよう》父子を、間違いなく|破壊《はかい》しに行くはずだから。  ここを突破させる訳にはいかない!   外の水翼を斬り捨て、内の自己崩壊にさらされ、ボロボロになりながらも、神裂は歯を食いしばってさらに刃を構える。|理不尽《りふじん》とも言える秒間数十もの水翼の|斬撃《ざんげき》に対し、不条理とも呼べる秒間数十もの連撃で斬り払いながらさらに次の手に備える。  血の味と|朦朧《もうろう》となる意識は、神裂に遠い日の|記憶《きおく》を思い起こさせる。  まだ神裂|火織《かおリ》が天草式の『|女教皇《プリエステス》』と呼ばれていた|頃《ころ》。一二歳の幼子に対してあまりに位の高い名で呼ばれ|慕《した》われていた頃。神裂はいつも疑間を抱いていた。寝る前の絵本のように読み聞かされた聖書の一節を耳に入れながら、いつも疑閥を抱いていた。  天国と地獄。  人は死を迎えると、神様はその人を天国へ送るか地獄へ落とすかを決めるらしい。だからこそ、人は生きている間に良い行いをたくさんして、天国へ向かう準備をするものらしい。  しかし、  神様が|全《すべ》ての人々を救う力を持つならば、そもそも|何故《なぜ》『地獄』が必要なのか。  全ての人々を救えるなら、一人も残らず救ってあげれば良い。何か道を踏み外した人がいるならば、正しい道へと引き上げてあげれば良い。救いの手なんてものが本当にあるのなら、等しく平等にみんながみんな笑って幸せになれれば一番|嬉《うれ》しいはずなのに、  どうして、限られた人しか幸せになれないのか。  どうして、選ばれなかった人が地獄に落ちなければならないのか。  神裂はいつでも『選ばれて』いた。しかし、そのせいで周りのみんなは『選ばれる』事はなかった。乗っていた飛行機が墜落した時は自分だけ生き残った。|他《ほか》のみんなは生き残れなかった。暗殺者に銃で|狙《ねら》われても弾は当たらなかった。しかし外れた弾は他の|誰《だれ》かに突き刺さった。爆弾で建物の一室ごと吹き飛ばされた時は、何人もの人々が神裂に折り重なるようにして|衝撃《しようげき》を封じていた。その中には一〇歳に満たない子供までいた。  そうして、最後まで『選ばれなかった』人々は、神裂の顔を見て、みんな笑っていた。  ああ、良かった、と。、  あなたがご無事で何よりでした、と。  そう言って、ボロボロに泣く幼い神裂をあやすように最後の力で頭を|撫《な》でて。  幸せそうに目を閉じて、頭を撫でる手から力が抜けてしまうのだ。  全部、彼女のせいだった。  きっと神様は人々に『幸運』を配る配分を間違えた。、|神裂《かんざき》のような|強《しヘ》くもない|人間《ヘロもモヘへ》が恵まれるのはそのためだ。その下敷きとなって苦しむ人々が出てくるのもそのためだ。だから神裂は自分の力を同じ『選ばれた者』のために使おうとは思わなかった。『選ばれた者』なら自分の力で勝手に生きれば良い。『選ばれた者』だけが力を独占するのも間違っている。  この身に余る力が『選ばれなかった者』から奪い取ったモノだというのなら、それは彼らに返さなければならないはずだ。  いつだって、救いの手を求めるのは、  運命から冷たく見放された、『選ばれなかった』人々であるはずだから。  |故《ゆえ》に、神裂に人は殺せない。どれだけ壮絶なカを持とうが、彼女は|誰《だれ》も殺せない。前に一度、禁書目録を巡って一人の少年と敵対した事がある。当然プロと|素人《しろうと》の戦いなど|闘《たたか》いにもならない。ものの数十秒で決着が着いた後、ボロボロの少年は神裂に向かって一つの質問をした。|何故《なぜ》殺さないのか、と。答えなど簡単だ。殺さないのではなく殺せないのだ。神裂が守ろうとしているのは、まさしく少年のような|理不尽《りふじん》な暴力に見舞われ救いを求める人々なのだから。  だからこそ、神裂|火織《かおり》は思う。  たった一つの信念を刃に込めて、その一刀にて己の道を切り開く。  神様。あなたが選ばれた人々だけを救。うというならば。  残りの選ばれなかった人々は、一人も余さず私が救う。 「———は、ァア!!」  神裂は吐息|一閃《いつせん》、七天七刀を真上に振り抜いて頭上の二本の水翼、を切断し、返す刀でさらに|横殴《よこなぐ》りの三本の水翼を|絶断《ぜつだん》して吹き飛ばす。じりじりと。数々の攻防を重ねてきた神裂は、もうすぐこの|均衡《きんこう》が破れてしまう事を知っていた。  おそらく神裂は負ける。いかに天草式の術式の粋を集めて作り上げた『神を殺す体』といえど、大使の水翼をまともに受けて無事でいられるはずがない。  しかし、神裂もそれでは終わらない。、自分の肉体が切り裂かれる|瞬闘《しゆんかん》———その時、確かに『神の力』の水翼の動きは鈍るはずだ。その一瞬、決死の|一撃《いちげき》を放てば『神を殺す力』を込めた七天七刀は『外見』サーシャ=クロイツェフごと『中身』の大天使を|斬《き》る事ができるかもしれない。  神裂の顔色が苦汁を|舐《な》めるように|歪《ゆが》んだ。  自分が確実に敗北する事が安々と予測できたから、ではない[#「ではない」に傍点]。  神裂は[#「神裂は」に傍点]、『神の力[#「神の力」に傍点]』さえ斬りたくなかった[#「さえ斬りたくなかった」に傍点]。彼女は本当に『足止め』だけをしていたかった。フェイクに使う鋼糸術『七閃』と違い、七天七刀の抜刀術『唯閃』に加減は|利《き》かない。もしも何かの間違いで切っ先が『神の力』に突き刺さってしまったら、と思うだけで括先から力が抜けそうになった。  しかし、|神裂《かんざき》は分かっていても剣を止める事ができない。常に全力を出さねば、その|瞬間《しゆんかん》に『神の力』に両断される、神裂の敗北は、すなわち|上条《かみじよう》父子の死を意味しているのだ。  彼らを助けるためには、一手たりとも手を抜く訳にはいかない。  かと言って、最後まで手を進めてしまえば『神の力』に刃が届いてしまうかもしれない。  上条をここから遠ざけた理由の一つもここにある。|素人《しろうと》の上条と『神の力』が戦えば、九九%以上の確率で上条は即死する。だが、上条の右手はあらゆる|異能の力《オカルト》を打ち消す|幻想殺し《イマジンブレイカー》だ。存在そのものが|非現実《オカルト》な異能の力の|塊《かたまワ》である『神の力』に上条の右手が万に一つ触れれば、それだけで『神の力』は消滅してしまうかもしれない。  神裂は、選ばれなかった|全《すべ》ての人々を助けたかった。  それを言うならば、目の前の天使だって好き好んで死地に立っている訳ではないはないはずだ。  『|御使堕し《エンゼルフオール》』が起きた時、  |数多《あまた》の天使の中から彼女が|堕《お》ちる羽目になったのは、|紛《まざ》れもない『不幸』のせいなのだから。  だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、 (……、上条|当麻《とうま》に「|御使堕し《エンゼルフオール》』を解除してもらう以外、この|戦闘《せんとう》を無傷で終わらせる事はできません。お願いします、こんな|馬鹿《ばか》げた戦いで結末を迎える前に、早く————)  神裂|火織《かおり》は悲痛とも呼べる表情で七天七刀を振り抜き回る。  死の一歩手前まで追い詰められながら、しかし神裂は自分を追い詰める『神の力』のために祈りを捧げるように。神裂は。|震《ふる》える子供が祈るように心の中で|呟《つぶや》いた。 (————お願いします。この天使を助けてください[#「この天使を助けてください」に傍点]、上条当麻[#「上条当麻」に傍点]) [#改ページ]    第四章 単一世界のラストウィザード      1  |神裂《かんざき》と『神の力』が一〇〇分の一秒単位の|乱撃《らんげき》という、一つ上の次元の攻防を繰り返している中、|上条《かみじよう》と|刀夜《とうや》はようやく海の家へ駆け込む事ができた。  だが、これは逃げた内には入らない。 『神の力』も、その『一掃』も、その気になれば世界のどこへ逃げたって|一瞬《いつしゆん》で上条|達《たち》を殺す事ができる、あれは、それぐらいかけ離れた相手なのだから。  事情を良く|呑《の》み込めていない刀夜は、肩で荒い息を吐きながら、 「と、|当麻《とうま》! 少し待ってくれ、休ませてくれないか。あれは何なんだ、今ここでは何が起きている? |一緒《いつしよ》にいた男はテレビで|観《み》た事があるような気もするし、これは映画か何かの撮影なのか?」  何も説明がされていない刀夜には当然の疑問だろう。が、上条にはこの|期《ご》に及んで事件の張本人が何も理解していない、という顔をしているのは|納得《なつとく》できなかった。  だが、思わず怒鳴りつけようとした所で、ふと上条の視界におかしなものが映った。床に置かれた丸いテーブルの陰に隠れるように、|誰《だれ》かがうつ伏せに倒れている。  |御坂美琴《みさかみこと》だった。 「な……、おい。ちょっと待て、|大丈夫《だいじようぶ》か! 何があったんだ!?」  上条は思わず走り寄って声をかけたが、反応がない。制限時間まで三〇分程度の余裕があるはずだが、まさかもう|得体《えたい》の知れない『一掃』の効果が現れ始めているのだろうか。  と、上条はその時何かに気づいた。  鼻につく、|微《かす》かな異臭———と、その正体に気づいて上条は慌てて呼吸を止める。  CHC13。クロロホルムだ。 「く……、あ…」  わずかでも吸い込んだ化学物質が脳に入り込んだのか、一瞬上条の意識がぐらりと揺らいだ。それでもごく微量だったためか、かろうじて意識が落ちるのだけは免れる。 「おい、当麻。どうしたんだ、おい!」  刀夜の心配そうな声を受けて、上条は片手を振って大丈夫だと答える。しかし、誰がこんな事をしたんだろう、と思う。クロロホルムはトリハロメタンの中でも最も有害なもので、発ガン性さえ確認されている。美琴が自分からこんなモノを吸い込むはずがない。 (|誰《だれ》が……?)  CHC13は極めて|揮発性《きはつせい》が高く、放置しておけば数分で気化してしまうはずだ。つまり、|美琴《みこと》を眠らせた相手はまだ近くにいるかもしれない。  |上条《かみじよう》は、不意にこの場にいないインデックスの事が気がかりになった。それどころではない事を知りながらも、それでも足は勝手に二階へ続く階段へ向かってしまう。  階段を駆け上がり、廊下を走り、|刀夜《とうや》の部屋のドアを押し開ける。  すると、やはりインデックスも同じように倒れていた。今度は|匂《にお》いを|嗅《か》いで確かめるといったような|真似《まね》はしない。規則的に、やけに規則的すぎる小さな寝息を確かめ、結論に至った。 インデックスも何者かに薬で眠らされている。この手の深い眠りは体を揺さぶった程度で覚めるものではない。 (だとすると、誰が?)  誰かも分からないが、その目的も分からない。意味もなく警戒する上条の元へ、刀夜がようやく追い着いてきた。倒れているインデックス——いや、刀夜の目には妻・|詩菜《しいな》に見えるのか——を見て、血相を変える。 「と、|当麻《とうま》。これは何だ、一休何が起きているんだ!」 「それはこっちの|台詞《せりふ》だ」上条は、今やらなければならない事を思い出した。「いいか、父さん。このままじゃ人が死ぬ。一人残らず人が死ぬんだ。この事態を止めるには『|御使堕し《エンゼルフオール》』を解除するしかない。アンタがやったんだ、アンタが止めるんだ!」 「当麻、遊んでいる場合じゃ———」 「分かってる! 遊んでる場合じゃねえんだよ! 自分で止め方が分かんねえのか、それなら良い! どこで『|御使堕し《エンゼルフオール》』をやったんだ、それだけ|答《こた》えろ!後はこっちでやるから!」  しかし、刀夜は困惑した表情で上条の顔を見た。  まるで、何を言われているのかサッパリ分からないとでも言っているように。 「当麻。だからそのエンゼルフォールというのは何なんだ? 何かのたとえなのか?」  言われて、上条は訳が分からなくなった。  刀夜がウソをついているようには見えない。本当に|魔術《まじゆつ》とは何の関係もなさそうに見える。もしかしたら、自分は何か大きな間違いでも犯しているのでは、と思い 「やめとけよ。カミやん、ソイツは何も知らないはずだ」  突然、部屋の入口から声がした。  上条は振り返る。刀夜も振り返って、そこにいる人物にギョッとした。  |土御門元春《つちみかどもとはる》。  刀夜には彼がテレビで見るアイドルにでも見えるのだろう。突然現れた男に目を白黒させている。 「ああ、そこらに倒れてんのはオレがやった。下手に一般人を巻き込む訳にもいかんのでな」  |土御門《つちみかど》の声は、いつもと違っていた。  日常の中にいたはずの土御門の姿に、|亀裂《きれつ》が走るような気がした。 「ふん。その顔じゃまだ真相には気づかん、と。致し方ない、カミやんは|魔術《まじゆつ》については|素人《しろうと》だしな」  亀裂が広がり、|硝予《ガラス》にように砕け散る。  そこにいるのは、|上条当麻《かみじようとうま》の知る土御門|元春《もヒはる》ではない。  もっと|得体《えたい》の知れない、正体の|掴《つか》めない。  一人の、魔術師だった。 「ちょっと、待て。土御門、お前父さんの様子がおかしいって事にも気づいてんのか? なぁ、もしかしたら『|御使堕し《エンゼルフオール》』の犯人ってのも別人なんじゃ———」 「いいや、犯人は|刀夜《とうや》だ。間違いなどあるはずもない。ただ、本人が『|御使堕し《エンゼルフオール》』を無意識の内に発動させてたから気づかんようだがな」  言われて、刀夜は|激昂《げつこう》したようだった。 「な、何が犯人だ! 初対面のくせに失礼だぞ、芸能人っていうのはみんなこうなのか!!」  上条は、そんな刀夜の様子を不思議そうに見た。彼が『|御使堕し《エンゼルフオール》』の犯人ならば、その|影響《えいきよう》を受けていてはおかしいはずなのだが……。 「そうだ。そうだよ土御門。父さんはただの一般人だ、お前|達《たち》みたいな魔術師じゃない。こんな世界規模の複雑な術式なんて、できっこねーよ。大体、大魔術には魔法陣なり|儀式場《ぎしきじよう》なりが必要って言ったのはお前じゃねえか。そんなもん、どこに———」 「実家に。カミやんの家に。自覚が足りなかったか?」  土御門の言葉に、上条は思わず絶句した。  言葉の意味が、分からなかった。 「言ったろ。、オレの専門は風水。そして風水とは、部屋の間取りや家具の配置によって回路を作り上げる魔術の事だ」 「な、に?」 「手っ取り早く言えば、部屋の間取りとか家具の配置によって魔法陣を作る術式という所か」  上条は、言葉の意味が理解できなかった。  何を言っているのか、ちっともさっぱり分からなかった。 「お、まえ、。ナニ言ってんだ、|馬鹿《ばか》じゃねえのか? あんな普通の家が得体の知れない儀式場になんかなるのかよ! そんな……そんな部屋の模様替え一つで魔法陣ができるって、そんなふざけた話があるかよ!」 「だから、あれは普通の家ではない。あそこにはあったはずだ、いろんなお守り、民芸品、オカルトグッズ。一つ一つは何の意味もない「|量販品《おみやげ》』だ、その力はあってもなくても同じぐらいの小さなもの。だが、単なる|偽物《レプリカ》だってバカにはできんよ。それが風水的、|陰陽《おんみよう》的に正しい位置に重なると相乗効果が生まれてくる」|土御門《つちみかど》は|何故《なぜ》か楽しそうに、「例えば、玄関の近くに背の低い|檜《ひのき》の木が植えてあったはずだ」 「知るかよ、そんなもん」 「あったんだ。巣箱のついた小さな木が。あれは宿り木だ。小鳥が止まって休むための。そして神社神道において、敷地の入口に宿り木を置く事には大きな意味がある、分かるかい、カミやん」 「な、何だよ」 「鳥居さ。鳥の居る所、読んで字のごとく。鳥居ってのは元々神の梗いの|霊鳥《れいちよう》を休ませるための|代物《しろもの》なんだ。それで、檜の鳥居と言うと|伊勢《いせ》神宮を思い出すんだが、これは一体何の偶然だ?」土御門は愉快そうに笑い、「まだある。南向きの玄関には赤いポストの置き物があった。『南』の属性色は『赤』だ。|風呂場《ふろば》には『水』の守護|獣《じゆう》たる『|亀《かめ》』のオモチャがあった。台所では冷蔵庫や電子レンジの上に、|虎《とら》か何かのオモチャがあった。『金』の守護獣の白い虎が。確かに一つ一つは安いものだが、あそこには軽く三〇〇〇を越えるお守りで|溢《あふ》れていたよ。それだけあれば、相乗効果で一つの大きな力になる。あの家は一つの神殿と化している」  言われても、|上条《かみじよう》には信じられない。  それどころか、土御門の言い分は何かの言いがかりにしか聞こえない。 「ふむ。おそらく上条夫妻が『|海《ここ》』へやってくるために家を空けた時点で、『|儀式場《ぎしきじよう》』は完成・起動したのだろうが」  土御門は興味深そうな、それでいて|酷薄《こくはく》な笑みを浮かべて刀夜を見る。 「まったく。カミやんの右手も例外だが、|刀夜《とうや》はそれ以上の番外だな。偶然にしてもあまりに素晴らしすぎる。まるで天然のダイヤモンドでも見ているような気分だったな、あれは。もっとも、その素敵な偶然性が幸か不幸かは判断できかねるがな」 「ふざ、っけんな! そんなの、|誰《だれ》がどう考えたってこじつけじゃねえか!!」 「そうさ、こじつけだ。———だからこそ、オレも不用意に手が出せなかった」  初めて、土御門から余裕のようなものが消えた。  上条がそれを不審に思っていると、 「なあカミやん。確かにオレが言った事は|全《すべ》てこじつけだ。ただの言いがかりだ。しかし実際に『|御使堕し《エンゼルフオール》』は起動した。奇跡的、とはまさにこの事だ。ところでカミやん、奇跡って信じるか。万に一つの偶然ってのを信じられるか?」 「何だよそれ、ある訳ねえだろ! |魔術《まじゆつ》なんて知らねえけど、電子回路とか精密機器ってのはテキトーじゃ完成しねえだろ!」 「けれど事実として『|御使堕し《エンゼルフオール》』は発動している。ならばこう考えられないか、カミやん。万に一つの奇跡を、一〇〇%確実に引き起こす方法が存在する[#「一〇〇%確実に引き起こす方法が存在する」に傍点]、と」  な、に……? と|上条《かみじよう》の思考が止まる。  そんな上条に、|土御門《つちみかど》は笑いかけて、 「上条宅にはいろんな『おみやげ』があった。それは別に『|御使堕し《エンゼルフオール》』を作ろうとして配置したものではなかった。|素人《しろうと》の|刀夜《とうや》にしてみれば、たまたまの偶然、何となく選んで飾っておいただけだろう。「|御使堕し《エンゼルフオール》』の|魔法陣《まほうじん》は無数に配置された『|おみやげ《レプリカ》』によってたまたま組み上げられたものにすぎなかった」  しかし、と土御門は続けて、 「たとえ『|御使堕し《エンゼルフオール》』が発動しなかったとしても、|他《ほか》の大魔術が発動していたはずなんだ。ほんの少し、『おみやげ』の配置が変わっただけで、魔法陣という『回路』が切り替わって」土御門は|掌《てのひら》を返して、「だからこそ、あの魔法陣に『失敗』はない。『おみやげ』をどう配置した所で[#「配置した所で」に傍点]、必ず何らかの大魔術が発動するんだから[#「必ず何らかの大魔術が発動するんだから」に傍点]」  今回発動したのは、たまたま『|御使堕し《エンゼルフオール》』だっただけ。  発動したのが『|御使堕し《エンゼルフオール》』でなければ、全く別の事件が起きていただけという話。 「カミやん、何でオレが上条宅でカミやんに全部話さなかったと思う? 今の所は何とか安定している魔法陣を|壊《こわ》されてはたまらないからだ。『|御使堕し《エンゼルフオール》』なんざまだマシな方だ、あそこには『|極大地震《アースシエイカー》』に『|異界反転《フアントムハウンド》』、『|永久凍土《コキユートスレプリカ》』———発動すれば国の一つ二つが地図から消えるような|戦術魔法陣《タクテイカルサークル》がゴロゴロあったし……それ以上に、このオレにも正体が分からないような|創作魔法陣《オリジナルサークル》さえ存在した。分かるか? 素人のカミやんならともかく、魔術師———それも風水のエキスパートである土御門さんにさえ分からないような魔法陣だ。あれは発動しちゃならない、あれは決して発動しちゃいけない類のものなんだ」  上条が『おみやげ』に触れる事で『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めてしまえば、  その|瞬間《しゆんかん》、スイッチが切り替わったように別の大魔術が発動してしまう。 「今にして思えば、あれはかなり危険な状態だった。上条|当麻《とうま》、|神裂火織《かんざきかおり》、ミーシャ=クロイツェフ、|火野神作《ひのじんさく》、そして土御門|元春《もとはる》———カミやんの家にいた|誰《だれ》かが一つでも『おみやげ』を移動させてしまったら、その時点で他の陣に切り替わっていたはずなのだから」  上条はようやく思い出した。土御門がやけに、実家から早く離れようとせかしていた理由。あれはここにあったのだ。  しかし、上条はそれでも否定の材料を探し出そうとした。 「けど、けど……そうだ。父さんは一般人だ。普通の会社員なんだ。魔術を使うには魔力がいるんじゃねえのか? 父さんに魔力の扱い方なんて分かるはずがない!」 「必要ないんだよ、カミやん。前に言ったはずだ、風水ってのは大地の『気』をエネルギーに式を動かす。人間の魔力など関係ない」土御門は人差し指を振って、「まあ、サイクルとしては『|大地の気《はつでんき》」↓『|上条刀夜《へんあつき》』↓『|おみやげ術式《でんしかいろ》』というルートを通ってる。刀夜が重要な『|共犯《じゆつしや》』である事には変わりはないが」  |上条刀夜《かみじよりつとうや》がハンパに『|御使堕し《エンゼルフオール》」の|影響下《えいきようか》にあるのは、おそらくそのため、なのか?  刀夜は『|御使堕し《エンゼルフオール》』を起こした犯人の一人だが、『|主犯《マスター》』ではなく『|共犯《スレーブ》』だった。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』は人の手を使って起こされたモノではなく。  その『|主犯《メイン》』は、風水によって|悪魔《あくま》的に整えられた「|世界の仕組み《サーキツト》』そのものだった。  ちくしょう、と上条は絶句する。  |土御門《つちみかど》はそんな上条の様子など気にも留めず、 「あの家は、無数の切り替えレバーがあるレールみたいなものでね、『|おみやげ《きりかえレバー》』一つを|壊《こわ》すと|他《ほか》の『|魔法陣《レール》』に切り替わってしまう」土御門はすらすらと、「だからこそ『|御使堕し《エンゼルフオール》』を|破壊《はかい》するには『おみやげ』を一つずつ、なんて言ってないで、魔法陣全体を|一撃《いちげき》で破壊する必要があった。それで、いったん、カミやんを『魔法陣』から遠ざけて、そこのオッサンの身柄も保護してクロイツェフとも和解して、|神裂《かんざき》に協力を仰いでもう一度実家に戻って『魔法陣』を撃破……ってのがベストな未来予想図だったんだが、ちょいとスケジュールを詰め込みすぎてこの有り様だ」  くそ、と上条は毒づいた。 「何だよ、それ。何でこんな事になっちまってんだ。父さんは魔術の事なんて本当に何も知らないんだぞ。それが、何で、何がどう転がったら、こんな、—————」 「理由なんかないだろ」  絶望する上条に、しかし土御門は平然と言ってのけた。 「理由はない、原因はない、理屈もない、理論もない、因果がない、目的がない、意味のない、価値のない、まったくもって何もない。カミやん、アンタなら分かるだろ」  そんな事を言われても、上条には何も分からない。  戸惑う子供のような上条の顔に、土御門は残酷に笑いかけて、 「結局[#「結局」に傍点]。単に運が悪かったってだけの話だろうが[#「単に運が悪かったってだけの話だろうが」に傍点]」  上条は、その言葉の意味が分からなかった。、  凍りついた頭はしかし、ゆっくりと氷を溶かすように時間を空けて思考を再開させる。  運が悪かったから。  不幸だったから。  つまりは、何だ? それが結論なのか? |火野神作《ひのじんさく》がとばっちりを受け、『神の力』が暴れ回り、あと三〇分もしない内に地球の半分が焼き尽くされ、上条刀夜が事件の犯人のように扱われてきた、その理由は———たったそれだけの、ちっぽけな言葉になってしまうのか? 「……ふざ、けるなよ。テメェ」  |上条《かみじよう》は首を横に振った。自分がどんな感情を持ってどんな表情を浮かべれば良いのかも分から。ないまま。  それでも、『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めなければ、と思った。  運が悪かったから、不幸だったから。  そんなクソつまらない言葉だけで、済ませられる問題ではないのだから。 「|御使堕し《エンゼルフオール》』の|魔法陣《まほうじん》は上条の実家そのものだったのだ。ならば|贅沢《ぜいたく》は言っていられない。今度は何の魔法陣が起動するか分からないが、とにかく実家へ向かって『|御使堕し《エンゼルフオール》』の魔法陣を|破壊《はかい》すれば———とりあえず、『神の力』の『一掃』は止められる! 「やめとけよ、もう遅い」だが、|土御門《つちみかど》は冷たく言い放った。「カミやん|家《ち》までどれだけ距離があったか覚えているのか? 今からダッシュしたって間に合わんよ」 「じゃあどうしろってんだよ! できるかどうかじゃなくて、やるしかねえだろ!! それとも何か、|他《ほか》に何か方法があるって言うのか!?」 「それは、あるだろ」  土御門はニヤニヤと、ニヤニヤと笑って即答した。  どうしてそんな事も分からないのか、という顔で一歩部屋の中へ踏み込んできて、 「この場にいる誰かさんが犠牲になってくれればな[#「この場にいる誰かさんが犠牲になってくれればな」に傍点]」  上条はゾッとした。  言われた事の意味も理解できないまま、しかし体は|刀夜《とうや》を|庇《かば》うために動いていた。刀夜は状況を理解していないものの、自分の身に危険が及びつつある事に気づき始めているようだった。  そんな上条を見。て、土御門は笑う。  笑って言う。 「いやあ、本当に良かった。|神裂《かんざき》がバカ天使とぶつかってくれて、、あれは自分の前で殺人が起きる事が許せない人間でな、こんな事を言えば事情を問わず止めに入るに決まっている」  言いながら、土御門はさらに一歩踏み出してくる。  上条は胃の底に落ちる重圧に耐えながら、背中で刀夜を押すように一歩下がる。 「分かるだろう、カミやん。、こうなってしまったらもう|犠牲《ぎせい》なしには収拾できない。なに、犠牲と言っても一人きりだ。コイツはオレが保証する。だからカミやんは心配しなくていい、カミやんは[#「は」に傍点]」  土御門は笑いながら、その両の手をゆらりと揺らした。その長身に見合う、異常なほどにリーチの長い腕を。 「しかし、土御門さんも困った。何せ、今のオレには魔術が使えない。まったく、こんな状態で仕事をしろだなんて教会も|面白《おもしろ》い注文をつけてくる、そう思うだろう、カミやん?」  |面白《おもしろ》そうに、心の底から面白そうに|土御門《つちみかど》は言う。  そうして、|上条《かろじよう》はようやく土御門が自分の事をなんと呼んでいたかを思い出した。  |ウソつき《ス パ イ》。 「く、そ。ふざけんなよ」上条は、歯を食いしばって、「なめやがって。そんな目的のためになんか、殺させねえ。やらせてたまるか!」 「ふうん。別にカミやんが気にするほどの事でもないんだけどな。他人の事なんざどうだっていいだろうに、他人の事なんざ。なあ?」  土御門の言葉が、心底|馬鹿《ばか》にしたように聞こえた。  自分の父親が目の前で殺されると分かって、気にしない人間がいるか。 「くそったれが……。どけよ、土御門。|邪魔《じやま》をするな! 今から実家に戻れば|俺《おれ》の右手で|魔法陣《まほうじん》を|壊《こわ》せるかもしんないだろ!!」 「分かってないな。それではダメなんだよ。回路たる魔法陣を|一撃全壊《いちげきぜんかい》させるか、動力たる術者を殺さない限りは。大体、今から頑張ったって実家に着く前にリミットだぞ?」 「そんなもん、やってみなきゃ分からねえだろ!」 「そんな不確かなものを信用しろと? この裏切り者に?」  上条の|噛《か》み締めた奥歯が砕けそうになる。  やってみなければ分からない事を最初から否定して、一番簡単で一番最悪な方法で決着を着けようとする土御門。こんな人間にはもう会話は通じないと思う。こんな人間にはもう何を言っても届かないと思う、  上条は右手の|拳《こぶし》を握って、一歩前へ出た。  そんな上条を見て、土御門|元春《もとはる》は|哀《あわ》れむように静かに笑ってこう言った。 「やめとけよ、カミやん。|怪我《けが》するだけだぞ」 「うるっせえな、一秒でも時間|無駄《むだ》にできねえんだ! 一撃で沈めてやる!!」  上条は決して魔術師という種類を|侮《あなど》っている訳ではない。ステイルやアウレオルス=イザードの力を|目《ま》の当たりにした上条には、その恐ろしさは骨身に|染《し》みている。  だが、今の土御門は魔術なんて使えない。  学園都市の超能力開発を行った土御門は、魔術を使う事ができなくなっているはずだ。 「ふうん。そんなものが、プロと|素人《しろうと》の差を埋められる理由になるとでも」対して、土御門はとても気軽そうに言った。「最後に確かめておくが、カミやん。もう、これ以外に方法がなかったとしても[#「これ以外に方法がなかったとしても」に傍点]。それでもオレを止める気か?」 「……、」  上条は、奥歯を噛み締める。  視界の隅で、|刀夜《とうや》が|緊張《きんちよう》した顔をしているのが分かった。  おそらく刀夜には、上条や土御門が何を言っているのかは理解できていない。ただ、それが非常事態である事、そしてそこに自分が|関《かか》わっている事ぐらいは察しているかもしれない。  と、そんな|刀夜《とうや》の顔色を見て、|土御門《つちみかど》は|残酷《ざんこく》な笑みを浮かべた。 「ああ、お前も自分の立場が分からず置いてきぼりってのは|辛《つら》いだろう。詳しい仕組みは言っても分からんと思うから、結論だけ言うが」  |上条《かみじよう》はギョッとした。 「やめ、————」  慌てて土御門の声を押し|留《とど》めようとするが、遅かった。 「簡単に言えば、あと三〇分もしない内に、大勢の人が死ね。上条刀夜、|全《すべ》てお前のせいでな」 「やめろ!!」  |瞬間《しゆんかん》、上条は叫んでいた。  だが、その慌てた叫び声こそが、上条刀夜に重たい|衝撃《しようげき》を打ちつけた。  土御門は、そんな父子の事を楽しそうに眺めていた。  本当に、楽しそうに。 「さあ、どうする? 止めるか、|否《いな》か」 『|御使堕し《エンゼルフオール》』を一刻も早く止めなければ、『神の力』の『一掃』が世界を焼き尽くす。 『神の力』の足止めをしている|神裂《かんざき》だって、戦いが長引けば長引くほど危なくなる。  それ以外に、方法がなければ。  世界の隅から隅まで探しても、もうそれしか方法がなければ。 「……、そんなもの。決まってる」  そうして、上条は決断した。 「そんなものは[#「そんなものは」に傍点]、止めるに決まってる[#「止めるに決まってる」に傍点]!」|獣《けもの》のように、|吼《ほ》えるように、「認めない。|誰《だれ》かが|犠牲《ぎせい》にならなきゃいけないなんて残酷な法則があるなら、まずはそんなふざけた幻想をぶち殺す!!」  そっか、と土御門は笑った。  一瞬だが、その表情は確かに子供のように笑っているように、見えた。 「それではこうしよう、カミやん」  笑みは一瞬で消える。  両者の距離は三メートル強。完全に互いの間合いの中で土御門は極めて気軽そうに、 「一〇秒。耐える事ができたら、|誉《ほ》めてやる」  ドン!! という壮絶な土御門の足音。  土御門は一瞬で三メートルの距離を詰める。だが、その足音は床を踏みつける音ではない。  足。  |上条当麻《かみじようとうま》の足の親指を踏み|潰《つぶ》す、壮絶な反則技の足音。 「が……、あ!?」  足に釘を打ち付けるような壮絶な激痛に上条は後ろへ下がろうとするが、足は|縫《ぬ》い止められている。ガクン、と止まる己の体に、上条は思わず踏みつけられた自分の足に視線を落とす。  だが、それは致命的な間違い。  真下に落した上条の視界の死角になるように、真上から|土御門《つちみかど》の頭突きが振り下ろされた。 その硬い額が、上条の無防備な|頭蓋骨《ずがいこつ》のてっぺんを強打する。  ガゴン!! という激突音に上条の足が崩れそうになる。まるで、コンクリートブロックかガラスの灰皿でも思い切り振り下ろされたような|衝撃《しようげき》だった。  しかし、土御門は止まらない。  その右手がようやく動く。大きく外側へ向かう土御門の|拳《こぶし》が、上条の側頭部を|狙《ねら》うのがかろうじて見えた。ボクシングで言うならフック。水平にカーブする軌道で、上条のこめかみを狙う必殺必中の|拳闘技《けんとうぎ》。  足は踏まれて後ろへ下がれない。|朦朧《もうろう》とする頭ではあれを見切って|避《さ》ける事など考えられない。上条はとっさに己の手で側頭部を守るようにガードして、  シュン、と拳が空振りした。 (……、?)  一秒にも満たない空白だが、上条は困惑した。鼻と鼻がぶつかるほどの近距離で、拳を外すも何もない。なのに、|何故《なぜ》この近距離で土御門は拳を外したんだろう。  そう、外れた[#「外れた」に傍点]のではなく外した[#「外した」に傍点]のか。  その答えは一秒も待たずにやってきた。上条の側頭部を通り越した土御門の拳が、回り込むように上条の後頭部へ向かったのだ。ちょうど、首に手を回して抱き締めるように。  後頭部。  空手やボクシングでさえ、後遺症の残る危険があるとして反則技に認定している急所へ。  ゴドン!! という壮絶な衝撃。 「がっ———ばっ、ァ!?」  その|瞬間《しゆんかん》、一撃で上条の全身から力が消し飛んだ。その体が真下に沈むように崩れ落ちる。さらなる土御門の拳が、偶然にも崩れ落ちた上条の真上を空振りする。  だが、上条はそのチャンスを活かせない。  あまりにも反則的に凶暴な強打のせいで、持ち直す事もできずに床に倒れてしまう。二本の腕が不規則に|震《ふる》えた。バランス感覚を失ってどの方向へ立ち上がって良いかも分からず、腹から力を抜くと胃袋の中身が逆流しそうになる。  |錬金術師《アウレオルス》や|一方通行《アクセラレータ》の|攻撃《こうげき》が、体全体の表面を巨大な鉄板でまんべんなく|殴《なぐ》りつけるようなものなら、|土御門《つちみかど》の一撃は人体の骨格上必ず生まれる『急所』の奥深くに鉄の|杭《くい》を|叩《たた》き込むようなものだった。  前後左右上下遠近。確かに土御門は正面に立っているはずなのに、まるで何人もの人間に取 り囲まれて一斉に殴られているような、そんな|錯覚《さつかく》さえ感じてしまう。 「三秒すら、|保《も》たんか」  そんな|上条《かみじよう》を見下ろすように、土御門は楽しそうに言った。  これが、上条と土御門の差。  プロだから|素人《しろうと》に対して余裕とか|隙《すき》が生まれるとか、そういう話ではなく。  隙を見せてなお、絶対に埋まらない実力の壁こそが、素人とプロの違い。  少年野球のエースの小学生だって、本物のメジャーリーガーには|太刀打《たちう》ちできない。  中学の柔道部の主将だって、オリンピックの金メダリスト相手では勝負にならない。 「……ぅ、あ……っ!!」  上条は、それでも必死に立ち上がろうとする。  指先一本を動かすのがやっとの状況で、それでもなお立ち上がろうとする。 「|無駄《むだ》。カミやん、人体には構造的に、どれだけ訓練を積んでも絶対に|鍛《きた》えられない場所ってのが確かに存在するものだ。詳しくは|解体新書《ターヘルアナトミア》でも参照しろ」  つまりは、それが急所。 「なぁカミやん。エイズは気合で治せんし、エボラは根性で|癒《いや》せん——|誰《だれ》でも分かるだろう? それと同じだ、今のカミやんは精神論うんぬんではなく、解剖学的に立てる状態ではない」  反則技。  かつて|数多《あまた》の先人|達《たち》がその有効性を認めながら、あまりに残酷な|破壊力《はかいりよく》に人としての良心が使用をためらわせた技巧の数々を、土御門|元春《もとはる》は|敢《あ》えて己の|刃《やいば》として選択した。  それを|卑怯《ひきよう》だとか汚いとか言われた所で、彼は|眉《まゆ》一つ動かさないだろう。  土御門は命を|賭《か》けて戦場に向かい、  土御門が敗北する事は、彼が守りたかった|全《すべ》てのものを失う事を意味しているのだから。 「……、——————ぅ」  上条は、己を見下ろす強大な『敵』を見上げる。  対して、土御門は場違いなほど優しい笑みをもって上条を見下ろした。 「なぁカミやん。今のオレには何もない、本当に何もないんだ。元々あった|魔術《まじゆつ》の才能はとっくの昔に枯れ果てたし、付け焼刃の超能力なんざチャチな|無能力《レベル0》止まり。学園都市に|潜入《せんにゆう》するためとはいえ、土御門さんは魔術師としてもう終わってた。もう戦える状態ではなかった」  だけど、と土御門は言った。 「———それでも、敵は待ってくれなかった」  だから、と|土御門《つちみかど》は告げた。 「———そうして、オレは何が何でも勝たなければならなかった」  その静かな言葉の中に、|上条《かみじよう》は|薄《うす》ら寒い冷気のようなものを感じて思わず|怯《ひる》んだ。  生まれ持った才能はもはやどこにもない。努力をした所で何一つ|報《むく》われない。それでも勝たねばならないという獄炎のような執念こそが、土御門の力。|煉獄《れんごく》のような戦場で|拳《こぶし》を熱し、地獄のような|死闘《しとう》で拳を打ち|鍛《きた》え、|数多《あまた》の傷と共に手に入れたのが|死突殺断《しとつさつだん》の反則絶技。  反則である事など大前提。  土御門|元春《もとはる》は、|法則《ルール》に反してでも勝利を|掴《つか》みたかったのだから。 「—————、く……」  そうまでして土御門が勝利を掴みたかった理由は何か。  そんなものは、いちいち本人の口から聞かなくたって上条には分かる。  きっと、土御門には守りたいものがあった。  たとえ泥を|這《は》ってでも。血をすすってでも。|誰《だれ》を|騙《だま》しても何を裏切っても、それでも守りたい何かがあったに違いない。だからこそ、土御門はどんな汚れ仕事もためらわない。絶対に。 「……、————は————」  |呆然《ぼうぜん》とする上条に、土御門はゆっくりと言う。 「勝てるのか、カミやん」聞き分けのない子供を|論《さと》すように、「それでも勝てると思えるか? プロとか素人とか[#「プロとか素人とか」に傍点]、そんな小さな事ではなく[#「そんな小さな事ではなく」に傍点]。この土御門元春という人間に、ぬるま湯に|浸《つ》かり続けた高校生・上条|当麻《とうま》で|太刀打《たちう》ちできると思ってんのかよオマエは?」  上条は、答えられなかった。  答え、られなかった。 「寝ていろ、|素人《しろうと》が」  吐き捨てるような土御門の言葉。  すでに敗北した上条をまたいで、土御門は|刀夜《とうや》に向かって一歩。 (く。そ……ッ!!)  上条は土御門の背を|睨《にら》みつけながら、歯を食いしばって立ち上がろうとした。だが、腕は|震《ふる》えるように動くのが精一杯で、とても自分の体重を支えられない。それどころか、下手に力を入れると頭から血液が抜けてしまうような|錯覚《さつかく》にさえ|陥《おちい》ってしまう。  それでも、立たなければならない。  立たなければ、ならないのに!! 「もういい」  そんな上条に向かって、不意に声がかけられた。  土御門のものではない。  もっと優しく、それでいてどこか力強い声は、自分の父親のものだった。 「もういい。立たなくて良い。|当麻《とうま》、ここはお前が傷つけられる場面じゃない」 「なるほど。ご父兄は良い理解力をお持ちでいらっしゃる」  |土御門《つちみかど》の顔は見えない。だが、その表情は確実に笑っているだろう。  しかし、それを見てなお。  |上条刀夜《かみじようとうや》は、一歩たりとも|怯《ひる》まなかった。 「事情は|呑《の》み込めないが、私に用があるなら好きにすれば良い。だが、これ以上当麻には手を嵐すな。当麻は関係ない。いや、あったとしても、当麻には手を出させない。絶対にだ」 「……、 へぇ」  土御門は|面自《おもしろ》そうな声をあげた。  刀夜は、|恐《こわ》くないはずがない。刀夜はただの会社員だ、プロの|戦闘《せんとう》どころか路地裏のケンカにすら|震《ふる》え上がるほどの|素人《しろうと》のはずだ。 「重ねて言うが、これ以上当麻には手を出すな。それは私が認めない。この私が断じて認めない。それをやれば、私は一生お前を許さない。いいか、一生だ」  それでも、刀夜は言う。プロの|魔術師《まじゆつし》に正面から立ち向かう。  理由など語る必要もない。それがきっと、刀夜の思い描く父親の姿だったからだ。 「笑わせる。まさか、本気で怒った程度でオレに勝利できるとでも?」 「思わないさ」刀夜は|自嘲《じちよう》に笑って、「私はただの中年だ。|煙草《タバコ》と酒で肺と肝臓はやられ、運動不足がたたってあちこちガタが出始めて困っているぐらいだからな」  だが、と刀夜は魔術師を睨みつける。  目を|逸《そ》らす事なく|眼《め》を背ける事なく、真正面から真正直に、 「それでも私はお前を許さない。たとえ|敵《かな》わずとも、何度敗北しようとも、絶対に許さない。素人だからこそ[#「素人だからこそ」に傍点]、私には引き際も交渉の余地もない[#「私には引き際も交渉の余地もない」に傍点]。何十年でも何百年でもお前を追う。たとえ死して骨となっても決して|諦《あきら》めない。いいか、分からないようなら一つだけ教えてやる」  言って、上条刀夜は一歩、挑むように前へ出た。  魔術師・土御門|元春《もとはる》と対等な位置に立つために。 「私は上条当麻の父親だ。私はその事を、誇りに思って生きている」  上条は、その言葉を聞いていた。  そうして、思った。  上条刀夜は変なおみやげばっかり買ってくるし、いい|歳《とし》して母さん(ここではインデックスだったが)とベタベタしようとするし、どこか|頼《たよ》りない印象があるし、きっと上条の抱えている|記憶喪失《きおくそうしつ》だの魔術世界だのといった問題には何一つ力になれない。この中年男は、はっきり言って腕力だけならそこらの中学生以下だと思う。戦闘にむいては話にならない。  だけど、|上条刀夜《かみじようとうや》は父親だった。  これ以上ないほど強く、|頼《たよ》りになる、父親だった。 「……、っ!!」 それなのに、|黙《だま》って見ているのか。  こんな魔術師ごときに殺されるのを[#「こんな魔術師ごときに殺されるのを」に傍点]、黙って見ているのか[#「黙って見ているのか」に傍点]。 (……ゆる、さない〉  上条の|唇《くちびる》が動く。音にもならない|呟《つぶや》きが、心の中だけに|響《ひび》き渡る。  その指が、ピクリと動く。 (……、そんな、|真似《まね》は)  歯を食いしばる。断線したように言う事を聞かない筋肉を、無理矢理に動かす。 その指に、床を|掴《つか》むように力が加わる。 (そんな真似は、この|俺《おれ》が許さない!!)  ビキリ、と上条の体の中で|亀裂《きれつ》が走るような音が鳴り響いた。  だが、上条は気にしない。元よりまともな痛覚が残っている体ではない。  ギチリ、と、腕立て伏せのように、かろうじて上体だけを起こしていく。 「やめろ、|当麻《とうま》」  刀夜が止めるように言った。プロの|魔術師《まじゆつし》に向かって一秒さえ目を|逸《そ》らさずに宣戦を布告したくせに、ボロボロの上条を見る目は今にも泣き出しそうに見えた。 「父さんなら良い。お前|達《たち》の会話から、何となく自分がひどい事をしでかしたんだという事も理解している。だから当麻、お前はもう立たなくても良い」  悲痛な顔でそんな事を言われて、今さら止められるはずがなかった。  歯車の外れた人形のようにギチギチと|蚕《うごめ》く上条に、刀夜は耐えられないという感じで、 「もう良いんだ。お前が死にもの狂いで私を守った所で、救われる人間などどこにもいない。だから当麻、お前は立つな。お願いだから、そのままで———」 「ふざ……、けんじゃねえよ」  上条は、|遮《さえざ》るように言った。  |驚《おどろ》いたような顔をする刀夜に、上条は歯を食いしばって言う。 「救われる人間なら、ここにいる。アンタが生きてくれた方が、俺は|嬉《うれ》しいんだ!!」  刀夜の中で時間が止まったように、父親の顔から動きが消えた。  結局は、それだけの話。  上条当麻は、いかなる理由があっても上条刀夜に生きていて欲しいというだけの話。  だって、刀夜は何も悪くない。  もちろん、悪気がなければ許される次元の話でないのは分かっている。そんな事を一つ一つ問い|質《ただ》している時間がないのも十分に分かっている。  だけど、|刀夜《とうや》は何も悪くない。  ただ、自分の子供が『不幸』だったから。何の理山もなく何の悪さもなく、生まれた時から『不幸』だったから。それをどうにかしたくて『お守り』を買い|漁《あさ》っていただけなのに。  |上条《かみじよう》刀夜は、自分の子供を守りたかった。  たったそれだけのはずだ。  それだけの、はずだったのに!  それなのに、そんな刀夜の気持ちは、たまたまの偶然で『|御使堕し《エンゼルフオール》』を生み出してしまって。何の理由もなく犯人呼ばわりされて『不幸」にも命を|狙《ねら》われるだなんて。  不幸にも。  不幸にも不幸にも不幸にも不幸にも!! 「く、—————」  そんなつまらない、どうでも良い一言のために刀夜が殺されるだなんて耐えられない。いや、どんな理由があっても許せない。上条は己の足に力を込める。もう医学的に動けないはずの足に。それでも死体になっても立ち上がると言わんばかりに。  その口で、その眼光で、自分を見下ろす|魔術師《まじゆつし》を|睨《にら》みつける。  ———いいか、分からないようなら、一つだけ教えてやる。  ———|俺《おれ》は上条刀夜の子供だ、俺はその事を、誇りに思って生きているって事を! 「お、ぉぉおおおおおおおおァァあああああああああああああああああああああ!!」  そうして、上条|当麻《とうま》は天に|吼《ほ》えるように立ち上がった。  たったそれだけで、ビキバキと体中の筋肉骨格内臓血管が悲鳴をあげた。  だが、それが何だと言うのか。  そんなものが、上条当麻を止める理由にでもなると思っているのか。  上条は手負いの|獣《けもの》さながらに目の前の敵を睨みつける。  目の前の敵を。  恐怖の対象ではない、絶望の壁でもない。  自分のこの手で、倒すべき敵を。 「不発か……? いや、|後頭部攻撃《プレインシエイカー》の直前に一歩前へ踏み出した、度胸の|賜物《たまもの》か」  |土御門《つちみかど》はわずかに|驚《おどろ》いたような顔をして何かを言ったが、上条はもはや答えなかった。  そんな上条の眼光を見て、土御門は口の端を|吊《つ》り上げて、笑った。 「へぇ、ようやく良い|眼《め》になったな。それでこその対等だ。いいぜ、認める。これより上条当麻は|土御門元春《つちみかどもとはる》の『敵[#「敵」に傍点]』だ」  土御門は余裕の表情でそんな事を言いながら、|上条《かみじよう》と向かい合った。間にいる|刀夜《とうや》が|邪魔《じやま》だと言わんばかりに、土御門は刀夜を横合いへ突き飛ばす。刀夜はそれでも土御門を止めようと したが、 「汚ねぇ手で父さんに触んじゃねえよ! ぶち抜かれてえのかテメェは!」 『敵』であるはずの土御門の行動よりも、『味方』であるはずの上条の言葉によって、刀夜の動きがビクリと止まっていた。  狭い部屋の中で、上条と土御門は間合いを取る。上条の具合を考えれば時間を稼ぐだけで勝手に自滅するだろうが、土御門がそれを考えているようには見えない。  敵は必ず殺す。|瞬《まばた》きすら許さずに殺す。  まるでそれが敵対する者に対する|礼儀《れいぎ》だとでも言わんばかりに、今の土御門の顔から笑みが消えた。その長い手を、ボクシングのようにゆらりと構える。全身|全霊《ぜんれい》の意思表示。プロが|素人《しろうと》に対して行うにはあまりに無慈悲で反則的だが、上条は対して小さく笑った、全力を出すという事。それが土御門なりの敬意のように見えたからだ。  上条は、ほとんど力の入らない両手で|拳《こぶし》を作り、静かに構える。  一秒の空白。  上条と土御門は、互いの拳を一度だけ、小さく触れて  |刹那《せつな》。|火蓋《ひぶた》が、落とされた。  ダン! と土御門が一歩で上条の|懐《ふところ》へと飛び込む。  今度は上条が片足を後ろへ引いたため、足を|潰《つぶ》される事はなかった。  だが、懐へ飛び込まれた事に変わりはない。  鼻と鼻がぶつかるほどの超至近距離で、土御門が拳を放つ。横に半月を描くような、大振りな右手のフック。———に見せかけた、|後頭部攻撃《ブレインシエイカー》! 「……っ!!」  上条はとっさに左手を自分の頭の後ろに回すようにして後頭部を守る。バランス感覚を|司《つかさど》る小脳を直接揺さぶるあの|打撃《だげき》は、|喰《く》らえば一撃死は免れない、まさしく本物の必殺技だ。  だが、予想に反してガードした左手には|衝撃《しようげき》がやってこない。  見れば、土御門は振りかけた右手を途中で戻し、別の攻撃に転換している。 (フェイント!?)  必殺技とは、使えば必ず相手を倒せる技ではまだ甘い。使わずとも、その名を出すだけで相手が|震《ふる》え上がり道を|譲《ゆず》るほどの完全絶技。それこそが『必殺』の名を冠するのだ。  だが、上条が気づいた時にはもう遅い。超至近距離でわざと手を一本後ろへ回しているのだ。がら空きの体を|狙《ねら》ってくださいと言わんばかりの無防備さだった。  対して、|土御門《つちみかど》の行動には|全《すべ》てにおいて|無駄《むだ》がない。  対となる左手は|拳《こぶし》を握らない。開いたままの平手が、恐るべき速度で弧を描いて|上条《かみじよう》の耳に|叩《たた》きつけられた。バヂィ! と、耳を通して鼓膜や|三半規管《さんはんきかん》へ直接|衝撃《しようげき》が走り抜け、上条の両足が力を失った。バランス感覚を殺されたのだ。 「げ……ぐ、ぁ———ッ!?」  一撃で足から力が抜ける。全身から冷たい汗が噴き出した。  がくんと|膝《ひざ》から崩れそうになった上条へ、|間髪《かんはつ》入れずに土御門の右腕が|襲《おそ》いかかる。拳ではなく、|金槌《かなづち》のような|肘打《ひじう》ち。上条にはそれが見えていても、|疲弊《ひへい》しきった手足に命令を送る事ができない。土御門の強烈な右の肘は、顔でも胸板でもなく、首に向かって勢い良く突き刺さる。  ドン!! という衝撃。  上条の呼吸が止まる。気管が|潰《つぶ》れなかったのは奇跡と呼んでも良い。  膝が崩れる。  こらえようとしても、耐え抜こうとしても、これ以上力が入らない。 「……が、ァあッ!!」  それでも、上条は拳を握り締めた。  床に向かって崩れながら、それでも|唇《くちびる》を|噛《か》み締めて土御門の顔面へ右拳を放つ。  決死の拳は、全力をもって土御門の顔而へと直撃した。  けれど、ぽすん、という小さな音しか鳴らなかった。  もう、その程度しか、力は残っていなかった。  |黙《だま》っていても床に崩れ落ちていく上条に、しかし土御門は勢い良く膝を突き上げて、上条の|水月《みぞおち》へ真下から真上への直上打撃を浴びせる。  猛牛の突き上げのような|膝蹴《ひざげ》りに、上条の体が浮いた。  浮いた体は、バランスが保てず、そのまま床へと勢い良く激突した。  土御門は言う。 「一〇秒だ。|誉《ほ》めてやるよ、カミやん」  上条は、答えられない。  今度こそ、指先一つ動かせない。ピクリと|震《ふる》わせる事すらできない。いや、そもそも今まで立っていられたのが不思議なのだ。今の土御門の攻撃は、手術室で麻酔を受って胸を開胸した患者に対して膝蹴りを喰らわしたようなものなのだ。  生きている事が奇跡のような状況で、  それでも上条は|諦《あきら》められず、自分を見下ろす土御門を|睨《にロり》みつけた。 「   。     !!」  |刀夜《とうや》が、何かを叫びながら近づいてきた。顔の|側《そば》でしゃがみ込んで何かを叫んでいるが、上条の耳には届かない。ただ、その顔が今にも泣きそうなのが分かった。バカだ、と|上条《かみじよう》は思った。|刀夜《とうや》が今一番気にするべき事は、自分の命であるはずなのに。  失いたくない。  上条は思う、上条は心の底から思う。この父親を失いたくない。自分の命が今まさに|狙《ねら》われている最中に、子供の事しか考えられないような|馬鹿《ばか》げた父親を、絶対に失いたくない。  なのに、指先一つ、体は動いてくれない。  刀夜が何かを叫びながら、|拳《こぶし》を握って|土御門《つちみかど》へと突っ込んだ。上条はそれを見ていても手足を動かす事はできず、歯を食いしばる事しかできない。土御門は、まるで顔の前に飛んでくる羽虫を追い払うように、向かってくる刀夜の顔の横を引っ|叩《ぽた》いた。たったそれだけの|攻撃《こうげき》に、刀夜の体は真横に揺れて、そのまま床の上へ倒れ込む。  手加減された一撃———に見えるが、違う。土御門は刀夜の耳を正確に打ち、鼓膜と|三半規管《さんはんきかん》へ直接ダメージを与えて気絶させたのだ。  体の内側から|衝撃《しようげき》を加えられた刀夜は、動かない。  もう、動かない。 「……っ!」  上条が倒れたまま土御門を|睨《にら》みつけると、彼は逆に上条を見下すように、告げた。 「なあカミやん。もう無理だよ、これにて時間切れだ。今からじゃフェラーリ乗り回したって時間内にカミやん|家《ち》に|辿《たど》り着くのは不可能。もう『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止めるには|犠牲《ぎせい》を出すしかない。分かってるだろ、本当は分かっているんだろう? それでも認められないか、この方法が」  何も聞こえなくなっているはずなのに、その声は|何故《なぜ》か鮮明に上条の耳に届いた。  だからこそ、上条は答える。 「……、当たり前だ。そんなもの」聞こえているかは分からないが、「……何で、そんなものを認めなくっちゃならねえんだ。みんなで笑ってみんなで帰る、それ以外の結末なんて認めたくない!」  そっか、と土御門は言った。  それだけだった。 「———|場ヲ区切ル事《それではみなさん》。|紙ノ吹雪ヲ用イ現世ノ穢レヲ祓エ清メ禊ヲ通シ場ヲ制定《タネもシカケもあるマジックをごたんのうあれ》」  土御門は|懐《ふところ》からフィルムケースを取り出すと、フタを開けて中身をばら|撒《ま》いた。  一センチ四方の四角い紙片が大量に舞い上がる。 「———|界ヲ結ブ事《ほんじつのステージはこちら》。|四方ヲ固メ四封ヲ配シ至宝ヲ得ン《まずはメンドクセエしたごしらえから》」  ギィン!! と周囲の空気が凍りついた。  空気が変わる。うだるような熱帯夜から深い森の奥の泉のようなものに。 「———|折紙ヲ重ネ降リ神トシ式ノ寄ル辺ト為ス《それではわがマジツクいちざのナカマをごしようかい》」  土御門は構わず、さらに何かを眩きながら四つのフィルムケースを取り出す。  |亀《かめ》、|虎《とら》、鳥、|龍《りゆう》。小さな動物の折紙が入ったフィルムケースを部屋の四方へと放り投げ、 「———|四獣二命ヲ《はたらけバカども》。|北ノ黒式《げんぶ》、|西ノ白式《びやつこ》、|南ノ赤式《すざく》、|東ノ青式《せいりゆう》」  |土御門《つちみかど》の言葉に対応するように、四方の壁が淡く光り始めた。  黒、白、赤、青。折紙の色に合わせて四つのフィルムケースを中心に壁が輝いている。 「———|式打ツ場ヲ進呈《ピストルはかんせいした》。|凶ツ式ヲ招キ喚ビ場ニ安置《つづいてダンガンをそうてんする》」  |魔術《まじゆつ》だ、と|上条《かみじよう》は何となくそう思った。  その|拳《こぶし》だけで簡単に人を殺せるはずなのに、まるで無力な上条に見せ付けるように。 「———|丑ノ刻ニテ釘打ツ凶巫女《ダンガンにはとびつきりきようぼうな》、|其ニ使役スル類ノ式ヲ《ふざけたぐらいのものを》」  だが、ちょっと待て。  上条は何か違和感を感じて、思わず土御門の顔を見た。 「———|人形ニ代ワリテ此ノ界ヲ《ピストルにはけつかいを》」  土御門は笑っている。  土御門|元春《もとはる》は心底楽しそうに笑っている。 「———|釘ニ代ワリテ式神ヲ打チ《ダンガンにはシキガミを》」  楽しそうに笑った土御門の口の端から、こぼりと血が|溢《あふ》れた。  それでも、土御門は言葉を止めない。 「———|鎚ニ代ワリテ我ノ拳ヲ打タン《トリガーにはテメエのてを》」  超能力者に[#「超能力者に」に傍点]、魔術は使えない[#「魔術は使えない」に傍点]。  それは|土御門《つちみかど》が始めに言っていたはずだ。元より|魔術《まじゆつ》を使ってはいけない体で、もうすでに「|御使堕し《エンゼルフオール》』対策に無理をしている。もう一度魔術を使えばボロボロの体は死に至る、と。  それならば、|何故《なぜ》魔術など使おうとする?  |素人《しろうと》の|刀夜《とうや》など、その|拳《こぶし》一つで簡単に|殴《なぐ》り殺せるはずなのに。 「言っただろう、カミやん」土御門は、笑いながら、「『|御使堕し《エンゼルフオール》』を止める方法は二つある。術者を殺す事と、その魔法陣を完全に|破壊《はかい》する事」  まさか、と|上条《かみじよう》は思った。  術者たる刀夜を殺すのに、わざわざ魔術を使う必要はない。  それならば、土御門の言う『解決法』とは。 「|神裂《かんざき》は、優しいから」土御門は、切れ切れに、「きっと、こんな方法を使うって言い出せば、絶対に止めに入る。あれは、そういう人だから、な」  見えないカッターで切り裂くように、土御門の体のあちこちから血が|溢《あふ》れた。  そうだ、土御門は言っていた。この事態を止めるためには、|誰《だれ》かが|犠牲《ぎせい》になるしかないと。  しかし、土御門はたったの一度だって、  上条刀夜を殺すとは[#「上条刀夜を殺すとは」に傍点]、言わなかった[#「言わなかった」に傍点]。  土御門は、あっという間にボロボロになっていって、それでも笑っていた。 超能力者が|魔術《まじゆつ》を使えばどうなるか、自分が一番良く分かっているはずなのに。  良く分かっているからこそ、無数の裏切りと反則技を習得したはずなのに。 「……や、めろ」  上条は、思わず|呟《つぶや》いていた。  しかし、土御門は、 「く、ふふ。まぁ、そう言うと思った、そう言うと思ったからこそ、動けなくしたんだよ。カミやん、お前は神裂に良く似てるから。こんな方法を使うって分かれば、全力で止めたに違いないから。そうだろう? そうでなければ守る意味がない[#「そうでなければ守る意味がない」に傍点]」  子供のように、笑っていた。  なんて、|馬鹿《ばか》げた話。  大切な何かのために土御門は強くなったと思っていたが、そんな大層なものじゃない。彼が守りたかったのは、|偽り《スパイ》と知りながらも送り続けたあの学園生活だったというだけの話。 「なあに、|大丈夫《だいじようぶ》さ。『|御使堕し《エンゼルフオール》』程度、オレの術式なら超距離砲撃で|儀式場《ぎしきじょう》ごと丸々吹き飛ばせる。得意の黒ノ式———『水』を『神の力』に持ってかれたのは痛手だが、たまには慣れない赤ノ式というのも乙なものだ」  土御門は簡単な事のように言う。だが、 「さんざん殴って悪かったな、カミやん、本来ならクロロホルムを使うべきなんだろうが、あれはハンカチに|染《し》み込ませて口|塞《ふさ》いでも数分間は気絶しないんだ。カミやんの場合、その数分間は決して楽観できる持ち時間ではないし。こちらの持ち玉も少ない事だし、強攻策を取らせてもらったぜ。この術式は失敗する訳にはいかない。その右手——|幻想殺し《イマジンブレイカー》で|邪魔《じやま》をされる……可能性としちゃ低いが、決してゼロではないだろう?」|土御門《つちみかど》はゆっくりと目を細めて、「なあカミやん。人間なんてのは簡単に死ぬ。本当に簡単に死んでしまうんだ。オレはそれを知っているんだよ。だからこそ、万に一つ———一%の一〇〇分の一でも失敗する可能性があるなら、そんな可能性は絶対に|潰《つぶ》さなくてはならない。人の命っていうのは、そういうものだろう?」  だから、この|魔術《まじゆつ》は万に一つの失敗もなく、絶対に成功させるから。  カミやんは何も心配しなくて良い、と土御門は告げた。  だけど、それは。  今のボロボロの土御門|元春《もとはる》が、もう一度魔術を使うという事は。 「あはは。『|誰《だれ》かが|犠牲《ぎせい》にならなきゃいけないなんて|残酷《ざんこく》な法則があるなら、まずはそんなふざけた幻想をぶち殺す』か。あれは良かったなぁ。オレに向けられたものじゃなかったけど、それでも|響《ひび》いたな」  土御門は、何かを思い出すように言った。  まるで、死に|逝《ゆ》く病人のような静かな笑みを浮かべて。 「ば、か。やめろ……、」  |上条《かみじよう》は、必死に手を伸ばそうとする。だが、その手は届かない。それどころか、指先一つ動かせない。目の前に土御門はいるのに。今すぐ止めなければならないのに。  土御門は、そんな上条を見て、 「やめろって、そんな願いは聞き入れられないな」  本当に、友人に最後の言葉を贈るように、 「忘れたかにゃー、カミやん。オレって実は|天邪鬼《ウソつき》なんだぜい」  そうして。 上条|当麻《とうま》の目の前で。  土御門元春は、いつものようないつもの声で歌って、最後の|呪《じゆ》を|紡《つむ》いだ。  目を|潰《つぶ》すほどの白光が|濡《あふ》れ返り、屋根を突き破って何かが夜空へ解き放たれる|轟音《ごうおん》だけが耳に|炸裂《さくれつ》した。|獣《けもの》の|咆哮《ほうこう》に似た爆音は夜空を引き裂き一点を目指して飛んでいく。  あの方角は、上条の家か。  最後の|一撃《いちげき》が、|全《すべ》てを終わらせるのか。  数々の打撃のダメージが遅れて響いてきたのか、上条の意識が|薄《うす》れていく。  何かがゆっくりと倒れる音が確かに聞こえた。ごとん、と。まるで飽きて捨てられた人形のように、|土御門《つちみかど》は手足を投げ出して床の上へと倒れ込んだ。  巨大な満月の浮かぶ夜空が、燃えるような夕焼けへと戻っていく。 『神の力』の術式によって変えられた『夜』が、元の『夕暮れ』へと、  ある少年のすぐ|側《そば》には、一人の少女が倒れていた。  CHC13———薬品によって眠らされている、インデックスの姿。  彼女の姿がぼんやりと|霞《かす》んだ。|刹那《せっな》、床に倒れているインデックスの姿が、別の女性のものへと切り替わった。|上条詩菜《かみじようしいな》。ある少年の母親だ。  入れ替わりが解けていく。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』が解けていく。 「つ、ち。みかど?」  さんざん打ちのめされた少年は、激痛の末に意識を失う直前、そう言った。  返事はない。  うつ伏せに倒れた土御門の、顔と床の|隙間《すきま》から、じわりと赤い液体が|溢《あふ》れてきた。  その体が静かに、血の海へと沈んでいく。  それでも、土御門は動かなかった。  ピクリとも、動かなかった。 [#改ページ]    終 章 日常世界のマイベトレイヤー  気がついたら、病院の一室だった。  設備や何やらを確かめた限り、ここは学園都市の病院らしい。まあ、それもそうかと|上条《かみじよう》は思う。上条は超能力者で、その開発には様々な薬が使われている。血液一つ調べられれば、そこから良く分からない企業秘密が|漏《も》れていく可能性もある。一般の病院には回せない。  ベッドに寝そべったまま、窓の外を見る。  昼下がりの午後、と呼ぶには日差しの強すぎる八月の空。その下には、見舞いに来た親子連れや、看護婦に|車椅子《くるまいす》を押してもらっているおじいさんなどが歩いていた。テレビの中ではニュースキャスターのお姉さんが|火野神作《ひのじんさく》が再逮捕された事を伝えている。  サイドテーブルの上にはルーズリーフに書かれた手紙のようなものが置いてある。そこにはボールペンで一文『とりあえずはお帰りなさいだね? 上条|当麻《とうま》クン?』と書かれていて、手紙の端に小さなアマガエルのシールが|貼《は》ってあった。担当医はまたあの人か、と思いつつ上条はベッドへ身を沈め、静かに両目を閉じる。  何もかもが元に戻った世界。  何もかもが元に戻った世界、だって。ふざけるな。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』は確かに効果を失った。街の人|達《たち》も世界中の人々も、みんな元の通りに戻っているだろう。自分達が異常に巻き込まれた事にも気づいていないと思う。術式が中断された副作用か、天使の『一掃』含む事件中の|記憶《きおく》が改ざんされているようなのだ。  それでも、決して戻らないものもあるのだ。  ある少年は自らの死を覚悟して、なお上条に笑いかけたのだから。 「……、何なんだよ。ちくしよう」  上条は|誰《だれ》もいない病室で一人、ポツリと|呟《つぶや》いた。  |土御門元春《つちみかどもとはる》は、上条当麻の日常を守ろうとしたみたいだけれど。  たった一人欠けてしまった世界が、日常などと呼べると思っていたんだろうか。 「何なんだよ、ちくしょう!」  欠けた日常の中で、上条は叫ぶ。  決して戻る事のできない日常に対する|慟哭《どうこく》のように|吼《ほ》えた|瞬間《しゆんかん》、 「ひっさしぶりだにゃーっ! カミやん、元気にしてたぜよ?」  まったくありえない事に、|土御門元春《つちみかどもとはる》が病室に乱入してきた。 「———、って、え? ちょっと待て! 何だこれ、クローン技術の予備ボディか?」 「ふっ、そんな使い回しのトリックを乱用するほど土御門さんは没個性ではないですたい」  ニヤリと笑う少年のあちこちには包帯が巻いてある。  土御門は|御使堕し《エンゼルフオール》発動時は超美形アイドル『|一一一《ひとついはじめ》』になっていたはずだが……|御使堕し《エンゼルフオール》発動時の『|怪我《けが》」や『|記憶《きおく》』は一一一の方へ戻らないんだろうか? それとも、土御門は変な|魔術《まじゆつ》で|御使堕し《エンゼルフオール》に抵抗していたせいで、例外となったのだろうか?  いや、それ以前に。  そもそも、何で土御門は生きてるんだろう?  |上条《かみじよう》はとりあえず|枕《まくら》を投げつけてみた。 「あ、ちくしょうちゃんと当たってる! すり抜けねえ!? って事はこれは夢空間に逃げ込んだ|俺《おれ》の幻覚じゃねーのか!」 「幻覚でも|幽霊《ゆうれい》でもないにゃー。キチンとナマ土御門さんですよ?」 「けど、でも何で!? お前は超能力者だから回路が違うので魔術を使うと死んじゃう体とか何とか色々説明してたのは何だったんだ!!」 「ああ、あれウソ」 「う、!?」 「だってほら、土御門さんは基本的にウソつきだし」土御門は片手をパタパタ振って、「土御門さんのチカラは|貧弱《レベル0》な|肉休再生《オートリバース》ってヤツでね、ホントは魔術も四、五回やっても|大丈夫《だいじようぶ》なんだけどメンドイし。そんな事を正直に言ったら教会からギリギリまで魔術を使えって催促されるし、正直かったるかったんですたい。ごめんちゃい♪」 「うばあああああああああ!!」  次の|瞬間《しゆんかん》、上条は思わず自分が|被《かぶ》っていた|布団《ふとん》を土御門に向かってぶん投げた。  土御門はこれを半歩移動しただけで軽々と|避《さ》けて、 「おっとっと。カミやん、ここは感涙にむせび泣くシーンですぞ?」 「うるせえ! もう本格的にダメだなテメェは! じゃあ何なの? 俺が最後にボッコボコにやられた理由は一体何だったんだ!?」 「いやぁほら。演技は詰めまでやっとかないと。それにカミやん、死なないから大丈夫って言ったって止めたんじゃないのか。それならダッシュで実家へ行って|幻想殺し《イマジンブレイカー》使えば|誰《だれ》も傷つかずに済むとか何とか言って。その右手でオレの式を|壊《こわ》されちゃたまらないからにゃん」  う、と上条は少し|黙《だま》った。  反論が来ない事を良い事に、土御門は強引にこの話題を打ち切ってしまう。 「はいはい感動の再会シーンはここらにしておいて、いやーカミやん、今回もホントにギリギリお互い良く生き残れたよなー」 「|俺《おれ》はお前に殺されかけたんだしお前はピンピンしてんじゃねーか!」 「あー|神裂《かんざき》ねーちんの事なら心配しなくて|大丈夫《だいじようぶ》ぜよ。ちょっと弱ってるけど、もうリハビリのために|馬鹿《ばか》長い日本刀でリンゴの皮むきとかやってるし」 「聞けよお前! いや無事なのは|嬉《うれ》しいけどさ!」 「しかし残った問題が一つ」|土御門《つちみかど》は聞いていない。「さて今回の一件。結局|誰《だれ》がその責任を取れば良いのやら、って事だぜい」 「……、」  |上条《かみじよう》は|黙《だま》り込んだ。  結局、悪気があったかどうかはさておいて、「|御使堕し《エンゼルフオール》』|騒動《そうどう》を引き起こしたのは|刀夜《とうや》だろう。そのせいで世界中が混乱して、残った|魔術師達《まじゆつしたち》は血まなこになって世界中を飛び回り、|火野神作《ひのじんさく》はとばっちりで|大怪我《おおけが》をして、神裂なんか本物の天使と戦う羽目になった。  ならば、やはりその責任の一端は刀夜にあるのかもしれない。  しかし、その責任はどうやって取るものなんだろう?  上条は一人の|錬金術師《れんきんじゆつし》を知っている。アウレオルス=イザード。学園都市の中で|騒動《そうどう》を起こし、世界で誰も成功した事のない|奥義《おうぎ》『|黄金練成《アルスロ=マグナ》』を|会得《えとく》していた彼は、その秘法を求める様々な組織・機関に|狙《ねら》われる事になった。今は整形手術をして別人として生きているはずである。 『|御使堕し《エンゼルフオール》』も同じようなものではないだろうか。  だとすると、これから刀夜に待っているのは。 「……。一応、オレは学園都市に|潜《もぐ》り込んだイギリス清教のスパイって立場にあるから、教会から問われたら真実を話さないといけない義務があるんだけど」  土御門はちょっとだけ悩むような顔でそう言って、 「けどメンドイし土御門さんは基本的にウソツキなのでテキトーにでっちあげるにゃー」  おい! と上条は思わずツッコんだ。  そんなに簡単に事を進めてしまって大丈夫なんだろうか? 「大丈夫大丈夫。まあイギリス清教は魔女狩り・異端審問の|最先端《アドバンス》なのでウソつきは|拷問《ごうもん》の始まりな訳だけども、そんな事を言ってたらスパイは勤まらないんだぜい」チッチッ、と土御門は人差し指を振って、「あ、それとカミやん。また一個ウソ。オレは学園都市に潜り込んだスパイって言ってたけど、実は逆ぜよ。味方のふりしてイギリス清教の秘密を調べる逆スパイですたい。だからウソつく事には何のためらいもナッシング」 「な……っ?」 「しかもそれもウソ。ホントはイギリス清教とか学園都市の|他《ほか》にもいろんな機関・組織から|依頼《いらい》を受けてるから、逆スパイどころか多角スパイですたい」 「何だコイツ!? っていうか、それって結局ただの口が軽い人じゃねーか!」  いわば様々な組織がごひいきにしている情報屋みたいなものなのか? と|上条《かみじよう》は首をひねる。 「今日ここまで訪ねてきたのも口裏合わせるためなんだけど、カミやんどうする? ここは和風っぼく|立川流《たちかわりゆう》の残党でも生き残ってたって事にしとくかにゃーん?」 「うわもーコイツ本当に信じらんねえ! お前と秘密を共有したくねえ!!」  上条は頭を抱えて半分以上本気で叫んでみる。  あっはっは、と|土御門《つちみかど》は軽く笑い飛ばして、 「けどにゃー。土御門さんは確かに|騙《だま》しウソつきチクリ裏切り何でもアリだけど、仕事とプライベートはきっちり分けてるにゃー。プライベートに|仕事《うそ》は持ち込まないから安心するぜよ」 「……、」  じーっと、上条はしばらく不審そうに土御門の顔を見る。  それから、やがて疲れたようにため息をついた。 「ま、すでに父さんの顔が割れてる時点で、お前を信じるしか道はねーんだがな。 一応言っとくぜ、ありがとう。お前は父さんの命の恩人だよ」 「いやー、そんな|誉《ほ》められるような事はしてないぜよ。なんだかんだで結局『|御使堕し《エンゼルフオール》』止めるためにカミやんの家を爆発四散させちゃったしにゃー」  え? 「ちょ、待って。土御門、お前今なんて言った?」 「あん? だからカミやん家はオレの式神で爆発四散したんだよ。あの家、そこら中に|神殿《ブースター》の支柱を構成する『おみやげ』あったからさ、一発で全部|壊《こわ》すとなると家ごとやらなきゃいけなかったんで」 「いけなかったんでじゃねえよ! ヤバイよ両親そろって家なき子か? あの家絶対ローンも払い終わってねーぞ!」 「あ、そうそう」土御門は聞いていない。「問題と言えばまだあったか。カミやん、『|御使堕し《エンゼルフオール》』が起きてた間に『入れ替わってた』人|達《たち》の|記憶《きおく》は、元の所へ戻る仕組みになってるから。AさんがBさんに『入れ替わった』場合、Bさんとして過ごしたAさんの記憶はBさんの元へ移されるって理屈。これ覚えておいて損はないにゃー。ま、オレや|神裂《かんざき》ねーちんは術式使ったから例外扱いっぽいけど」 「ごまかすな!! ホントにどうすんだよ|我《わ》が家は!?」  悲痛な上条の叫びに、土御門は『あっはっは』と笑って病室を出て行ってしまった。  うわあやっぱり信用できねーっ! と上条は叫んだが|大怪我《おおけが》しているのでベッドから降りる事ができない。何もできないままぽっかり口の開いた出入ロを眺めていると、不意にふらりと|幽霊《ゆうれい》みたいな足取りで|誰《だれ》かが病室に入ってきた。  白いシスター銀髪外国人少女・インデックスである。  そのいつもとあまりに違うどんよりムードに、|上条《かみじよう》は思わず|土御門《つちみかど》の事も忘れてインデックスを|凝視《ぎようし》した。彼女はぐったりとうな垂れているため、前髪が|邪魔《じやま》になって表情を読む事すらできない。 「な、何だインデックス。日射病にでもなったのか? ったく、このクソ暑いのにそんな|長袖《ながそで》の修道服なんか着てるからだぞ。お前日本の夏をナメてんじゃ———」 「……、ぶたれた」  ポツリ、と。|遮《さえぎ》るようにインデックスは|呟《つぶや》いた。  なに? と上条はインデックスの言葉に|眉《まゆ》をひそめ、 「とうまにぶたれた[#「とうまにぶたれた」に傍点]!」  ナニィっ! と上条はインデックスの意味不明ワードにビクリと肩を|震《ふる》わせた。断言するが上条|当麻《とうま》に家庭内暴力の覚えは|皆無《かいむ》である。  なのに、インデックスは半泣き状態で上条の顔を|睨《にら》みつけて、 「せっかくせっかく海に行くっていうから楽しみにしてたのに行ったら行ったでとうまは全然私の方見てくれないしちょっかい出すたびに本気でぶってくるし挙げ句の果てには背中に向かって声かけただけで砂浜に首だけ残して埋められたっ! これは一体どういう事!?」  むぎゃあ!! という少女の叫び声に上条は訳が分からなくなったが、  あ、と、何か、唐突に思い出してはいけない事を思い出してしまった。  ———カミやん、『|御使堕し《エンゼルフオール》』が起きてた間に『入れ替わってた』人|達《たち》の|記憶《きおく》は、元の所へ戻る仕組みになってるから。  そう言えば。  そう言えば、『|御使堕し《エンゼルフオール》』が起きていた間、インデックス役は青髪ピアスだったはず。  ———AさんがBさんに『入れ替わった』場合、Bさんとして過ごしたAさんの記憶はBさんの元へ移されるって理屈。  するとどうだろう? 青髪ピアスが『インデックスとして過ごしていた記憶』は、インデックスの『思い出』として移し変えられたのだとしたら?  確か、上条は修道服を着ていた青髪ピアスごとドア板を思いっきり閉めたり、思わぬ水着姿の青髪ピアスを反射的に砂に埋めていたような気がするが、まさか。  |上条《かみじよう》は、インデックスの顔を見る。  半泣き状態で怒りに燃えたインデックスが、犬歯を|剥《む》き出しにして近づいてくる。 「あ、いや、ちょっと待って。チョットマッテクーダサーイインデックスサン! これには深い訳がというかアナタの知らない内に実は世界の危機が一度あってですね————ッ!?」 「うるさいっ! このマザコン!まったく自分のお母さんばっかりジロジロジロジロ気にしちゃってさ、この扱いの差は何なんだよう!?」  さくーん、と言葉の|刃《やいぼ》が上条の額の真ん中に突き刺さる。  注)ちなみに『|御使堕し《エンゼルフオール》』発生中はインデックス=母親役でした☆ 「だからそれには深い事情がある訳でーって何でこうなんだよ? |俺《おれ》頑張ったじゃん、俺お前のために頑張ったじゃんホントにもうさあ!!」  言い訳が途中から泣き言に変わっている上条だが、インデックスは気にも留めない。  彼女は言う。 「ゼッタイ、許さない! とうまの|頭骨《ずこつ》をカミクダク!」  そんなこんなで、上条の日常は不幸と絶叫から再開された。 [#改ページ]    あとがき  シリーズをごひいきにしていただいている皆さんはお久しぶり、  四冊もの物量をまとめ買いされたブルジョワな|貴方《あなた》は初めまして、  |鎌池和馬《かまちかずま》です。  何だか気づいてみれば四冊目です。しかし、冷静に振り返ってみると活動期間はまだ一年にも満たないんですよね。おかげさまで|拙作《せつさく》も何とかシリーズと呼べるだけの物量になりましたが、そう考えると一年という時間の価値は決して|馬鹿《ばか》にはできないんだなと痛感してみたり。冷静に考えれば全寿命の一〇〇分の一を『とある|魔術《まじゆつ》?』に注ぎ込んでいるんですよね。この一文だけ抜き取ると、えらく|儀式的《ぎしきてき》に聞こえますけど。  さて、本書読了後の皆様ならお分かりの通り、今回は『召喚術』がテーマです。一口に『召喚』と言っても様々なタイプがあるらしく、死者の|霊《れい》を体に移すイタコさんから水星の力をアクセサリに込めるタリスマンまで、呼べるモノも呼び出す方法もたくさんあるようです。  天使や悪魔の召喚というと、おどろおどうしい魔法陣に向かってお祈りするようなイメージがあった鎌池でしたが、どうも実際の十字教(の神話上)では少し違うそうです。何でも、わ ざわざ呼び出さなくても、人間一人につき天使と悪魔はワンセットで付いているモノだとか、マンガなどで良くある表現の『物欲などを刺激された際、小さな天使と小さな悪魔が頭の周りをグルグル回って 言い争いをする』というのは、元を|辿《たど》ると案外シリアスな文献に突き当たりそうです。  イラストの|灰村《はいむら》キヨタカさんと担当の|三木《みき》さん、いつもいつもありがとうございます&ご迷惑おかけしております。本書の|主成分《メリツト》はあなた|達《たち》が|全《すべ》てでできていると言っても過言ではありません。今後ともよろしくお願いします。  そして読者の皆様。週刊マンガの単行本並のハイペース刊行が許されるのも皆様が拙作を手に取ってくださった結果です。ありがとうございますと礼を述べると同時、これからもよろしくお願いしますと重ねて二回、頭を下げたいと思います。  それでは、拙作のページをひとまず閉じつつ、  拙作の続きが皆様の想像の中で開かれる事を願いながら、  本日は、この辺りで筆を置かせていただきます。 ……夏休みが長すぎて、ちっとも学園モノにならない[#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] とある魔術の禁書目録4 鎌池和馬 発 行 2004年12月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 佐藤辰男 発行所 株式会礼メディアワークス 平成十八年十一月六日 入力・校正 にゃ?